池の谷戸の話

原文:神奈川県川崎市高津区


高津区末長

昔梶ヶ谷のあの池の谷戸には池がありました。それはそれは大きな池でこちらの岸からむこうの岸ははっきり見えないほどの広さでありました。ところがこの池には池の主だという大蛇が棲んでいるという事で誰の一人ではこの池の端へ近寄る者はありませんでした。

この池の下には一軒の家がありましたがある晩そこの家のおばあさんが一人でるす番をしていると軒の下でかすかな人のいびきが聞こえます。

「はておかしいな、今頃こんな人里はなれた所へ来る者はないはずだが。それにしてもあれはたしかに人の寝いびきらしいが。」
とそのおばあさんは自分の耳を疑いながら首をかしげてじっときき入りました。夜は風一つない静けさで木の葉がすれ合う音さえありません。

「グウ、スウ」
たしかに人のいびきです。
「はてまあこの夜更けに誰だろう。」
なおもじっと耳をすまして聞いていましたが何だか気味悪いので立って戸を開ける気にもなれません。いろいろ考えているうちにだんだんこわくなってきました。こわくなるにつれてそのいびきがへんになってどうも人間らしくないような気がしてきました。

グルグル、ゴロゴロ、……

おばあさんはいつまでこうしていても仕方がないと思って、おののく足をふみしめ、やっと元気を出して恐る恐る座敷の戸を細目にあけていびきのする方を見やりました。するとまあ驚くじゃありませんか、そこには水もしたたるようなそれはそれは美しい女が寝ています。朧月夜ではありましたが、その姿がはっきりと眼にうつりました。身の丈ほどの長い髪毛を振りほどき顔はむしろ青いほどすきとおっています。首すじは雪のように真白でその姿は天女のようでした。

おばあさんは今までこんな美しい女を見たことがありませんでした。全く我を忘れてその女の寝姿に見とれていると、まあ不思議ではありませんか、その女がむくむくと起き上がり、
「この事を誰にでも話したら承知しないぞ」
と言ったかと思うとたちまち雲をつくような大蛇の姿となり耳まで裂けた大口から炎を吐き、眼からはいなずまのような光を放ちうろこを銀のように光らせながら風を呼びすごいうなり声を出しながら渦巻く池の中へおどり入りました。(中略)

ところがそれから数日たって村の腕白な子供達が大勢してそぼ池のふちを通っていると、そこに一匹の小さな蛇が寝ていました。いたずら盛りの子供達なので、
「やあ、この野郎ぶんなぐれ。」
とわいわい言いながら石ころや棒きれでさんざんにその小蛇をぶんなぐりました。そしてそれを池の中に投げこみました。するとその小さな蛇はたちまちむこうの岸へとどくほどの大きなおろちにかわり白い腹を横たえて浮かびとうとう死んでしまいました。

村の人々は後のたたりを恐れ小さな祠を建ててその主をまつりました。そのためかその後何のたたりもなく、村の人々もいつしかこのことを忘れてしまいました。

『郷土之お話』上之巻 第八話

(※「中略」は『川崎物語集 巻四』上の略)

『川崎物語集 巻四』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より

追記