綱下げ松

原文:神奈川県川崎市高津区


高津区下作延

文政五年の六月なかばには、関東地方に毎日大雨が降り続き、堤防のなかった多摩川は、大洪水になりました。

田や畑は川に沈み、家や人々は押し流され、草や木の根につかまって、助けを求めていました。

その時、丘の上の老松から、白い布でできた綱が何本も下がり、流れてきた人々をみな助けました。

しかし、後に白い布だと思ったのは、実はこの松の木の下に住む白蛇であったことがわかり、村人達は白蛇のために松の木の下に、松寿弁財天を建て感謝しました。

小林綱良「下綱のゆらい」(『川崎市ちゅうおう農協』一一九号 昭和五七年三月 三頁)

参考:高津区下作延

昔、多摩川の大水のときに上流から流されてきた人々が、この松から白い布が垂れ下がっているのを見て、その布につかまって岡に上がり命が助かったという。

最後に上がった老婆が欲心を起こしてその白い布を持ち去ろうとした。すると、その白い布が見る見るうちに大きな白蛇に化して老婆を呑もうとした。驚いた老婆は一心に詫びて、松の下に松寿弁財天の祠をつくり白蛇を祀って信仰した。それからというものは、老婆は幸運に恵まれてしあわせな生涯を送ったという。

(中略)

下げ綱松は天保初期に枯れたといわれ、明治二十二、三年ごろまではその枯れ松の根元が周囲三メートルぐらい残っていた。その根元をいじるとたたりがあるというので誰も手をふれなかったという。また、お天気の変わりめには松寿弁財天の白蛇が枯れ松の根元に出て鎌首を持ち上げていたという。

昭和初期に東京のある人が松寿弁財天に信仰して御利益があり、当時、千円という大金を寄付して新しい祠を造りかえた。そのとき、古い祠の絵馬の中から長さ三十センチぐらいの白蛇が出てきたという。

昔から下げ綱地区の守り神は白蛇といわれており、今でも蛇を見ても殺さない。

『川崎の民俗』 一五七頁

参考:高津区下作延

南武線の久地は梅の名所でした。いまでも農家の庭先や、山の陽当たりの良い所には梅の古木がたくさんあります。この久地のとなりは宿河原といいます。昔の多摩川はこのあたりを流れていたのでこの地名がついたのだといわれています。南側は多摩丘陵で昔は人家が六戸しかなかったそうです。

でもこの丘の上には村の守り神でりっぱな弁才天のお宮がありました。村中を一目で見渡すことの出来る弁天さまのすぐわきには、これはまた大人が四人でかかえるほどの大きな松の木がありました。村の人たちはこの弁天さまと、美しいすがたの松が自慢でした。

さて、ある年の夏の事でした。三日間も続いた大雨で川上の方の堤防が切れたのです。

赤く黄いろく濁った水はたちまちこの平和な村を水びたしにしてしまいました。村の人達は丘の上の一本松の下に集まりました。

その時、川上の方から沢山の人が水に流されてくるのを見て村の人達は自分の家から縄を持ちより長いのや短いのをたくさん作り、松の幹や枝にしばりその先の方を流されてくる人がつかまりやすいようにしておぼれている人達を助けることが出来ました。

その後、人々はこの松のことを「綱下げの松」と呼ぶようになり、助けられた人は命の親として松を大切にし弁天さまとともに名所の一つとなりました。

やがてこの松の木は枯れ、二代目の松も枯れて幹だけが昔のすがたを残しています。やがて町の人達にも忘れられてしまうことでしょう。このあたりの地名を「下げ綱」というめずらしい地名としてわずかに語り伝えられています。

『かわさきのみんわとでんせつ』 第二集 二四頁

参考:高津区下作延

村の巽の方丘の上にたてる古松樹なり、岡下の田地を下綱と字す、樹辺は長尾上下作延と当村すべて四村の接地なれば、此木を以界域をかわてり、大さ三囲にして枝葉いとうるはし、

相伝ふ太閤秀吉小田原陣の時、神宮寺の城に向ひし搦手の奇手、上杉家の兵この松に綱を下げて丘下に下りしゆへかく名づけしと、其途の次第はこゝより日野にかゝりて神宮寺に打向ひしといへり、

『新編武蔵風土記稿』 巻之六十一 宿河原村

※「中略」は『川崎物語集 巻三』上の略。

『川崎物語集 巻三』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より

追記