綱下げ松

神奈川県川崎市高津区


文政五年六月、大雨が続き、多摩川が大洪水を起こした。田畑は川に沈み、家や人々は押し流され、草や木の根につかまって助けを求めていた。

その時、丘の上の老松から白い布でできた綱が何本も下がり、流れてきた人々を助けたのだという。後に、この白い布と思ったものが、松の木の下に住む白蛇であったとわかり、村人たちは松の下に松寿弁財天を建て感謝したそうな。

『川崎物語集 巻三』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より要約

追記

同地域には七本松などといって名のある松が色々にあり、そのいくつかに蛇の話がある(例えば南側向ヶ丘の「しばられ松」などもそう)。この綱下げ松もそのひとつで、緑ヶ丘霊園の北端にあった。松壽弁財天は今もそこにあるが、松はもうない。

類話には、白い布が流れる人を助けた後、欲心を起こした婆さんが布を持ち去ろうとしたら蛇であったので、驚いて弁天と祀ったなどともいう(角田益信『川崎の民俗』)。白蛇は天気の変わり目に顔を出して知らせたりもしたのだそうな。

松のあった高台は河岸段丘となるが、そこから北(多摩川側)に下りたところを下綱といい(また近く「久地」駅があるのももっともだろう)、その地名由来となる松でもある。しかし、上の話のみが由来ではなく、上杉の兵が松に綱をかけ丘を下って進軍したから、などともいった(『新編武蔵風土記稿』)。

さらに、洪水に流される人を助けた話ではあっても、蛇は出てこず、近隣の村人が松から綱を下げて、上流から流れ来る人々を助けたというより現実的に語るものもある(小林綱良『かわさきのみんわとでんせつ 第二集』)。

松壽弁財天は天保頃に養蚕守護の弁天として人気を博したといわれ(「松寿弁財天」)、その結果弁天(蛇)と綱を下げた松の関係が深く語りなおされるようになったものかもしれない。

もっとも、多摩川の洪水の禍の多かった地域ということで、このあたりの蛇はよく洪水から人を助けはする。同じく樹木の蛇ということでは、井田の「毘沙門天の大銀杏」の蛇も洪水から村を救ったそうな。