竜灯観音

原文:神奈川県川崎市幸区


幸区小倉

夢見が崎の西の小倉に天台宗・無量院がある。境内の観音堂には、千手観音が祭られ胎内には、みそね観音といわれる六センチほどの観音が安置されている。

小倉池の近くに屋号を「みそね」という家がいまもあるが、むかし、このみそね家の嫁が急に行方知れずになった。家の者は、捜しまわったがわからぬまま正月十四日を迎えた。

みそねのじいさまは、小正月のマユダマ(米の粉でつくった団子)を刺す柳の枝を切りに小倉池へ行き、切ろうとしたとき鉈を池にすべり落とした。じいは、入って拾おうとしたが底なしの池でいつの間にか竜宮にきていた。そこには、行方知れずになっていた嫁が機を織っていた。嫁は、喜んで厚くもてなしてくれた。三日後、じいは家へ帰りたいというと嫁は、わたしがここにいるということを他言しないでくださいと頼んで土産に玉手箱をくれた。

じいが、家へ帰ってみると、じいの三回忌の法事がしめやかに行われていた。じいは、みんなから問いつめられてついにすべてを話したとき血を吐いて亡くなってしまった。玉手箱の中には、小さな観音様と竜の鱗が入っていた。

みそね家では、この二つを無量院へ納めた。寺では観音を千手観音の胎内に納め一二年ごとの午の年にとり出して供養している。竜の鱗は、常明灯の中に納めた。すると、そばの松の木から灯がともるようになったという。この松を竜灯の松とよんでいた。

『神奈川の伝説』二一頁

参考:幸区小倉

小倉用水池は一町八反といわれたが、その地域の中に、お釜と呼ばれる場所があった。(中略)お釜と呼んだ場所は、用水池の中でも水底が深く、底無しの沼といわれていた。

そのお釜の近くに、ミソノ(ミソネといっていた)という家号をもった家があった。その家にお爺さんがおり、そのお爺さんを村の人はミソノ爺さんと呼んでいた。ミソノ爺さんが二月十三日に、お釜へ柳の枝を切りに行った。二月十三日に柳の枝を切りに行ったのは、小正月のマユ玉飾りに使うためであった。小正月は一月十四日・十五日だが、二月十三日は一ヶ月おくれの小正月の前日である。一ヶ月おくれで小正月を祝ったのである。

お釜の周辺は、水がじくじくしていて、ヨシが生えていなかった。モロイと呼ぶ場所は、それだけ深かったためらしい。この底無し沼のモロイという場所へ、ミソノ爺さんは、柳伐採用のナタを落としてしまった。お爺さんは大切なナタを落としてしまったので、夢中でそのナタを取りあげようとしたが、ナタはブクブクと沼底へ入ってしまい、お爺さんもそれに引かれるようにずるずると底無し沼へ引きずり込まれてしまった。そして、お爺さんは再び帰ってこなかった。

家の人は、お爺さんが死んでしまったものと思いこみ、毎年、盆や命日に法事をして供養していた。ミソノ爺さんは、生前、池のたもとにあった万財寺の総代をしていた。(中略)

お爺さんがなくなって三年後、今年もまたお爺さんの法事をしていた。ところが、そのお爺さんがひょっこりと帰って来たのである。村の人たちはびっくりした。ミソノ爺さんは竜のコケラ三枚の入った箱を持って帰って来た。お爺さんは竜宮へ行って来たと話し、この箱はその土産だといった。この話を聞いた村人たちは、そういえば、お爺さんの話がまんざらではなく、思いあたるふしもあるというのである。お爺さんが行方不明になったので、死んだものと思い、お爺さんを墓に葬った。その墓はかなり広かった。その墓から竜があがったのを見たという人がいた。墓から竜があがったなどということは、あり得ようはずがないから、それは流れ星を見誤ったのだろうと皆いいあっていたが、竜宮へ行っていたということを本人から聞いてみると、墓から竜があがったのは本当かも知れないと話しあった。

さて、お爺さんが持って来た竜のコケラの入った箱は万財寺の塔にしまっておいた。五十年頃までは、観音堂の前、観音堂参道のつき当たりに、竜のコケラを納めたという塔が万財寺にあった。その万財寺に納めてあった箱が、ある時、何者かに盗まれてしまった。箱が盗まれたことを知らされたお爺さんは、不思議なことに、急に死んでしまったのである。これは竜の祟りによるものだろうと村の人たちはささやきあった。

そんなことから、いつのまにか、小倉用水の中にある底無し沼(お釜のあたり)へ行ってはいけないということになり、しめ縄をはって祭るようになった。

『小倉の民俗』一〇九頁

※文中の万財寺とは、無量院のことである。
 また、「中略」は『川崎物語集 巻四』上での略。

『川崎物語集 巻六』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より

追記