弁天社の御神体

原文:神奈川県川崎市川崎区


川崎区江川

江戸時代の終わり頃か、明治の初め、現在江川幼稚園の敷地になっている所に石渡覚右衛門という旧家があり、一人娘がいた。それこそ蝶よ花よと可愛がられ、非常な別嬪だったが、美人薄命の言葉通り、年頃になって労咳(結核)に侵されてしまった。両親は百方手をつくし医療を加えたが少しもよくならず日に日にやせ細っていくばかりだった。

娘は己の寿命が残り少ないのを感じたのか、庭に弁財天を祀ってくれとせがんだ。両親は可愛い娘の言うことでもあり、願いをかなえてやれば万が一にも快復するのではと、急いで弁財天を勧請し庭に祠を建てることにした。

しかし、娘の病気は進む一方で祠の完成と同時に息を引き取っていった。

その後、石渡家は不幸続きで火災にあったり等々してなくなり、庭の弁財天も荒れるにまかせていた。御神体は上総より海を渡ってきた二百五十年程を経た白蛇だったが、これ以後、この白蛇は安住の家を求め、覚右衛門一族の家々に姿を現すようになった。ある家では土間にとぐろを巻き、ある家では仏壇に七五三縄をかけたように一文字になってと……しかし訴えられても、新たに祠を建て、祀るだけの資産はどの家にもなかった。平身低頭、白蛇に窮状をうったえて、お引き取り願ったり、海苔笊にお移し申し、中之島の弁天社に放してきたり……

いつか、この白蛇の弁財天は人々に忘れられてしまったが、戦後になり、江川町の某がこの白蛇弁天の神霊を申し受けることになり、荒れ果てていた祠の一部をもとに、江川公園の片隅に小祠を建てて祀った。白蛇は大層うれしそうに某女の夢枕にたったという。

『稲荷新田考』八〇頁

『川崎物語集 巻六』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より

追記