弁天社の御神体

神奈川県川崎市川崎区


江戸の終わりか明治の初めごろ、江川幼稚園のあたりに石渡覚右衛門という旧家があり、一人娘がいた。ところが、美しい娘だったが年頃になって労咳をわずらい、両親が百方手を尽くしてもやせ細るばかりだった。

その娘が死期を悟ったのか、庭に弁財天を祀ってくれとせがみ、その完成と同時に息を引き取ったそうな。その後石渡家は災難続きで弁天も荒れた。ご神体は上総より海を渡った二百五十年を経た白蛇だったというが、蛇は安住を求めて一族の家々に現れたという。

ある家では土間にとぐろを巻き、ある家では仏壇に七五三縄をかけたように一文字になってと……しかし新たに祠を祀る資産のある家もなかったので、次第に白蛇の弁財天は忘れられてしまった。

これが戦後になり、江川町の某がこの神霊を申し受け、荒れ果てていた祠をもとに、江川公園の片隅に小祠を建てて祀った。すると白蛇がうれしそうに某女の枕元にたったという。

『川崎物語集 巻六』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より要約

追記

京急大師線の小島新田駅のすぐ北側に江川幼稚園はあり、その前に江川はなみずき公園という小さな公園はあるが、祠などは見当たらない。まま近くの江川ふれあい公園というやや大きな公園周辺にもそれらしいものは見えない。弁天さんの現状は不明。

実際白蛇となって現れたというあたり話が大きくなっているが、屋敷神に弁天を祀るというのは、商売繁盛・大漁祈願に祀るという話でないと、このようにかつて家で若くして亡くなった娘がいた、というほどの由来となる。

上の話だけでは、なぜ娘が弁天を祀るようせがんだのかが不明だが、より伝説化した授け子の話(「お千代の池」など)で娘が弁天の池に行きたがったり、池の水を飲みたがったりするのに相当しているだろう。

そう思うと、授け子の話と上の話は紙一重というところである。ただ、現れた白蛇を上総から来た二百五十年を経た白蛇だと明言している点は気になる。特定の勧請もとがあったのだろうか。