霧ヶ池

原文:神奈川県横浜市緑区


今はもう、ぞうせい工事のため、うめ立てられてしまったのですが、ちょうど、霧ヶ丘高校の近くに、霧が池という池がありました。池といっても、十メートル四方ぐらいの小さなもので、ほとんど水が見えないほど、草がしげっている、そこなしのどろぬまのようでした。そして、げんざいのように、十日市場の町が、開発される前までは、うっそうとした木立に囲まれて、少し気もちわるいくらいの所だったそうです。

今から三百年ほどのむかし、耕雲という、たびのそうが、どこかからかやって来て、この池のほとりに、おどうを作り、住んだということで、今でもその人の名をとって、耕雲谷という地名がのこっています。でも、こんな場所ですから、さすがに、住みにくかったのでしょう。後で、長津田の方へ、うつっていったといわれます。

このような、さびしい山おくの、小さな池ですが、たとえ、日でりが何日つづいてもこの池のそこからわき出る水は、けっして、かれることがなく、近くの農家では、その水を引いて、かわいた田畑をうるおしたといいます。村の人たちには、この池がずいぶんと、ふしぎに思えたのでしょう。古くから、水の神として、池のほとりには、べん天さまをまつり、うやまわれていました。

ですから、この霧ヶ池では、長く日でりがつづいたときなど、ここに、さいだんが、つくられ、せいだいに、雨ごいが行なわれたといわれます。たしかなきろくによると、今から二百年ほど前、明和七年には、その年の五月から八月まで、一てきの雨もふらず、たいへんこまったので、近くの村々が集まって、宝袋寺や、大林寺のぼうさまをたのみ、雨ごいをしたとあります。そのときは、さいだんの前のろうそく立てに、一ぴきのへびがあらわれて、まきついたところ、りゅうになって天にのぼり、そのとたん、今まで、日でりつづきの空に、かみなりが鳴りひびき、たちまち、大つぶの雨が、たきのようにふったといわれています。おかげで、日でりにこまった人々は、たいへん助かり、また霧ヶ池も、いよいよ有名になったということです。

そんなわけで、むかしは、いろいろなねがいをかけに、この霧ヶ池のべん天さまに、おまいりする人も多く、毎年六月八日のえんにちには、たくさんの人でにぎわったそうですが、今はもう、その池もなく、雨ごいの話も、わすれられてしまうのでしょう。

『十日市場の歴史』高橋一雄
(十日市場小学校)より

追記