古河谷戸の大蛇

原文:神奈川県横浜市旭区


国道十六号線ぞいの西谷から白根に至る付近は、現在は白根プールや大きなビルなどが立ち並び、今ではりっぱな町に整備されていますが、むかし、このあたりは、昼でも人の寄りつかない、それはそれは恐ろしいところでした。そして、この山は猪子山と呼ばれ、西谷村川島の人々はこの山のはずれを古河谷戸と呼び、都岡村白根分の人々は地獄谷、おおかみ谷戸とも呼んでいました。また、新治村の新井新田(保土ヶ谷区新井町)に住む人々は、このあたりをさかいの谷戸とも呼んでいました。交通の便の発達していなかったむかしは、ひとつところの呼び名もこのようにいくつもあったんですねえ。

この谷戸は、深い山々に囲まれた暗い恐ろしい谷戸だったので、村の人々は近寄ってはいけないとお互いに注意し合ってはいました。それでもなお、生活のため、仕事のためにこの山に入らなければならない人々もあったのです。これは明和元年(一七六四)のころのお話です。

きこりの夫婦は、いつものように二人そろってこの猪子山のふもとで、山仕事をしていました。仕事も一段落ついたので、さて、お昼にでもしようかと、かみさんは近くの清水まで水をくみに出かけました。

しかし、まてどもまてどもかみさんは帰ってきません。お昼もとうに過ぎ、陽もかたむき始めてもまだ帰らないのです。どこまで水をくみにいったのだろうか、深い山ん中で道に迷ってしまったのではないだろうかと大変心配した亭主は、かみさんをさがしに出かけました。

山ん中をかみさんを求めてあるきまわっていると、木の間からチラリと動くものが見えました。何だろうかと近寄ってよく見ると、今までみたことのないような恐ろしいそれは大きな大蛇でした。そして、その大蛇の口の中にチラッと見えたのが、見覚えのある布の切端なんです。「アッ! あれはもしかしたらうちのやつの帯では……」胸の鼓動も止まらんばかりでしたが、やっぱりそうでした。かみさんが大蛇にのみ込まれたことを悟って、たいそう悲しんだきこりは、無念をかみしめていったん家に帰ってきました。

そして、このくやしい思いをさっそく村の人々に話し、あだ打ちの相談をしたのでした。運の良いことに、ちょうどそのとき、鉄砲の名人という人がこの川島に住んでいることを聞き知り、かみさんのあだ打ちを頼みました。

その人の名は、相模国荻野村(厚木市)の治平さんという人でした。

銃の名手治平さんは、きこりの亭主の願いを聞き入れ、猪子山へと大蛇を退治に出かけました。

太い大きな雑木の続く山の中を、にっくき大蛇を求めて、何日も何日もさがし回りましたが、なかなか大蛇は見つかりませんでした。そして、何日目かがやってきました。治平さんは、いままでのようにただ歩き回ってばかりでは、大蛇を見つけることができませんでしたので、何か別の方法をと思って、雑木林の中の滝の水口近くまで来かかったとき、高いところに登ってさがしてみようと思いつきました。そこで、祠の近くの大きな老木に登って、あたりを見降ろしてみました。すると、木の下近くに胴回りが二尺(およそ六〇センチメートル)もあり、長さがおよそ二間半(およそ四メートル五〇センチ)ほどもありそうな大蛇がとぐろを巻いているのがみつかりました。「アーッ! いたぞ、いたぞ! やっとみつけたぞ! このにっくき大蛇め! 治平さまの弾丸を受けてみろ!と、なげき悲しんだ亭主の願いをこめて、手に持った火縄銃の弾丸をこの大蛇めがけて発射しました。だが、この化物のような大蛇は、一発の弾丸を受けても何のその、ピクリともしません。そのあげく、治平さんの方へ向かって、大きな口を開けて応戦してくるじゃあありませんか。それにも負けず治平さんは勇敢に、「これでもか、これでもか!」と、何発も大蛇めがけて火縄銃を発射しました。

汗みどろになって大蛇をしとめたときには、もう治平さんは息もたえだえになっていました。さて、大蛇の息の根を止めたには止めたんですが、あまりの大きさにその死骸をどうすることもできなく、とほうにくれてしまいました。

いったん山を下りた治平さんは、大蛇を退治したことを村の人々につげ、近くに住む村の人々に手助けを頼み、その大きな身体をノコギリで胴と頭をまっ二つに切りはなしました。そして、長い胴体の方は、その近くのさかいの谷戸まで運んでうめ、目印に一本の松の木を植えて、ここを弁天塚としました。

そして、一方、頭の方は、何人もの人夫に頼み、地車(大八車の小さいもの)に乗せて治平さんの住む川島まで引っぱっていき、けやきの木の下にうめました。現在、西谷の川島小学校近くの三村さんの家のところに、このけやきの木があり、その木の下に古ぼけた小さな祠があって、この中にまつられています。この祠は、四、五年前、新しく建てかえられたということでした。

さて、さかい谷戸にうめられた胴体はというと……。大正のはじめのころのことでした。弁天塚の持主である鈴木太郎さんのお母さんは、たいそう神信心にこっていました。

そこで、太郎さんに頼んで、大蛇の霊を供養するために大正九年四月、ここに大きな弁天堂を建ててもらい、日夜お堂に寝泊りしてご祈祷をはじめました。このご祈祷はご利益があるという評判がたちはじめて、四月二十八日、九月二十八日と年二回のお会式が行われるようになり、近郷近在から評判をききつけ、遠くは、茅ヶ崎のあたりからも、おまいりの人々が訪れるようになったほどでした。

それまでは、ひとっ子ひとり通らないこの地が、弁天塚のため、人が群なし、市をなし、そのにぎわいは、今もなお、年老いた人々の語り草として、その口の端に残されています。

しかし、いまは、この弁天塚を訪れる人もなく、直径五、六メートルもあろうか大きな塚の上に二代目の松の木が植えられ、さびしげに往時のにぎわいを物語っているのみです。

この弁天塚のお話は、保土ヶ谷区新井町に住む人々によって伝えられたものです。

話者 保土ヶ谷区新井町 金子重作(84才)

同資料参考話:

今度は、頭のまつられている西谷村川島の人々によって伝えられている弁天塚のお話です。

大正のはじめごろ、弁天塚のあるところの地主さんは油屋という屋号で呼ばれていました。この油屋さんのところでは、大勢男兄弟がいて、その中のひとりは、たいそうな放蕩息子だったということです。

毎日のように母親に、「金くれ! 金くれ!」といっては、家の金をせびり、遊び歩いていました。

あるとき、伊勢佐木町に買い物に出かけた兄嫁さんは、この弟がふたりづれでブラブラ歩いているところを見つけ、池に帰ってきて、この話を旦那に話しました。旦那はたいそう怒って、家に帰ってきた弟をしかりつけました。すると、弟はプイッと家を出たまま、何日も帰ってこなくなり、行方がしれなくなってしまいました。

心配した母親は、どこへいってしまったのかと、あっちこっちさがし回ってみましたが見当もつきません。何日かたったある夜のことでした。その母親のところに次のような夢枕がたちました。

「この家の土地の蛇窪と呼ばれているところに弁天塚がある。そこに大蛇の霊が眠っている。この大蛇というのは、西の名主が荻野村治平という狩人に頼んで退治してもらったものである。その胴体がそこにうめられているはずである。頭をうめた名主のところでは、祠まで作り手厚く葬りまつってあるので、胴体の方がなげき悲しんで、供養をしてもらいたいがためのたたりである。そのため、息子の行方が知れなくなってしまったのだ。早く供養して息子さんが帰ってくるようにしてやりなさい。」

このおつげがあってから、さっそく油屋さんは、大きな弁天堂を建てて、大蛇の霊を供養したところ息子さんが帰ってきたという、言い伝えが残っています。

話者 西川島 綿貫豊次郎(80才)

※蛇窪 保土ヶ谷区新井町48

『旭区郷土史』(旭区郷土史刊行委員会)より

追記