鰻の井戸

原文:神奈川県横浜市港南区


昔は金沢街道と呼ばれ、現在は横浜伊勢原線という街道になっている。関の下交差点を、上大岡駅方面より来て左折し、打越交差点方面へ行く途中、関というバス停がある。バス停より南へ約一〇〇m先の左側道沿いに、鰻の井戸というのがある。ここは笹下二ノ二一ノ一二号、土地所有者は安藤正司氏である。

「金沢文庫の研究」には次のように伝えられている。

人皇第八九代亀山院の御宇、文永年中、執権北条越後守平朝臣実時、鎌倉幕府を治めていたが、建治元年五月(一二七五)病を得て金沢の城(金沢区)に住し病を養っていたが病悩日を追いて快気の兆しもなく、増々病増長しける故一家臣嘱集りて良医良薬を尽すといえども更にそのしるしなく、その一命も旦夕にせまった。よって実時、この上は日頃信ずる紀伊国那智山の如意輪尊を祈念すべしと一同に命ず。さればとて一門集りて一七日の間、祈念丹誠をこらしけるに、不思議なるかな、一七日の夜満る明方のころ、異相の人忽然と現われ、実時の枕もとに立給いて、曰く「汝われを知らずや、汝が日頃信ずる所の那智山如意輪観世音なり。汝等一門の念ずる処、我も納受しぬれども、このたびの病悩汝の命数なれば、中々良医良薬の力に及び難し。されども汝日頃よりの一念我も歓喜にあまれり。これによりて我汝に一日の妙薬を与うべし。これより西北の間に当り行程二里余の里に、くされ井あり。この水を汲み来りて服用すれば汝の病悩たちどころに快気あるべし。さてまた井の中に二尾の鰻あり、頭に斑文あり、これぞ汝の命を救う霊物なり。早くも取りよせ服すべし」とありて霊神はそのまま失せ給う。実時はむっくと起上り、かかる奇瑞もあるものかな、これひとえに観世音の大悲の御利益なりと、従臣を召し二人を使いとし御示しのあった里へつかわした。二人の者は、示された地に来てみれば野草葱々と生茂り、人跡絶えたるさまにて、井はいずこと探すうちいずくよりか、里老の来りて、曰く、貴下等の求むる井はこれにありと示すにより、使者は野草をおしわけ見ればまさに朽ちたる井あり、あまりの朽ちたるさまに使者は水を汲みかねおるときに、不思議や頭に斑文のある二尾の鰻浮きいでて、さもうれしげに泳ぎ水を呑みけるを見て二人の者はこれぞ神示の霊水なりと、疑いもなくこの水を汲みとりたり。ときに案内にいで来りし里老の姿もいずくへ行きしかついに見えずと、二人の使者は直ちに館へ立帰り、主君の実時に右の様子を言上し、天目に水をそそぎ実時に奉れば、実時押戴きて服するに、不思議や永い間の良医良薬を尽すといえども、更にそのしるしなき実時の病いが一日一夜にして全快せるは恐ろしささえ感じたりと。

実時は、早速紀伊国那智山に代参を立て御礼の参拝をさせ、また全快の後実時自らこの井を訪ね来り、様子を見給うに、かの鰻も井の中に泳ぎいたりけりと、実時奇瑞の思いをなし、これにより「鰻の井」と名付けられた上、井筒をしつらえたり。それよりして諸国へ鰻の井の名、流布し諸人群集してこの水を求め病悩をいやしたるもの多しと。その後実時没後において、この井の鰻いつの間にか失せたりという。

以上が鰻の井として伝えられたものである。「金沢文庫の研究」の但書に「この井は関村にあり、且つこの井に関する縁起書は関村の三河屋に存ず」と記されている。この三河屋とは、井戸の土地所有者安藤正司氏のことである。

縁起書としては他に現存していないが、唯一つ長さ六〇cmほどの奉紙に横書きで「鰻井」と横書きし「正三位式部太夫菅原長親」と署名した古文書がある。ようやく判読できるほどのものである。

この井戸は、一〇年程以前には、土管枠であったが、清水がこんこんと湧きいでていた。その後付近の建築物等の関係か又は他の原因かは判然としないが、今はわずかしかでていない。

昭和四五年、先代徳蔵の遺志により正司氏が立派な井戸に造り替えた。

『港南の歴史』
(港南の歴史発刊実行委員会)より

追記