安房洲明神の神宝蛇骨

原文:神奈川県横浜市港南区


中区笹下町の安房洲明神は、今でこそ村社の神実天照大神と合祠せられて居るが、その鎮座の伝説には、なかなかに由々しい霊験があった。昔、海中より出現、即ち迎えて安房國は洲崎に祀ったので、名を安房洲明神と申したが、その後、故あって此の笹下の土地へは、飛来し給うたのであった。

明神飛来の時こそ、驚くべきさまであったという。海原の波湧きかえって、霹靂大空に響き渡る。村人畏れおののきつつ、うち見やる東南のそらには、紫雲濃く靉びきわたり、天上の楽の音さえ仄かに聞えるのであった。此の時何処よりか一人の老僧立ちあらわれ、指して村人に教えること、あれこそ洲崎大明神の飛来し給う御姿、紫雲の消えて楽の音止む処に、宮を建て長えに祀るべきものぞとのことである。言葉終って立去った。程なく紫雲山の端に舞下り、又舞上るよと見るまに、雲も音も聞えずなった。ここをこれより『唄う坂』と名づけられ、老僧のいうが儘に宮を建てて洲崎明神と崇めまつる。星霜積って春秋重なれば自ずと社殿も朽廃に及んだ。間宮豊前守信光と申す人、この頃笹下に居館を設けて近郷一円を領して居ったが、ある夜の夢に、神々しき人あらわれて告げることには、われは洲崎明神である。昔、因縁あって此の地に飛来したが、元々水の音がまことに嫌いである。今ここに、仮の宮居を建てて雲の宮とは称えられるが、此処にも風波水音が響いて来る。依って音の聞えぬ場所に遷宮せよ。然らば汝の武運長久なるべしと囁いて夢の裡に姿は消えた。信光あまりの不思議さに、笹下村の山谷を隈なく巡って、遂に今の宮田というほとりを見出し、宮地に叶う土地とばかり、即ち雲の宮をここに遷しまいらせて安房洲大明神と名を添え奉った。

元和の頃、徳川家康大阪陣の砌、信光も家康の軍に従うて出陣した。数度の戦いに屡々危かったが、此の時いつも空中より黒雲下がり、雷鳴烈しく轟き渡って咫尺も明かならずなり、我が身の危難を免れたのであった。戦場の功に武名の輝きを加えて笹下に帰り、早速宮に詣でて見ると、社地には一頭の巨蛇、死して骸となって横たわって居る、信光これを見るより丁と横手を拍って、この度の戦場に不思議を現ずること数知れず、我れに代って一命を棄てたは即ちこれこの明神の加護であった。よしよしこの蛇骨を神宝の一に加えて、長く奉賽の誠を尽すであろうと、感涙衿を潤おして止まることなく、益々崇敬忘るるところなかった。年下って寛政の頃、同所なる福聚院に安置して、身代り龍と名づけて、珍宝の随一ともしたが、今は土地の者さえ知らぬのである。信光、大蛇の骸を眺めた時、思わず涙を浮べて一首の供養を口吟した。これも亦昔をしのぶ一つのよすがである。曰く

ひとすぢにまことの人のいのりなば、などかしるしのなからましかは

(市営バス松本橋下車凡五丁)

『横浜の伝説と口碑・上』栗原清一
(横浜郷土史研究会)より

追記