洲干弁天社の蛇

原文:神奈川県横浜市中区


昔から弁財天には蛇がつきもののように思われて居る。そこでいろいろな土地の説話を、恰も蛇のように蜿らせたのであった。蛇は弁天さまのお使い、又、水の神の威力を顕わす姿として最初から崇められ且つ怖れられたのである。蛇を見出すとわざわざ社へ運んで来て、この仏を喜ばすとともに己の奇特を吹聴せねばやまぬ風まで作り出されたのである。蛇にとってはまことに唯一の安全地帯ともいうべき場所で、それから推して互に危害を加える念が薄くなり、この洲干弁天に詣でる人々も、至って心易く枕神にさえ立たれたりして居るのである。蛇もこうなると少しも恐れを感ぜしめぬものらしい。

たとえば社前の池は、寛政時代に一度拵え直したものであるが、ここに両頭の蛇があって、横浜村の者ども出でて朝早くから仕事にとりかかるのを、穴の中から終日眺めていたが、夕方仕事を止める頃になると、穴の奥深く引込んでしまう。これを見た人々は、ああもう弁天様もお休みだ、皆止めようとてさながらこれを合図として帰るのであった。池の出来上がるまでこうして毎日姿を見せていたという話も残って居る。

社の境内の石橋を渡った右に穴があって、ここから数間を隔てて脱穴があり、その中には幾百年を経たかと思われる一頭の大蛇が棲んでいた。人はさして怖ろしがらず、却って参詣の道すがらこれに餌をやったりしたものであった。但し産後の女が参詣に行くとどうしたものか全身を出して蜿蜒するので、産をして日の浅い女は決して出向かなかったという話である。

横浜も開港となって、此の社も羽衣町へ移転することとなり、遷宮のために宮を取り壊すという時、本牧箕輪の屋根屋が来て、宮の屋根の萱などを剝すと、その天井にその数何百とも知れぬ蛇が、堆高く重なり合っているのであった、驚いた屋根屋は、悲鳴をあげて毬のように飛び下り、その儘仕事を止めて青色吐息のさまであったが、二三日過ぎてもうよかろうと再び行って見ると、やはりもとのままである。さりとて打ち殺すこともならず、思案の末蛇遣いを頼んで来て、これを一疋づつ捕えて四斗樽に入れることにしたが、その時は四斗樽五つに充満したというから、いかに群棲していたかが分明する。それから弁天さまのお使いだから粗末があってはならぬとて、樽に注連をかけ、人夫に担わせて羽衣町まで運び、又社の境内へ放したということである。

この社の蛇については話がある。ずっと大昔のことというが、横浜村の漁師が羽根田沖に出かけて漁をしていた。この時の漁業区域は横浜村から羽根田沖へかけて見通した線外で、ここへ出ることは差支えなかったものである。ある時のこと羽根田の漁師は、区域内へ這入ったというので横浜村の漁師どもを、ひどい目にあわして帰した。これを聞いた村の人たちは大きに腹を立て、無法な奴等には必ず仕返しをしてやるとて歯がみをしていた。其の後又同じようなことで羽根田の方から苦情をいい掛られ、もとより線外の事とて双方争いが始まった、横浜村では前々の恨みもあり、而も勢いがよかったので羽根田の者どもを散々懲してやった。引き揚げた羽根田の面々が、この仕返しに横浜へ押しよせて来るという噂が立ち、この応戦に横浜の方がそれぞれ準備をする、横浜村では軍師石川源助という人が、真田幸村を気取って、洲干畑の唐もろこしへ手拭を冠せ、衣物を着せて急ごしらえの人形とし、遠く眺めると恰も大勢立って居るように見せかける算段をする。

案の定羽根田から勢い込んで押しよせて来て見ると、海岸は見渡す限り人で満ちて居る。こんなに人数が多くては、到底勝つ見込みがないと、ためらう隙を見かけて横浜村からは羽根田の背面から逆襲を始めた。驚いたのは羽根田勢、退路を遮られてしまい右往左往に逃げ出したが、内一艘は逃げ場を失って洲干島へ着けるなり弁天の境内へ上陸した。そして社の床下にもぐり込んだ。先ず一安心と吐息する間もあらばこそ、幾百十とも知れぬ大蛇が、ぬっと首をあげるなり、背に波打たせて這い寄って来た。これには剛敵以上に怖れてふるえ上り、床下を逃げ出して象ヶ鼻から野毛浦へ泳ぎ渡ってやっと脱れ帰った。これを知った横浜方は一同万歳を唱える始末、遂に羽根田方も横浜には弁財天の加護まであることを畏れ、何事にも反抗はしなくなったという、まことに大時代な話なのである。

羽衣町に遷宮する時、前に書いた大蛇も、己が棲み家が無くなってしまう。それかあらぬか全く姿を消して了った。然るにある時のこと、此の社の信心者、伊勢町の旧家川本某家の老母の夢に、一頭の白蛇があらわれていうには、われは洲干弁天の境内に棲む白蛇であるが、宮とともに羽衣町へ移らねばならぬ。しかし羽衣町へ行くことは嫌である、どうか附近の池に棲みたいから、今池の辺に来た訳である。そこで自分を池のほとりに祭っては呉れまいか、その報恩としては家内安全はいうに及ばず、町内の繁栄をも護るであろうというかと思えば姿は見えなかった、老母夢さめてからあまりの不思議さに、翌朝早々池のほとりに行って見ると、驚いたことには一疋の白蛇、池辺にある大木に絡まり、老母を見てさも嬉しそうに頭を垂れているのであった。そこで老母は愕きながらも、直に池の辺に弁天の社を建てて祭ったということで、一二年前までは伊勢町四丁目に宮があったが、震災後の復興工事で止むを得ず西戸部町野毛坂四十六番地に移転した。そうしてすべての物語を包蔵して居るのである。(市電野毛坂下車)

『横浜の伝説と口碑・上』栗原清一
(横浜郷土史研究会)より

追記