洲干弁天社の蛇

神奈川県横浜市中区


洲干弁天は昔、洲干島にあった。人は蛇を見つけると皆ここに連れてきて放っていたので、蛇たちの安全地帯となっていたそうだ。寛政の頃の池の拵え直しの時は、両頭の蛇が人々の仕事を終日眺めていたという。夕に蛇が穴に帰ると、弁天さまもお休みだ、と人々も仕事を終えたそうな。

また、石橋の側に穴があって、幾百年を経たかという大蛇もいた。人々はさしも恐れず、餌などやっていたというが、産後の女が参詣に行くとどうしたものか全身を出して蜿蜒するので、産をして日の浅い女は決して出向かなかったという話である。

その弁天さんも横浜開港の際には羽衣町に移転することとなったが、宮の屋根の萱中には何百という蛇がいて、四斗樽五つにも充満したという。この蛇たちも羽衣町に運ばれた。かつて、羽根田の漁師たちと横浜村の漁師たちが大喧嘩になった際、洲干弁天の蛇たちが横浜方に加勢してくれたという昔話もあって、大事にされていたのだ。

しかし、羽衣町に移る際には、棲みかがなくなるので大蛇なども姿を消してしまった。信心者のある老母の夢には、羽衣町には行きたくない、と白蛇が出たともいう。老母は元地近くの池の畔に弁天の社を建てたという。しかし、これも震災後復興の際失われ、野毛のほうに移転した。

『横浜の伝説と口碑・上』栗原清一
(横浜郷土史研究会)より要約

追記

洲干(しゅうかん)弁天とは、今の横浜弁天のことで、現在は羽衣町にあるが、もとは洲干島にあった。これも今は島などなく、馬車道近くの弁天通に名が残るのみだが、ともあれこの弁天さんには上のような蛇たちの話がたくさんある。

また、同資料の続いての話に「洲干弁天の松の祟り」という話もあるので、併せてお見知りおきいただきたい。これは小さな話だけれど、弁天と天女のつながりを考える際にはその一片のイメージとなる事例。