堀切の毛なし池

原文:東京都葛飾区


(毛無弁財天社 堀切3-1-8)

いつのころか判らない、ただむかしむかし、あたりに大雨が何日も何日も続くと、低いこの地方の川が溢水して田畑は一面に水没してしまうのが常でありました。するとこの附近の土堤が浮きあがって崩れ始めるのです。この現象が起ると後は怒濤のように水と泥とが濁流となって流れ出し、堀切の田畑はもちろん周辺の家も樹木も地上のものは皆この濁流に吞み込まれて押流されたのです。

堀切の「けなすな池」はこの時にできた、大きさも一町三反歩もある、大池なのです。これは永禄三年(一五六〇)の秋のことだとも伝えられております。その後にも何回も綾瀬川が氾濫し、ここに連っていた堀切の極楽寺も流失してしまったと古老の間に語り伝えられております。

周りに川をめぐらす葛飾の地には、こんな場所がいくつもあって、きれ所と呼んで恐れられていたのです。綾瀬川と古隅田川の本流はこのそばを流れていましたので、一度大雨に見舞われると悲惨なものでした。

一方、こうしてできる池はいつも水は満々としていて涸れるということはなく、水鳥もこの大池に集って来るようになったということです。

ですから家康も秀忠も家光もよく、この地まで野鳥や水鳥を追って来たということです。それに葛飾の大部分は幕府の直轄地でしたから将軍家の鷹狩場のひとつでもあったのです。毎年冬の間は鷹狩に少数のお徒士を連れ、千住からこの地にはいり鷹狩が催されたと記録されています。

五代将軍綱吉の時代になると、生類憐みの令が出されて、鳥獣類の猟は勿論魚類に至るまで一切の生物の殺生は禁止されたので鷹狩も自然取止めとなりました。

さて、そのころこの池の中ほどに浮洲ができて、そこには二匹の雌雄の大蛇が棲み付くようになったのです。昼間は池に深く沈んでいて、姿を見せませんが夜は浮洲の芦の中で大きな目だけをピカピカと光らせているのが、こちらから見えることがよくあったのでした。そして、だれいうとなく、この大蛇の姿を見ると悪病になったり、口が利けなくなってわか死にするといわれ、誰れも恐れて、この池には近寄りませんでした。また、大蛇の話をする者もあまりなかったのです。

ときに明治四十三年秋、長雨が降り続き隅田川の上流の氾濫によって、東京は一瞬にして、泥の海と化し、死者数千人と無数の行方不明者を出しました。その後、水害対策として、政府は治水工事の一環として新たに荒川放水路を開削する工事を起こしました。その結果大正十年秋に今の荒川が完成したのです。

この工事の折、けなす池の始末が取り上げられ、河流の変化でぽつりと池を残す必要もないので残土で埋めてしまったのでした。

しかし附近の人々は大蛇の出没と祟りを恐れて、池の跡地へ弁財天を祀りました。そして今では、池はなくても毛無池と呼んでおります。

現在の弁財天社については、昔を知る人は大蛇の祟りを恐れて、又、新来の移住者達は福の神として、崇敬しています。そして、今もって参詣者が絶えず堀切町の商店街では繁昌の祭神として奉戴して、毎月縁日も立っております。

『かつしかの昔ばなし』萬年一
(葛飾文化の会)より

追記