荒川のぬし

東京都荒川区


昔、左甚五郎が日光へ下る通すがら、千住の河原で渡船を待ちつつ、砂地に大きな亀の絵を描いた。それを消さずに旅立ったあとで、描かれた亀が動きだし川へ入っていった。それが荒川のぬしになったのだという。(高田嘉一氏談)

『新修 荒川区史 上巻』(荒川区役所)より

追記

足立側でも語られる話(南千住は荒川区、北千住は足立区)。千住大橋が架かる前は荒川(今の隅田川)に橋はなかったので、というのだが、甚五郎が生まれた(とされる)頃には大橋はかかっていた。ともかく、橋のなかった頃というイメージなのだろう。

もっとも、千住大橋にはまた、その下にいた大亀のせいで橋杭が打てず、橋脚の幅が違うところが出来た、という伝説もあり(「かめのま」)、その亀を甚五郎と亀とするには橋が架かる前の話としないといけなかったのだろう。

ともあれ、江戸から日光への経路には、甚五郎の彫った龍が動き出して云々という話が多いが、木像に限らず砂に描いた亀までこうして主となっているのだ。釘づけの龍の話も、存外に枠外にある事例が広いのかもしれない。