法螺貝と三原山の戦い

原文:千葉県木更津市


大むかしのことです。東京湾の、中の瀬の近くに、大きな大きな法螺貝がすんでいました。その姿は、ちょっとした山ほどもありました。この法螺貝が寝返りをうつと地震が起り、あくびをすると嵐が吹き、いびきをかくと海鳴がし、せきをすると津波が起るほどの、東京湾の主でした。

ある日、法螺貝は、久しくたのしみにしていた、竜宮見物に行くことになりました。

支度をはじめましたが、法螺貝のすんでいるところは、東の方からは鹿野山の山脚、西の方からは富士山の山脚、南の方からは三原山の山脚、北の方からは筑波山の山脚が、ちょうど四方から相談したように落ちこんだ、すりばちの底のような、深い海でした。
「おいねえな、せっかくの竜宮見物も、このままじゃできねえや。」
さすがの法螺貝も、ちょっとあせりましたが、よく調べたところ、東北の方に足がかりになる場所を見つけました。
「よし、骨はおれそうだがここから出るか、印旛沼も近そうだし、そこから霞ヶ浦へ出りゃ竜宮の裏門もすぐだし、よしよし。」

遠い竜宮のことは、はなしにきくだけでしたが、法螺貝は、こうして、うれしそうに出かけました。法螺貝には生まれてはじめての旅でした。どうにか印旛沼までは行くことができましたが、そこで思いもしなかった邪魔者に逢ってしまいました。印旛沼には、有名な八千巻大蛇(はちまきおろち)がいて、大きな法螺貝の来たことを耳にして、
「どこの誰だかしらねえが、印旛沼の八千巻大蛇をしらねえことはねえはずだ、主のおれにむだんじゃとおせねえ」
とすごい勢いで怒り、法螺貝の行く手に立ちふさがってしまいました。

「お前か、道の邪魔すんのは、印旛沼の主も量見がせめえぞ、とおしたらどうだ。」
「いやいや、無断じゃとおせねえ。」

八千巻大蛇も法螺貝も、ともに名高い剛の者でしたので、とうとう衝突してしまい、七日七夜の間、死闘がつづきました。とうとう法螺貝は最後の力を出して、
「このわからずや、東京湾へ行って顔でも洗って来やがれ」
と八千巻大蛇を、そこの土ぐるみひっかきとって、東京湾めがけて投げ込んでしまいました。意外な大敵に投げ込まれた八千巻大蛇は、飛びも飛んで、相模の金沢沖まで投げ飛ばされて、その海中に落ちたままとうとう小さな島になってしまいました。猿島と呼ばれているのが、こうしてできた島だといいます。

法螺貝は、とんだ邪魔者に逢いましたが、どうにか霞ヶ浦へ入ることができました。
「しめた、ここまで来れば、たしかに霞ヶ浦は竜宮の裏門へ出る道のはす、裏口でも竜宮が近くて一安心だ」
と霞ヶ浦の主のところで、二、三日すっかり遊んでしまいました。

いよいよ出発という日のことです。またまた、邪魔者が出てきました。名高い鹿島の要石でした。
「待て待て、お前はだれだ、一言いってとおったらどうだ」
と道をふさいでしまいました。法螺貝は、またかと思って持前のかんしゃくをおこしてしまい、
「なにをいうのか、道はみんなのものだ、うるせえぞ」
と八千巻大蛇のように投げ飛ばそうと、いきなり手をかけましたが、要石は毛ほどもゆるがず、カーッとなった法螺貝は、全身の力を出して見ましたが、どうしても動かすことができませんでした。それもそのはず、要石はその根がどこまで張っているのか底の知れない、さすがの地震もこの要石におさえつけられたら最後、動きがとれないという陸では評判の力持ちでした。そこで法螺貝は、三日三晩どうしたらいいものかと、思案を凝らしましたが、別にいい知恵も浮かばなかったので、とうとうあれほどたのしみにした竜宮行を中止して、もとの東京湾へと帰りました。

法螺貝に投げ飛ばされて、猿島になった八千巻大蛇は、法螺貝が途中で帰り、目の前にすんでいることを知ってからは、故郷恋しさと負けたくやしさで、毎日泣きに泣いていました。

ある日のことでした。猿島は大島の三原山をたずねて、
「三原山の火の神さんよ、わしがあわれと思ったらば、力を貸してくれねえかよ」
と法螺貝と争い、投げ飛ばされて猿島になったはなしをして泣きました。

「はなしはわかった、わしも伊豆七島と呼ばれるほど、世間には名高い七つの島の一つだが、なんしろみんな飛び飛びの暮し、心淋しく思っていたところよ」
と大島の三原山は、身近に手ごろの味方をおいてもいいと考えて、気持よく承知しました。猿島の頼みを聞いた三原山は、さっそく東京湾の法螺貝へ戦いをいどみました。三原山の火と法螺貝の水との戦いは、実にはげしく、天地は荒れて、嵐はおこり、波は立ち、山は鳴り、地震はおこるで、近隣の迷惑は大変なものでした。

ある日、鹿野山と筑波山は、こうした戦いを見かねて、わざわざ法螺貝をたずねました。
「どうだ、言い分もあっだろうが、迷惑すんのは隣近所だよ。考えてくんねえか」
と鹿野山と筑波山がいいますと、
「お前さんたちのいうとおりだ、ところが、この戦いはな、もともと三原山の方からしかけて来たんで、三原山さえ止めればいつでも止めるよ」
と答えましたので、こんどは三原山をたずねてはなしたところ、
「なんだい、あんな駄法螺に勝手な熱吹かれてたまるかよ、おらあ、どうしても駄法螺を踏みつぶさなきゃ、頼まれた男が立たねえよ」
とはねつけられてしまいました。

鹿野山と筑波山は手をひくにもひかれず、仕方なく駿河の富士山に頼むことにしました。はなしを聞いた富士山は、
「わしのようなものが出ても仕方あるめえ」
と雲の上に立って考えていましたが、
「そういえば、争いの一方はわしらと同じ山のこと、こうしたことは好まないが、まあ知らんふりもできまい」
とようやくひき受けてくれました。

四方の山々は、今度は富士山が口をきくそうだと、みんな眼を見張っていました。富士山は、別にこれという手もくださず、じっと三原山と法螺貝のようすを見ているだけでした。三原山と法螺貝の戦いはつづいていましたが、富士山が心配し出したことを知ったのか、いくらか遠慮をしているように、わずかにおだやかになりました。ある日のことです。

じっと両方のようすを見るだけだった富士山は、突然、自分の吐いていた頂上の火煙を、ぷっつり止めてしまいました。

富士山の出かたを見守っていた山々は、ますます不思議に思うだけでした。しかし富士山は相変わらずの沈黙で、前にもまして美しい姿を東京湾へ写しているだけで、一言もいいませんでした。こうした柔和な威厳にうたれたせいか、いきりたっていた三原山と、受けてたった法螺貝は、ともに小さくなってしまい、喧嘩どころかお互いに、晴れて大空を仰ぐことさえできず、引きさがってしまいました。

富士山は、こうしてついに一言の口もきかないで、柔和な光と沈黙の力で大きな争いを鎮めてしまいました。

しかし、それでも時には富士山の姿の見えない曇った日などには、三原山と法螺貝のいがみ合いがあるらしく、ときどき三原山の頂上にいかりの煙がたち、東京湾の、中の瀬近くで息吹を感ずることもあるということです。

原話「木更津郷土誌」

『新版 日本の民話26 房総の民話』
高橋在久(未來社)より

追記