水塚

埼玉県ふじみ野市


江戸時代の中頃、三日三晩降り続いた雨が江川を増水させ、大水の危険が起きた。新田の農家は牛馬の避難を急ぎ、大塚山(水塚)は牛馬で一杯になった。人間は屋根に登ってでも水害を避けられるが、牛馬はそうは行かないので、水害の多い村々には避難のための塚が造られたのだ。

福岡新田の水塚は二五〇年ほど前に造られたという。当時江川の水量が減り、田の方を深く掘って水を引いたので、その掘り上げた土で塚を造ったのだそうな。その頃盛んだった御嶽講の先達を先頭に村人共同で造り上げたのだという。

『上福岡市史 資料編 第5巻 民俗』
上福岡市教育委員会(上福岡市)より要約

追記

今はふじみ野市となった福岡新田地区の話。現在はもう塚というほどのものは見えないが、運動公園のあたりなのだろうか。ともあれ、竜蛇の話というのではないのだが、大水に対してこのような塚が築かれた、ということは知っておきたい。

もしかしたら、氾濫原で語られる蛇の塚の話には、こうした水塚の機能を持った塚の話であるものが含まれているかもしれない。例えば江戸小菅の「橋になった大蛇」のような、大水から村人を救うために橋となった大蛇の塚、などという話にはそういった雰囲気がある。