うわばみ山

福島県二本松市


姿を隠して村人を襲ううわばみが出て、手足を喰い千切られる者もあり、村は大変な難儀をしていた。それを新倉が何とかしようと思い、家の宝刀を使うことにした。新倉は、夜明けを待ちかね、寺の前の道を戸ノ内のほうへ行ったり来たりした。

やがて巳の刻となるころ、浅川が道に近づくあたりで、腰の宝刀がカチカチと音を立てた。新倉が何かと思って見回すが何もいないが、宝刀はさらに激しく鳴り、手をかけると勝手に抜き出て、日の光をまばゆく辺りに反射させた。そして、この光に驚いたうわばみが、消していた姿を現したのである。

これを見た新倉は素早く刀を横に払い、うわばみの首が空高く舞い上がった。その首は、向かいの山に飛び、夢中だった新倉が我に返ると、首のないうわばみの胴体が横たわっていたという。新倉は村人に見せないために、急いで穴を掘って胴を埋めた。

宝刀はより一層大切な家宝とされたというが、今はどこに残っているのかわからないそうな。また、うわばみの飛んで行った山は今もうわばみ山と呼ばれ、新倉の墓と思われる石碑もあるという。

『二本松市史 第8巻 民俗』(二本松市)より要約

追記

浅川、を頼りに探すと、おそらく五月町のあたりの話だろうと思われる。類話として、神代山とうわばみ山を行き来した大蛇を討伐する筋があるが(「へび壇」)、併せ考えるとそうなる。寺というのは久安山観音寺のことだろうか。うわばみ山というのは不明。サーキットなどできており、もうないかもしれない。

刀がひとりでに抜け、という宝刀の話だが、ここではさて置き、新倉なる人物(不詳)が、大蛇を討ち取った後、特に祟られていない点に注意しておきたい。同地方でも、蛇の執念は恐ろしく、手を出せば祟られるのが普通だ。祟られない人の条件、を考える一例になる。

また、討伐された大蛇が普段姿の見えない存在であった、としているところも重要だろう。竜蛇譚には時折「姿が見えない」ということを強調するものがある(「真菰が向ってくる」など)。それは、特定の条件がそろうと見える、ということでもある。