昔、富田に気立ての優しい娘がおり、小川の若衆を好きになった。それから娘は雨の日も風の日も毎晩のように九十九谷を越え、若衆のもとへ通った。しかし、男でも恐ろしいという九十九谷の夜道を一人で毎晩通ってくる娘を若衆は恐れるようになった。
そんなある日、小川に乞食の死人が出たので、若衆はその死人を九十九谷の一番狭い所に横たえ、娘が通れないようにした。ところが、その晩も青ざめながら娘が来たので、何かなかったかと若衆が尋ねると、娘は横たわった死人に着物の裾に食いつかれたが、引きむしって走って来た、と言った。
話を聞いた人々は、気立ての優しい娘だったのに、恋をするとあんなになるものか、と噂し、若衆は怖くなって小川からどこともなく逃げてしまったという。
下伊那の山を越える娘の話。南信では、諏訪から伊那に越えてくる娘の話もあるが(「「おとき」のあかり」)、同系話が軒並み娘の死、殺害によって幕となるのに比べると、比較的穏当な幕となっている。
本来と思われる水を渡る娘の話などはまたそちらから見られたい。ここでは、この話の一点、娘が死体を乗り越えてやってきている点に注目したい。はっきりどういう意味といえるほどの感じはないのだが、死の禁忌をも厭わなくなってしまう娘の恐ろしさ、というモチーフが見えるところが気になる。
甲州河口湖の「タッチュウの悲恋」という話では、その娘が火葬場に住む者であり、死体が燃えるさまにも平然としているその娘に相思の若者が恐怖する、という展開が見える。
それらを同列に並べてよいものかもわからないが、もしかしたら、娘は河原者などの娘だった、という側面があるのかもしれない。そして、もしそうなら越境・異類婚の話に通じる一面のある話だということになるかもしれない。