四方を岩山に囲まれた安座は、昔は周囲五~六里もあるかという沼だった。それが八蛇沼で、百尋もある大蛇が住んでいたが、大蛇は沼沢沼の雌の大蛇と恋仲であって、水路を通っては逢瀬を楽しんでいた。沼沢沼の主は、時折美しい織物を流し、これが八蛇沼に浮かぶのが見えたという。
ところが、宝亀年間の大地震で山の一角が崩れ、またたくまに沼の水が引いてしまった。八蛇沼の雄蛇は、干上がった沼の底でもがき苦しんだが、ついに死んでしまったという。そして間もなく、沼岡村の人々は次々に疫病にかかり倒れ死んだ。
この時、ちょうど如法寺に足を止めていた弘法大師が話を聞き、八蛇沼に至ると三日間洞窟にこもって護摩を焚き、大蛇の骨を拾い集め塚に葬ると、祟りが止んで疫病が無くなったという。弘法大師は洞窟に堂を建て、己の木像を置いて、この地に末代安座するなり、といわれたので、沼岡を安座と改めた。
関根に沼沢沼に通じるという一坪くらいの大清水があったが、今は圃場整備のために小さな泉となった。また、大蛇が苦しみながら登って巻きついたという尾多返山は、今は竜ヶ岳という。大蛇の骨を埋めた塚は村の後ろの木立の中にあるが、近づく人もいない。
北流して野沢の町のはずれで阿賀川に流れ入る安座川を遡っていくと安座という小さく開けた土地がある。そこが沼だったというのであり、安座湖水伝説といえようか。なぜ「八蛇」なのかは不明。
沼沢沼は安座から12キロ以上南で、只見川の向こうになるが、このように通じているといい、雌雄の大蛇が行き交ったという話になっている。殊に、沼沢沼の雌蛇(そちらでは沼御前という有名な大蛇)が織物を流した、というところは要注目だろう。水路というのが何を指すのかは不明だが。
また、話の大枠はやはり湖水伝説としてのそこにあると思うが、通常この手の伝で重要となる開拓の話という様子がない(「利根の海の蛟」など)。
一方、北関東から東北には、山の神がより下位の男女の神格の仲に嫉妬して引き裂く、という地殻変動の話がままある(「蛇窪と蛇場」など)。そういった側面も気にしておきたい。