八蛇沼の大蛇

原文

野沢から四キロ、四方を岩山に囲まれた三つの集落が安座である。昔は周囲五~六里もあったかと思われる沼であった。これが八蛇沼という沼で、この沼には百尋(約一八〇メートル)もある大蛇の主が住んでいたが、大蛇には沼沢沼の主である雌の大蛇との美しい恋があった。そして、八蛇沼の大蛇と沼沢沼の大蛇とは、互いに沼と沼に通ずる水路を通っては逢瀬を楽しんでいた。

沼沢沼の主は時折、織りあげた美しい織物を八蛇沼へ向けて水路から流した。その織物が八蛇沼の水面に浮かび上がっているのを沼の近くの村人たちは見かけることがあったという。そうした沼の主たちの美しい恋の沼にある日のこと、思わぬ大異変が起こったのである。

突然、大きな地鳴りとともに山の一角が崩れ、満々とたたえていた沼の水がまたたく間に引いていった。宝亀年間(七七〇~七八〇)に起こった大地震である。

やがてすっかり水が引いた時、岩石に打たれた大蛇はのた打ちながら、干上がった沼の底にもがき苦しんでいた。沼沢沼から流れ出る水路の水も、わずかに沼の底を流れるにすぎなかったのである。そして、やがてカラカラに干上がった沼の底で大蛇はついに死んだ。この後間もなく、沼岡村の人たちはつぎつぎと疫病にかかり、倒れ死ぬ者が多かった。ちょうどその折、如法寺に足を止めていた弘法大師は、この話を伝え聞いて如法寺から急ぎ八蛇沼に至り、三日間岩土の洞窟にこもって護摩を焚き、大蛇の骨を拾い集めて地中に封じ込め、塚を築いてこれを修めてからこの大蛇のたたりがやみ、疫病はなくなったという。

弘法大師は、護摩を焚いた洞窟に一軒の堂を建て、己の木像を彫り、この堂に安置し「われこの地に末代安座するなり」といわれたことから、その後にこの沼岡村を改め、安座と呼ぶようになったという。

関根のムラの前に沼沢沼に通じているといわれる一坪ぐらいの大清水があってごぼごぼ流れている底の知れない深さであったが、圃場整備のために今は小さな泉となった。また、大蛇が苦しみながら登って巻きついたという尾多返山は、今は竜ヶ岳と改められ、大蛇の骨を埋めた大塚が村の後ろの木立の中にあるが、今は近づく人もいない。

『西会津町史 第6巻(上) 民俗』より