済州島の大静山房の道端に、一つの淫祠がある。この祠の神体はイムギ(大蟒=大蛇)で、祠の前を通る時には礼をするか、下馬して歩かなければ、馬のひづめが地面にくっついて動けなくなるといわれる。
麒朝の粛宗二十八年に、牧使・李衡祥がここに赴き、ちょうど祠の前を通りかかった。部下たちが牧使に次第を告げ下馬するよう頼んだが、牧使は聞かずに乗馬したまま通ろうとした。すると、やはり馬が動かなくなったので、牧使は止むを得ず下馬して祠に礼をした。
さらにその後、牧使は巫女たちを呼んでくると祭礼を執り行い、自ら馬の首を刎ねて供物とし、祠の神にぜひともご神体を見せてくれるよう願った。その途端に大きなうわばみが現れ、司命旗を噛もうとしたので、牧使は剣を抜いてうわばみを切り殺し、火で焼かせた。
さらには牧使は済州島全域にかけて祠堂五〇〇ヵ所と寺五〇〇ヵ所を壊し、巫女も官奴として扱うようになったという。しかし、広静堂付近の人たちは今でもその堂の祭を行っているのである。
同書380話に「広静堂のイムギ(大蟒)」とあり、また383話に「広静堂と大蛇」とあって、話の採集者・地が異なるもののほぼ同じ内容なので、合わせて要約した。牧使・李衡祥が千の祠寺を壊した、という後日談が後者の方に付されている。
このような話は、神に礼を失すると、という話というよりも、「祠の向く方に禍がある」という話であり、より原初的な風水思想の表れともいえる。蛇の祠を淫祠と表現していることからも、全体的には旧弊を改めようとした(おそらく儒者であろう)牧使の話という色合いが強い。そのあたり深く先の風水の竜蛇譚の一端としてつきつめても面白いのだが、今回はそれをにおわせつつ、より気軽に「イムギ(이무기)」という名を覚えておく、という事例としたい。
うわばみと訳されているように、イムギは大蛇に他ならないのだが、より狭い意味としては「昇天して龍となる前段階にいる大蛇」ないし「昇天に失敗して恨みを抱いている大蛇(恨みの残念としての大蛇)」を示す。標準的な辞書にも「竜になりそこなって深い水に住むという伝説上の大蛇」(小学館『朝鮮語辞典』)とあるので、かなり通じる筋であるようだ。
一方、そういった竜になれない蛇にはカンチョリ(강철이)と呼ばれる蛇もいる(「龍になれなかったカンチョル」)。そういう関係になるのか現状不明だが、カンチョリのほうが悪性が強いような面があるかもしれない。
また、済州島の話として、李衡祥が旧弊を廃したという話は、あちこちで語られる。島の反対側となる金寧にもほとんど同じ話があるのは面白い(「金寧の蛇窟・一」)。また、それが実は葬儀のことであった、という話にもつながるので、ぜひ参照していただきたい。