蛇窟には大蛇がいて、祭りをしないと大嵐がきて穀物が作れなくなった。それで毎年処女を供物として祭りをしていた。ところが、永川の牧使がこれを知り、大蛇を討ってしまった。討ってから済州市の三門に入ると、背筋がぞくぞくし、蛇の血が背中にべったりついていたという。
この牧使が島から帰ろうとすると、台風が来ていけなくなってしまう。牧使は島に来て、五百の寺と五百の神堂を壊したが、また修理もしたので、古塚の鬼神数万が夢に出て、お礼に閻魔大王に風を吹かせてもらうので、日が明けてから船で帰るように、と助言してくれた。
こうして牧使は故郷に帰ることができたが、死んでお墓が造られると、そこに蛇が現れたという話もある。大蛇がお墓で敵討ちをしようと、現れたのだという。
この牧使は、広静堂のほうでは、麒朝の粛宗二十八年(18世紀初頭)に済州島に派遣された李衡祥のことで、島の五百の寺と五百の祠堂を破壊し、旧弊の淫祠邪教を撲滅しようとしたとよく語られる。その広静堂の話も、祠のイムギを牧使が斬ったという、同じような話だ(「広静堂のイムギ」)。
こちら金寧のほうでは、牧使が破壊だけでなくなぜか古塚を修繕したといい、それで塚の鬼神たちが、祟る蛇から牧使を逃がすのを手伝っている。生贄の風習を亡くした牧使を英雄とする面もあるらしい。
ところで、この金寧の話には、もうひとつ異なる筋のものがあり、それが興味深い。行われていたのは生贄ではなく、鳥葬・風葬のような葬儀であった、というのだ(「金寧の蛇窟・二」)。これは大変に考えさせられる事例である。
なお、(9-1)191とあるが、現在ネット上では地域別のディレクトリからはたどれないようだ。検索結果には出てくる。この牧使が李衡祥であることはそちら原文の中にもある。
ちなみに蛇窟とは「뱀(蛇)굴(窟)」。また、よくわからないのだが、「대맹(大蟒)이」という記述が最後に見える。「맹이」とは鞍とか槌とか出るが、蛇をそう見るのだろうか。