中野本町の後の成願寺付近に鈴木九郎という武士があった。九郎の先祖は紀州から源義経に従いやってきたのだという。その九郎が痩せ馬を馬市で売って大儲けをし、その金を浅草観音に奉納してからは幸運の芽が出、数年で「中野長者」と呼ばれる分限者となった。
九郎はこれを先祖の郷里熊野神社のおかげと信じ、十二社にも熊野神社を建立した。しかし、山と積まれた金銀財宝の隠し場所がなく、武蔵野の中に埋めることにした。下男に背負わせ運んだが、この下男が秘密を漏らしては一大事と、(後の)淀橋の上に来ると斬りつけ川に投げ込んで殺してしまった。
こうして殺された下男は十人にも及び、村人は行きにいた下男が戻らないのを見て、橋を「姿見ずの橋」と呼ぶようになった。この祟りは覿面であり、長者の一人娘の婚礼の夜、熊野神社の方の森から黒雲がわき、大雷雨となった。そして、娘は大蛇に化身して踊り出し、十二社の池に飛び込んでしまった。
長者は罪を悔い、相州最乗寺の舂屋宗能禅師に救いを求めた。禅師は早速十二社池の端で祈祷を行い、そのかいあって娘はもとの姿に戻って昇天した。九郎はこれにより剃髪して法名を正蓮と改め、成願寺を建立した。また、高田から大久保に百八の塚を築き、中野に七つの塔を建て、供養とした。
その後、江戸時代となり、三代将軍家光が鷹狩の帰りに通りこの話を聞き、不吉な話であるので地名を改めるよういったので、姿見ずの橋は「淀橋」と改まったのだそうな。これが西新宿から中野にかけての土地で語られた「中野長者」「姿不見橋」の伝説となる。
本来は話中の成願寺の縁起として記されたもの(享保一九年・1734『多宝山成願寺縁起』)なのだが、縁起そのものではなく、現代で定番となっている筋の方を要約した。おおむね同じで大きな違いはない。またこれは同寺が別当となる十二社熊野神社の由緒縁起でもある。熊野神社にあった十二社池というのはもうない。
さて、鈴木九郎という実在の人物の痕跡などはない。記録上対応するのは紀州から来た渡辺家というこの地の旧家名主で、ここに社寺の文書記録なども伝わったのだが、これが紀州熊野鈴木氏に託して語った伝だろう、と区教育委員会は見解している。
また、より大きな問題として、よく知られた上の筋なのだが、もしかしたら二つの話が融合しているかもしれない、という可能性がある。長者伝説と女人蛇体ないし橋の伝説は別だったのじゃないか、ということだ。これは『縁起』に先立ち記された、この伝の初見である「成願寺勧進帳(明暦元年・1655)」の筋に姿不見橋のモチーフが見えないことによる。
実際に、中野の宝仙寺に伝わったという井の頭池のヌシの大蛇の頭骨の伝などを中心とすると、長者を抜きにして井の頭と淀橋(姿不見橋)がつながっていく(例えば「姿見ず橋と姿見橋」など)。