この首塚は、処刑された北条氏の家臣、匝瑳蔵人の首を葬った塚だという。かつて堀井氏西側の底地付近に、首塚の碑が建設されていた。匝瑳氏の館跡は戸ヶ崎にある。なお一説に、この首塚は昔、合戦の戦死者の首を葬った塚だともいう。(資料提供者・三郷市茂田井七二五 石川新太郎氏)
この匝瑳蔵人には次のような話もあるという。ある年の大洪水で戸ヶ崎が危機に瀕した時、蔵人兄弟は村を救うために、ミノをかぶり、対岸に泳いでいった。堤を切るためである。対岸では、この兄弟を見てはじめ竜が泳いでくるものとおもって逃げたが、よくみると、それが人間であり、しかも堤を切っているので、兄弟は遂に殺されてしまったという。
戸ヶ崎の獅子舞は匝瑳兄弟の霊をなぐさめるためにおこったという。(資料提供者・足立区伊興町大境一六五九 遠藤忠氏)
匝瑳蔵人は小田原北条の江戸衆だったという人で、その興廃を共にしたというが、現在首塚があるのかどうかは現状不明。茂田井だとすると館跡・檀家寺のある戸ヶ崎からは少し北になる。
ここでは蔵人その人の詳細はさておき、後段の蔵人が竜と化して堤を切ろうとして殺された、という伝のほうに注目しておきたい。
なんとなれば、まったく同じ話が西方一里ばかりの足立区花園にあるのだ(「蛇橋」)。現在の地図を見ても、各河川が溢れたらただ事ではなくなると見える土地だが、それゆえにこういった必死の伝がそれぞれの危機として語られてきたのだろう。