竜体さんは蕨の御殿屋敷の渋川公の娘さんだった。渋川公の奥方に子どもがなくて、たいへん欲しかったから、榛名神社に祈願したら、やがて女の子が生まれた。その子が十六になったとき、「お母さん、榛名神社につれていってください」と頼むものだから、親子は参拝にいった。その時娘の姿がみえなくなったので、お池のほとりにたたずんでいると、お池の中から竜となって現われた。それで竜体さんといっているのだよ。だから、蕨町の農民が祈願すると、よく当るといわれているのさ。
(蕨市塚越 貫井登志氏報告・潮地悦三郎「蕨と榛名をむすぶ民俗」『蕨地方史研究』)
榛名湖入水の伝は、各城の敗戦・落城の話としてだけではなく、周辺各地で土地の昔話として、あるところでは蛇女房として、あるところでは蛇娘として語られている。
中でも、この蕨城お膝元での話は、渋川公の娘としながらも落城の話ではないという点で両者を繫ぐものといえる。なぜ「娘」となったのかは現状何ともいえないが、その名「竜体」は夫人の入水伝説(「渋川公夫人の榛名湖入水伝説」)に見るその戒名・竜体(胎)院殿自山貞性大姉から来ているだろう。
興味深いのは、土地の昔話となると敗戦・落城の悲劇の入水という筋ではなくなっていくことだ。『埼玉県伝説集成』には五話の類例が紹介されているが、毛呂山では喜兵衛という人のところに蛇女房として、または勝田家という家の夫婦の祈願の結果蛇娘として語られる(「毛呂の榛名の申し子」)。
さらに川越でも次兵衛夫婦の娘として、花園(深谷市内)でも大治郎という人に拾われた赤子として榛名湖のヌシが人の世を訪れているが、皆本来が榛名湖の竜蛇なのであって、無念の入水で竜蛇となったという話ではない。
そして、これは近代の傾向というわけでもなく、江戸時代にもうそうだった。
「……其後木部氏、妻ヲ慕フテ至レハ、妻湖中ヨリ出テ見ヘヌト。其時妻ノ曰ク。我元ヨリ湖中ノ主大蛇ナリトイエトモ、故アリテ御身ノ妻トナリ、又最早帰ルヘキ秋至レハ、元ニ服シヌ。」『西野私記』
江戸後期に安中藩士関島成章が上州西部の色々な話をまとめたという『西野私記』にこのようにあるそうだが、落城というモチーフはない。榛名湖入水にはこういった「どっちが先か」問題もある。