赤堀村の毒島城物語

群馬県伊勢崎市

鎌倉時代はじめ、青木入道が毒島城を居城としていた。四方は山に囲まれ、中の盆地が水をたたえ、その中島に城があるのだった。そのころ赤石(今の伊勢崎)に三浦賢庭がおり、隣接する青木入道と領分争いを繰り返していたが、ついに毒島城を落とし、すべてを自分のものとしようと攻めてきた。

ところが、賢庭が東の山から下ってすぐ渡れそうな湖水の端に至ると、城は湖水のはるかかなたとなり、攻められない。では反対の山から見ると、やはり上からはすぐ渡れそうに見えるのだが、下って湖岸に至ると満々とした水にさえぎられ攻められない。

それでも遮二無二湖水を渡って三浦軍は攻めたが、青木入道はこのとき、ブスという植物を石臼でつかせ、その毒を湖水に流して防ごうとした。すると湖水がにわかに波打ち、突然大蛇が現れ、怒り狂って火を吐き、湖を渡る三浦軍三千は壊滅してしまった。

これにて賢庭は一旦赤石に退いたが、すぐに再度三千の兵を率いて攻めた。今度はまず湖水の南を切り崩し、水を払ってから湿地に民家の雨戸を集め敷き詰めて城へ渡ったという。

ところが、城に入ると物音ひとつせず、探してみると青木入道以下ことごとくすでに死んでいたという。この話は文政年間赤堀村の桐生良輔という物知りが「蛇体合戦記」に綴っている。毒島城の北の峰には、このとき毒をついたという大石臼が今もある。

しの木弘明『東上州の昔話し』(桜井出版)より要約

三浦河内守謙庭(文中は賢庭)は、相模三浦から行った和田氏の人だと思うが、詳細は不明。毒島城も城址は今も赤堀今井にあるが、詳しいことのよくわからない城だ。湖水だったという周囲は田んぼになっている。

なぜそう代替されたのかは定かではないが、蛇と百足のよく入れ替わる上州のこと、これもその一例かと見知っておきたい。