忍城、成田氏の頃の古地図を見ると、江戸末の様相とは違い、城は沼沢の中に点在する小島の上にある城だった。故に大軍をもってしても攻めることができず、智謀すぐれた石田三成も水攻めを強行せざるを得なかった。そして、三成は七日で六キロの堤を造ったという。
もっともこれは成田側の承知の策であり、城中の士気は大いに上がっていた。しかし、水に追われた沼の蛇が幾十万となく這い上がってくるのには困り、鎮守の諏訪大明神に祈ったのだそうな。すると雨篠突くがごとく降り、水かさは三尺も増した。
ここにいたって、水中をくぐること陸地を歩くがごとき精鋭が堤に泳ぎ入り、これを破ったので、大海の水が一挙に三成の軍を襲い、大打撃を与えた。この時の忍城から埼玉渡柳までの濁流中の強行はいかな精鋭をもってしても困難とみられ、諏訪大明神の御使いの大蛇が躍り出て堤を破ったのだという伝説が語られた。