白龍弁天

栃木県さくら市

昔、白沢三本杉に田畑を多く持ち、人望も厚い農夫がいた。稲荷を厚く信仰し、何不自由なく暮らしていた。ところが、ある年の秋に暴風雨があり、大洪水が田畑を流してしまった。農夫は、家も田畑も流され、残った稲荷の藁宝殿を恨めしく思いながら、一本杉のほうへ移り住んだ。

そこでも農夫は実直に働いたが、度々の禍で身代は細って行き、すっかり貧乏になってしまった。どうした因果かと思い起こし、氏神の与作稲荷を恨んでそのまま置き去りにしてきたことを思い出した。そして、早速詫び、与作稲荷の祠を遷した。

しかし、稲荷は参る人には利益を与えたが、農夫の家には幸せも来ず、何代かのうちに日労いの人夫に成り下がってしまった。それでも子孫は実直だったが、家の不運に思いを巡らし、弁天さまのことに思い至った。稲荷さまは男気の強い神さまで白狐を化身と従えるが、また〝使い姫〟として身近にうるわしい女神の弁天さまを侍らしていたのだった。

与作稲荷は遷されたが、弁天さまは洪水後そのままに忘れられていたのだ。子孫は早速三本杉の大蛇であるともいう〝白龍弁天〟も遷し、与作稲荷の傍らに安置した。それで家は昔のようにまた栄えていったという。

白龍弁天(白蛇弁天とも)さまは、大変おしゃれで、いつも自分の姿を水鏡に映して化粧をしているといい、衣装もお召し換えになるので、時々古い衣装が脱ぎ捨てられている。また、不信心があると大蛇となって家を取り巻くと恐れられていて、土地の年寄は、今も尾の短い蛇を見るという。

石岡光雄『氏家むかしむかし』より要約

与作稲荷(與作稲荷神社)は今もあり、話だと屋敷神程度の印象だが、実際には法人社の立派なお社である。しかも、かつては一帯の稲荷信仰の中心的存在だったようで、日毎数千人の参拝者があったといい、門前には稲荷町までできたという。

歴史も古いことがいわれ、大昔には勝山の城の一隅にあったといい、さらに古くは、源頼義が朝敵退散の呪法を行った神仏の一であるともいう。奥州街道を旅する人により篤く信仰されてきたそうな。洪水があり遷ったのは嘉永三年のことであるという。

現在社殿右裏手に石祠が見えるのが話の白龍(白蛇)弁天さんだろうか。ともあれ、稲荷が弁天さんを侍らせるものだった、と語る興味深い一話だ。これは確かに野州に見るいくつかの話と符合する。