流権現と八つ目鰻

茨城県行方市

高須に流権現が祀られていた。元は泉の椎井の池堤に祀られてあったという。昔、その池に大きな八つ目鰻が住んでいて、人畜を害した。手賀の地頭、鳥名木様の姫もさらわれた。それで、鳥名木様は弓を持って鰻を退治しようとうかがっていた。

すると、草むらから大いびきが聞こえ、見ると大木のような鰻が眠っていた。これを十人張りの強弓に毒を塗り射こんだところ、命中し、鰻は暴れ狂って死んだ。このときに堤が破れて、権現堂が霞ケ浦岸まで流されたので、流権現と祀り、字名も流としたのだという。

この八つ目鰻は十二駄片荷あったといい、一駄ずつ埋めて塚を築き、十三塚といった。首を埋めたのを首塚といい、大堤の下の田の中にある。

堤一郎『ふるさと文庫 玉造町の昔ばなし』
(筑波書林)より要約

高須は霞ケ浦大橋の玉造側の袂。高須崎の一本松が知られる。おおむねその南東側に椎井からの水は流れてきていたと思われるが、現在流権現とあるのかは不明(二代目一本松の下に石祠はある)。

しかし、私はこの八つ目鰻は「夜刀神」に由来するだろうと考えている。椎井跡といわれるものは風土記の夜刀神の末とされる泉の愛宕神社下に今もあるが、東国での夜刀・谷戸はまま谷津でもある。この「やつめうなぎ」は「やつのうなぎ」の意ではないか。

話の結構を虚空蔵の鰻のそれでまとめたきらいはあるにしても、霞ケ浦の鰻の話はより古い土地の水神観へとつながっているように思われる。霞ケ浦では鰻もまた夜刀神の眷属であった、という視点を持っておきたい。