『古事談』『続古事談』

索部:古記抜抄:2013.03.13

『古事談』
賀茂明神弥陀念仏を好むと、勢多の尼夢見の事
粟津冠者、竜宮の王を救けて鐘を得る事、三井寺鐘の由来の事
亀甲の御占の事
清原助元、還城楽を吹いて、蛇難を遁るる事
『続古事談』
祇園社の宝殿の中には竜穴ありといふ事
丹波雅忠の夢想・守宮神のこと

巻第五 十三 賀茂明神弥陀念仏を好むと、勢多の尼夢見の事

勢多の尼上は、いつも賀茂社に参詣していた。ある時、神饌を供える時刻に参ってみると、いろいろな魚・鳥が供えられている所だった。(奇妙に思って)社人に大明神は何をお好みになるのかと訊ねた。社人(社主の子)は自分は知らない、古老なら知っているだろう、と答えた。
その日の通夜の間、尼上の夢に大明神が現われ、宝殿の戸を開いておっしゃるのには、我は弥陀の念仏を好むなり。不断に唱えなさい、とのことだった。このことにより、社頭に僧侶を集め、七日の不断念仏を修すると、結願の夜、また夢に社の跡が池になり、蓮華の花が咲き敷かれた。神主成重は、これは念仏人の往生すべき蓮華なり、と言った。

『古事談』より要約

勢多(瀬田)の尼の名は高階為家(夫)が近江守となった(寛治元年)ことに関係するか、というのでその後あたりの頃の話である。通夜とは葬儀ではなく、夜を徹して参籠すること。尼にとってはナマグサが神に供えられるのが奇妙に思われた、という話である。
話全体としては神仏習合の感覚を良く示していて面白いね、というほどのものだが、この話に関して興味深い点は素饌(精進饌、魚・鳥などは供えない)と魚味を供える神社の別があった、という所だ。岩清水(八幡)・宇佐・春日・祇園などは「精進神」で素饌であるが、伊勢・賀茂・貴船・稲荷・三島など多くは魚味を供える、のだそうな。『鳩嶺雑日記』(石清水八幡宮の雑日記)に「魚味を供えぬ社は神名帳に入らぬ」とあるそうな。
春日大社は精進神で式内社じゃないかという気もするが、あそこは色々複雑なので例外なのだろう。いずれにしても神が穢れ(血)を嫌うというのも古くはそうでもない記録がまま見えるが、やはり仏教の影響なんだろうか、と思わせる件である。

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巻第五 三四 粟津冠者、竜宮の王を救けて鐘を得る事、三井寺鐘の由来の事

園城寺の鐘は、龍宮の鐘である。粟津の男が一堂を建立し、鐘を鋳る鉄を得ようと思い、出雲国に向った。海(日本海)に出ると大風が起り波が被り、船上の人々はうろたえた。すると小舟が一艘やってきて、乗ってきた小童が、こちらの船に乗るように、と言った。小舟は海底に入って龍宮に着いた。龍王が出て来て、龍宮に仇なす敵に一矢射てくれまいか、と頼んできた。冠者はこれを受け、楼に登った。しばらくすると敵の大蛇が眷属を引き連れてやってきた。冠者はかぶら矢にて口中に射入れ、舌を射切り、大蛇を射倒した。龍王は喜び、何でも願いを叶えようと言った。冠者が鐘を鋳る鉄を得ようと出雲に行く所なのだと話すと、龍王は龍宮の鐘を冠者に与えた。冠者は粟津に帰って堂(広江寺)を建立した。(以下略)

『古事談』より要約

以下広江寺が荒れ果て鐘が園城寺におさまるまでの話があるが略。この話が「誠に『太平記』の秀郷竜宮入りはこの粟津冠者の譚から出たのだ」と南方翁もいうところの粟津冠者伝説である。その通り、良く知られる俵藤太伝説へ連なるが、ディティールに違いが大きい。竜女は出てこず、竜宮の敵が「大蛇」である(一般には大百足)。竜宮の所在も日本海らしく、三上山も関係なさそうだ。
『太平記』にある伝の元になったであろう『園城寺伝記』というのも代々書き足されてきた物だろうから成立年代で比較するというのも単純な前後の話ではないが、『古事談』の方が百年以上前にまとまっていた物である事は注目されるだろう。
なぜ竜宮を襲うのが大蛇なのかというのも分からない話だが、竜宮と百足の争いである俵藤太伝説には、その前に百足が出てこない原型話があったのかもしれない、というのは覚えておかないといけない。

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巻第六 六五 亀甲の御占の事

亀甲の占を行なう社には、春日の南、室町の西角に鎮座する「ふとのと(太詔戸)」の明神という社がある。亀卜の際にはこの神を祀る。伊豆の大島の卜人は皆この占をする。堀川院のとき、大島の卜人三人が上洛し、亀卜を行なった。

『古事談』より要約

ふとのとの明神とは本社は左京二条の式内:太詔戸命神(大祝詞神社・廃絶)。記述の位置に何があったのかは不明(分祠の屋敷神か)。神祇官卜部の亀卜は、陰陽寮の式占と対になるという。太詔戸命神社は後裔社もないようで委細は分からないが、後半伊豆諸島のことが語られているところにも注目したい。
伊豆國は式内九十二社と、一体何がどうしてそうなるのかという東国では異例の式内社を数える土地だが、その背景としては朝廷において伊豆國の卜部が(壱岐対馬と並んで)重用されたことが大きいと考えられている。その伊豆の卜部の話がこのような所で語られているわけだ。
もっとも、この「大島」とは現在の八丈島を指すともされるが(伴信友)、現在なにかそのような卜部たちの活躍の痕跡があるのかというとよく分からない(伝書は残るという)。思いがけない日常の中に、その痕跡があったりはしないか、と少し期待しているのだが。

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巻第六 十一 清原助元、還城楽を吹いて、蛇難を遁るる事

楽人の助元が府役を怠ったというかどで、左近府の下倉に閉じ込められた。この下倉には蛇蝎が巣くっているのに……と恐れていると、夜半になって大蛇が出て来た。頭は祇園の獅子頭のようで、眼は銀の堤(ひさげ)のようだった。大蛇の舌は三尺もあり、大口をあけて助元を飲もうとしていた。助元は魂の抜けた心持ちだったが、わななきながら笛を抜き出し、還城楽の破を吹いた。すると大蛇は動きを止め、首を高く持ち上げて聞いていたが、やがて姿を消したのだった。

『古事談』より要約

堤は鉉(つる)のついた鍋状の金属製容器(鋺)。蛇の目は良く鋺に例えられる。この笛を大神氏清原家に伝わった「蛇逃丸」といったのだそうな。というよりもその横笛・蛇逃丸の由来伝説である。
「還城楽(げんじょうらく)」は「見蛇楽(けんじゃらく)」が転じた名ともされ、西域の蛇を好んで食う人が蛇を捕らえた際に喜び舞う舞楽であるとか(教訓抄・四)、摩利支天が大蛇を調伏した舞楽なのだとか(続教訓抄)、ヴェーダの抜頭王が退治された悪蛇を見て歓喜勇躍する舞楽であるとか由来が語られる。そういえばクリシュナ神もカーリヤーの頭を踏んづけて笛を吹いて踊っていた。いずれにしても蛇にしてみれば不倶戴天の舞楽である。唐楽曲。
この正月にも巳年だというので還城楽をテレビでやってたそうだが、巳年に蛇退治の曲?と竜蛇バカは思ったものであった(笑)。それはともかく、後には細面の若人の吹く笛の音に惹かれて竜女などが現れるものだが、一方でこのような「蛇退治の笛」というのがあるということだ。
しかし、その双方も「蛇を自在に操る」と見れば同じことではある。蛇遣いは古来笛を吹くものなのだ。そのことを理解するのに、この蛇逃丸の伝説は良いだろう。

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巻第四 六 祇園社の宝殿の中には竜穴ありといふ事

祇園の宝殿(神殿・本社殿の事)の中には、龍穴があるという。延久の火事の際、天台の座主がその深さを測ろうとしたが、五十丈を測ってなお底にとどかなかったという。保安四年に山法師が追われて宝殿に逃げ込み姿を消したが、龍穴に落ちたのだろうという。

『続古事談』より要約

現在の本社殿下にも深い池、もしくは井戸があるといい、神泉苑と通じているともいう。竜神信仰だろう。『古事談』は他にも室生寺の竜穴のことなど扱っているので(5-24 室生竜穴神の事、日対上人竜穴巡りの事)、この祇園の話も竜神信仰を底に意識しての記述だと思われる。この話も南方翁が『十二支考』で紹介していたが、牛頭天王と竜蛇の関係がどうこうと気にしている背景にはこういったかなりダイレクトな話があるのだ。

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巻第五 三 丹波雅忠の夢想・守宮神のこと

典薬頭の雅忠の夢に、七八歳くらいの小童が寝室に走り出てきて言った。先祖の康頼が熱心に祀ったこころざしに応えて、文書を守って二三代となったが、火事が起こるだろうから気をつけるように、と。そして二十日ばかり経ったときに本当に家が火事で焼けてしまった。しかし、(夢のおかげで)文書の一巻も失わずにすんだ。昔は、諸道にかく守宮神が立ち添ってくれていたので、その恵みがあったのである。

『続古事談』より要約

典薬頭とは宮中のお医者の頭領である。丹波氏が代々任に就いており、丹波雅忠は伝説的な名医。瓜の毒を見抜いたのも雅忠だった。中沢新一先生の『精霊の王』で、宮中諸芸の神として守宮神が祀られていたことが広く紹介されたが、医道のことは強調されてなかったように思う。しかし、ここに見るように医道も申楽や蹴鞠と同じく守宮神の守るところであったわけだ。『精霊の王』ではこの古層の神に「堂々たる胎児」のキャッチが与えられていたが、医を見守る存在として真に象徴的なイメージである。
また、「むかしは、諸道にかく守宮神たちそひければ」の文言はこの話に出てくるフレーズだ。何の道であれ、古典芸能を稽古されている方には心にしみる一文だろう。

古記抜抄『古事談』『続古事談』

古記抜抄
「古記抜抄」は、龍学の各記事から参照することを目的とした、日本の古典(主に説話)文学からの抜書きです。原文・書き下し文は割愛し、その話の筋を追えるように要約と簡単な解説によって構成されています。現在は以下の各書についての抜書きがあります。