吾妻神社

索部:相模神社ノオト:2011.09.07

祭 神:弟橘姫命
    日本武尊
創 建:景行天皇の朝(伝)
例祭日:一月十五日
社 殿:流造/南向
住 所:中郡二宮町

『神奈川県神社誌』

吾妻神社
吾妻神社
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東海道線二宮駅の西の吾妻山の山上に鎮座される。吾妻山公園として二宮町の「顔」であるから迷いようはない。ただし、登り口は東海道線の北側にあるが、そこの鳥居は二之鳥居であり、一之鳥居は東海道線を渡って国道一号線脇にある(後段に周辺地図)。

本社の創立は第十二代景行天皇の朝と伝えられている。皇子日本武尊が東征されたとき、妃の弟橘姫命が相州走水の海に身を投じられ、夫難に代わられて風浪を静められた。後海辺に漂着した櫛を吾妻山上に埋め祠をお造り申し、これをお祭りした。これが本社の創始とされている。

『神奈川県神社誌』より引用

『神社誌』にもこの様に[資料1]。入水した弟橘媛の遺物が流れついた、という伝承が走水を中心に常陸から伊豆の海岸に連なっており、ここは典型的なその社。一般にはこの伝承分布の西限とされるのが当社である[資料5]。ここ吾妻山は吾妻の森として江戸初期から知られ、貝原益軒が紀行文に記しているというし、より端的には本居宣長が『古事記伝』に於いて師、賀茂真淵の「(橘比売の御墓の事に関しては)今相模国の梅沢のあたりに吾妻森と云ふあり是なりと云へり」との書入れがある事を記しており、またそれを受けて宣長本人も「余綾郡なり、大道にて小田原と大磯の間なり、吾妻山吾妻明神の社あり」と書いているそうな[資料2]。江戸期を通じて弟橘媛の遺物漂着伝承の本地は相州余綾の吾妻の森(吾妻山)だという認識があったのだろう。このことは吉田東伍も『大日本地名辞書』に引いている。

本殿
本殿
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それ以前の記録というと吾妻神社の縁起が寛永年間にまとめられている。八年に縁起本文が、十二年に略記が記されたと言うが、現在『二宮町史』に集録されているのは略記のみのようだ[資料3]。この縁起が最古史料となるだろうか。江戸時代には「吾嬬神社・四阿(あづま)神社」などとも表記されている。さらに遡ってとなると社伝では鎌倉期に北条政子の厚い崇敬を受け、多大な寄進が行われた云々ともあるが、『吾妻鏡』などには見えなく不明である。

ただし、吾妻神社の別当である千手院(現在等覚院東光寺・通称藤巻寺)は行基創建の古刹と伝え、本来吾妻神社の神像である千手観音を保持しているそうな。『二宮町郷土誌』によると……

すでに数百千年の星霜を経過し、像は、はなはだしく汚損しているといっても、『新編相模風土記』四十に「吾妻社。…中略…本地仏千手観音を神像とするといい、その注文にも長さ壱尺許、天平中、僧行基此辺遊化のとき、神託を得て神殿におさめた。」といっているのを対照するに、けだし祭神の弟橘媛命の本地仏である千手観音の仏像のようである。

『二宮町郷土誌』より引用

とある[資料2] [資料4]。これが正しく考察のように本地仏として伝世したのであれば、吾妻神社ないしこの地の弟橘媛命信仰は平末鎌初には遡るのかもしれない(この辺りの行基伝説を持つ社寺はそのあたりに遡る)。

また、二宮町はそもそも「吾妻村」だったのであり、ここ吾妻山は周辺のシンボルに他ならないのだが、吾妻山以外にもこの伝説にまつわる地名が二箇所存在する。ひとつは「梅沢」で、流れついた「櫛」を「埋めた沢(埋沢)」が転じて梅沢となったと伝わる。吾妻山の麓、一之鳥居辺りから山上現社殿まではこれにあたる。

周辺地図
周辺地図
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もうひとつは「袖ヶ浦」で、文字通り弟橘媛の着物の袖が流れ着いたと伝承される浜である。一号線を下って小田原との境辺りにあたる。そして、かつて吾妻神社は袖ヶ浦の下社と梅沢の上社という上下社の結構であったといわれる(下社は現存しない)[資料2]。なお、お隣小田原市前川の丘上にも小さな吾妻神社の社があるが、そこはこの袖を分葬したところと伝えている。

このような二宮町吾妻神社だが、万事鑑みて弟橘媛伝説のひとつのセンターであると考えて良いだろう。特に西相模から伊豆半島相模湾川に分布する吾妻神社・祠は当社との関係抜きには検討できないように思う。そして、私はまさにこの範囲の海の人々の勢力が『先代旧事本紀』に見る古代師長の国であったと考えているのだが、師長一宮であったと伝える川匂神社(相模二宮)は吾妻神社のわずか西北西一キロのところに鎮座されている。このことにも大きなヒントがあるように思うが、そのあたりはまた改めて。

参拝記

吾妻神社へは平成二十二年の三月三十日に参拝している。まだ、こういった神社巡りをこうして発表する予定もなかった頃なので、あれこれ取りこぼしがある。そのあたりはまた改めて参拝し、追加・更新していこう。

一之鳥居
一之鳥居
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ちょうどその時は上写真の一之鳥居も改修中だった。背後に見えているのが吾妻山。本居宣長も「大道にて小田原と大磯の間なり」と書いているように東海道から参道がのびていたのだろう。吾妻神社は旧社格では無各社だけれど(社格昇級運動をして失敗している)、小正月の例祭には地区外からも多くの人が訪れ、軽便鉄道の特別便が用意されても乗り切れない程だったとの話が語られる。

二之鳥居
二之鳥居
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東海道線を跨ぐ歩行者専用の橋梁(参道としてあるのだろう)を渡ると二之鳥居が見え、ここから登る。短いとはいえそれなりに山道なので、足回りはきちんとしていった方が良い。二宮駅を北口で降りて東海道線の北側の道を来るとここはすぐである。

神明社
神明社
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二之鳥居を潜ってすぐには上写真の小さな神明さんの祠がある。これは吾妻神社の境内社ではなく、独立して神社庁に登録されている。しかし、『神社誌』に「往昔日本武尊東征無事の旨を伊勢の宮に祈りし時、幣帛を奉られし旧蹟なりという」とあるので[資料1]、関係はあるのだろう。

吾妻神社
吾妻神社
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山上の吾妻神社さんの社地は吾妻山公園ということもあって大変手入れの行き届いた庭園のような所だ。公園であるというだけでなく、御神職の方も大変こまめに手入れされているようで、手作りのパンフレットのようなものも定期的に発信されているようだ。記紀神話の模様などを易しく解説されたものが拝殿前におかれていた。

さて、実はこの土地と弟橘媛の関係というのは相当に根が深い。土地では弟橘媛の父親である穂積氏忍山宿禰は師長国の国造としてこの土地に下向しており、弟橘媛もこの土地に下っていた、ないしこの土地でお生まれになったのだと伝えている。『先代旧事本紀』に見る橘媛が日本武尊との間に九子をもうけた、という話も、『吾妻神社縁起』ではこの土地の事だとしている。お隣小田原の吾妻神社との間には「橘」の地名も残っている。

そしてその「九子をもうけた」という所を私は大変気にしている。弟橘媛は関東各地でまた子安の神としても祀られるのだが、この「九子をもうけた」の伝があって初めてそれは成り立つのじゃないかと思う。伊豆の方では流れついた遺物が「腹帯」だという所もあり、それが子安信仰の要ともなる。伊豆河津の御釋神社の頁で述べた伊豆の母神との習合の可能性の問題もある。

これらの問題がどのように連絡して今の形となったのか。というよりも現状まだ「今の形」の全体像すらよく分からない。どうも、弟橘媛の遺物の漂着伝承というのは追っている研究者があまりいないようなのだ。改めて参拝し、などと書いたが、再度どころかこの先長い長い探求となる、そのとば口に私はいるのかもしれない。

吾妻神社から二宮の海を望む
吾妻神社から二宮の海を望む
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脚注・資料
[資料1]『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁(1981)
[資料2]『二宮町郷土史』二宮町教育委員会:編(1956)
[資料3]『二宮町史 別編 寺社・金石文』二宮町:編(1994)
[資料4]『新編相模国風土記稿』(天保十二年)
[資料5]『日本の神々―神社と聖地 11: 関東』谷川健一:編(2000)

吾妻神社(中郡二宮町) 2011.09.07

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