吾妻神社
索部:相模神社ノオト:2011.06.07
伝うるところ日本武尊の王妃橘姫命が海神の怒をしずめんとして入水されたが、その袖の一片が陶綾の磯に漂着したのを納め奉った。それからこの磯を袖ヶ浦とよぶようになったと伝えられている。この由緒の地に姫及び尊の功績をしのぶため創立したのである。
三浦半島の走水で入水した弟橘姫の笄・櫛・袖などが流れついた、という伝説は霞ヶ浦〜伊豆半島東側まで広く分布しており、この小田原前川もその一例。
僅か東北東3キロの位置にさらに二宮町吾妻神社が鎮座しており、小田原前川の吾妻神社と流れついた袖を分葬したのだ、という話もある。同二宮町に鎮座する式内:川匂神社の社伝『二宮川勾神社縁起書』によると「磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥(ほづみおしやまのすくね)・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり……云々」とあり、この穂積忍山宿禰が弟橘姫の父である。
すなわち、小田原市の東海岸から二宮町にかけて、弟橘姫はこの土地の生まれであったという伝承があるのだ。小田原前川の東側を「橘」と言い、弟橘姫にちなむという。事の虚実はともかく、数多い「弟橘媛伝説」を持つ土地の中でも比較的「濃い」土地であると言えるだろう。
吾妻神社付近から見る小田原市橘の海
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相模湾東部、東伊豆にかけての「吾妻神社・祠」に関しては類書にはない社の発見などもあり、いずれ別途論じるが、その際にも、ここと二宮の吾妻神社は中心的な存在となるだろう。
参拝記
吾妻神社へは平成二十二年の五月十五日に参拝している。小田原市国府津駅から中村党の本拠地中井町中村へとたどった行程だった。
この吾妻神社さんへ寄ったのは「ついで」くらいの理由だったのだが、結果的には大変意味のある参拝となった。この日の神社巡りで中村党が東伊豆沿岸から大磯沿岸にかけて生活した海に生きる氏族だったのではないかという思いを強くしたが、その範囲は弟橘媛伝説の社・祠のある範囲と一致する。
以降、私はおそらくこの氏族(師長国造末流か)と弟橘媛伝説は大きく関係しているのだと考えている。
しかし、神社そのものは私有地の農道にしか見えないような所を登った先に鎮座し、上の写真の看板がなければまず行き着けない(立ち入って良いようには見えない)。参拝の際は見落としませんように。
もっとも境内そのものは国府津丘陵のハイキングコースの一環として整備されており、大変心地よい空間となっており、新緑の中に出現した写真の鳥居の印象は忘れ難いものとなっている。
吾妻神社(小田原市前川) 2011.06.07