片菅神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.13

祭 神:片菅命
創 建:徳治二年(伝)
    式内:片菅命神社(論社)
例祭日:十月八・九日
社 殿:入母屋造?/南東向
住 所:賀茂郡東伊豆町片瀬

『東伊豆町の神社・仏閣』

社頭の由緒書きに「片管神社・片管命」と表記されており、参拝された方の参拝記などではそのまま「片管神社」となっているものもある。しかし、他にこの表記はまったく見えず、おそらく四画草冠、ないし旧字体からの誤記だと思う。また、社頭と『東伊豆町の神社・仏閣』に社殿の造りが「入母屋造(略祇園造)」とあるが[資料2]、これは拝殿のことかもしれない。

片菅神社
片菅神社
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片菅命は「かたすげのみこと」である。伊豆急片瀬白田駅から西北西に白田川を一キロ弱遡った所に鎮座される。社頭掲示に見るように「白田川の守護神」として祀られている。中世から近代は「八幡宮」であり、今尚その側面を継いだ祭祀もある。戦前には式内:片菅命神社の最有力論社であったが、後、三宅島に本地があることが明らかになり、今は片瀬では式内の看板は掲げていない。

まず、式内論社としての側面を見てみよう。「片瀬白田」はあとに見る志理太乎宜神社と片菅神社の「しらたき命・かたすげ命」の兄弟神を祀っている所からこの地名となったとされ、かつては両式内社の最有力論社だった。御祭神の片菅命は三宅島にいます伊豆三嶋大神の后神・佐伎多麻比咩命の御子神であるとされる。現在片瀬では「かたすげ」となっているが、古い史料にはは「かたすか」ないし「かたすが」と訓だものもある[資料1]。佐伎多麻比咩命は三嶋大神との間に八柱の御子神をもうけたと、伊豆三嶋信仰の神話をまとめた通称『三宅記』に見える。片菅命の『三宅記』上の名は「かたすけ」である。『三宅記』における八柱の御子神に関しての記述を見てみよう。

三女おは彼嶋(三宅島)のうしとらの方におき給へり。此腹王子八人一度に生れ給へり。一番はなこ、二番は加禰、三番……(中略)七番はかたすけ、八番はひんすけとぞ申ける。かの王子達うみ給ふ所は嶋のうしとらの方、かまつけと申所なり。又なゝはしらといふ所にてそたて給へり。所々に宮つくりありて王子王子をみやみやにおき給へり。(壬生本による)

『式内社調査報告 十』より引用

と、いうことで七番目(八つ子ではあるが)に生まれた「かたすけ」が片菅命のこととされる[資料1]。三女とは母神・佐伎多麻比咩命のこと。箱根にいた翁の三人姉妹の末妹。三柱とも三嶋大神の后神となって三宅島に祀られている。八王子が生まれた場所が「かまつけ(現・神着)」、育った所が「なゝはしら(七柱・現在地不明)」であるということだ。この様に三宅島の中で八王子の祭祀は本来完結していたと思われ、現在は式内の八王子の本社は三宅島に鎮座されていたものと考えられている[資料1]

それでは片瀬白田は何だったのかと言うと早い時期での分霊を祀った所だと考えられている。その理由は主に伊豆諸島を定期的に襲う地震・噴火時の島民の半島側への一時避難と、部分的な永住によるとされているが、私はもっと当たり前に島嶼と半島の行き来があり、双方に信仰の拠点を持っていたのだろうと考えている。「早い時期」であるのは中世には式内に見る祭神名がほとんど風化してしまっていることから推察される。

志理太乎宜神社
志理太乎宜神社
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白田の志理太乎宜神社が八王子の五番目の王子、志理太(乎)宜命を祀り、片瀬白田では片菅神社と対になっている。志理太(乎)宜命を祀ることと、この土地への三宅島の神の来訪に関しての考察は志理太乎宜神社の稿に述べたので参照されたい。ここでは、さらに片菅命そのもののことについて考えてみよう。

白田川
白田川
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先に述べたように、片瀬神社はまず「白田川の守護神」として祀られている。水神だ。そして、これは三宅島における片菅命の役割とも一致しているのである。三宅島神着美茂井(みもい)の「カサスゲ様(現・片菅神社)」の伝説を見てみよう。三嶋大神の御子神の「役割」を伝える伝承は多くなく、極めて貴重であるので全文を引用する(現代表記に改めた)。

昔々、島々の神々が神津島に集まり会議をお開きになった。「さて、島々へ水をどのように分配したらよろしかろう。」という重要な相談になったが、利島の神様だけはその時になってもお見えにならなかった。さて、利島の神がお見えになった時には、すでに水の分配の終った後で、わずかに御椀の底が隠れるほどの水の分しか残っていなかったのである。遅れたとはいえ、これではあまりにも薄情と、利島の神は激しくお怒りになり、「これっぱかりの水などいるものか。」といってその水を投げ捨てられた。ところが、その水は三宅島のカサスゲという所に落ちた。そこが美茂井のカサスゲ(カタスゲ)である。よって、この地は今に至るまで清水が湧き出て、涸ることがないという。なお、この故事により利島には今も湧水がないという。

『式内社調査報告 十』より引用

この泉が今もあり、その脇に祀られてきた水神「カサスゲ様」が、片菅命であろう、とされる[資料1]。三宅島神着美茂井の片菅神社についてはwebサイト「玄松子の記憶」様方を参照されたい。

はたして三宅島における水神格であった片菅命の役割が、白田川の守護神とされる片瀬の片菅神社まで繋がっているのかどうかは定かではないが、しっかりと頭に入れておかなければならないことだろう。いずれ島嶼と半島の信仰にどれほどの連絡があったのか、という問題への考察がここにも大きく影響してくると思われる。あるいは、伊豆諸島に見る巫女集団を彷彿とさせる下の道祖神像がそのヒントを示しているのかもしれない。

社頭の道祖神
社頭の道祖神
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いずれにしても以上のように式内:片菅神社の論社としての片瀬・片菅神社の位置づけは、もと最有力論社なるも、今は早い時期での分霊であると考えられている、という所に落ち着いている。しかし、これも「片菅命を祀ってきたのならば」という但し書きはつく。なんとなれば片菅命を祀ってきたという口承・記録がある訳ではないのだ。中世以来近代まで、ここは「八幡宮」だった。では、今度はその側面を見てみよう。

徳治二年創始と伝えられている。氏子の総意に因って神地を選び社殿を建立し八幡大菩薩を勧請して鎮守の社と定めた。棟札に「奉勧請若宮正八幡大菩薩・当郷奈良本両村鎮守の所」と記されている。

『ふるさとのならわし』より引用

と、社伝などに見るように、八幡宮だった。戦中は出征軍人の武運長久を祈るところとして崇敬が厚かったという。また、本殿内には武人像が安置されており、六十年ごとに衣装装具を一新する神事「辛酉式年祭更衣祭」が伝わっている(前回は昭和五十六年)。毎回、京都で時代考証をしながらすべて手作りで新調されるので、費用も莫大にかかる神事であるという。この辺りは「八幡」としての神事だろう。なぜ辛酉なのかは分からないという[資料4]。貴重な神事であるので、今少し詳しくその模様を紹介しておこう。

片菅命の着衣紋服のお召替は六十年ごとに行われています。片瀬海岸にて「潮花」をかけ清め、神主を先頭に区役員区民一同行列を組み神社に向います。お宮にて神主の指導によりお召替となります。これは夜中に行います。着衣・紋服はお宮に公開してあります。

『ふるさとのならわし』より引用

御祭神が片菅命となったので「片菅命の着衣紋服のお召替」となっているが、本来は八幡神ということだろう。記録上「片菅」の名が見えるようになるのは寛政元年の棟札に「奉納八幡大菩薩 片菅神社」となって以降であるし、これには同寛政十二年に出された『豆州志稿』がここを式内社と記していることとの関係も疑われる(『豆州志稿』では「八幡社」となってはいるが)[資料3]。しかし、これらから八幡宮が本来であり、片菅命を祭神としたのは近年のことだ、と決めつけられるのかというとそうでもない。

まず、「若宮八幡」を勧請した、という社伝が問題で、「若宮」は伊豆では三嶋大神の御子神を意味する。ここから若宮八幡と下ってなってしまった例はままある(南伊豆町の湊・若宮神社[式内:竹麻神社三座の一]など)。ここ片瀬も創建とされる徳治年間に起ったことは三島御子神の社の八幡化だった、という可能性はある。また、寛文年間の棟札には徳治二年に若宮八幡を「合した」と記録されている[資料3]

その様な次第で、ここ片瀬の社は長らく八幡宮であったのが事実であり(ただし白田川の守護神・水神であったのも確かだろう)、片菅命の名が出るのは基本的に推論なのだという点はしっかりおさえておかないといけないだろう。

境内社
境内社
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あとは境内社とその他の祭祀について述べておこう。資料上境内社の名は見ないが、本社殿向って左側に上写真の一棟があり、左側に祠が数社祀られている(右は神輿殿と思われる)。祠のうち名が分かったのは「山神社」と「竜爪大神権現」の二社。竜爪神とは静岡市の龍爪山・龍爪権現の勧請だろうが、猟・漁の神としてよく祀られるのに加え、鉄砲の神という側面を持ち、「弾丸除け」「徴兵逃れ」のための祈願が盛んに行われた。

神楽殿
神楽殿
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伊東から河津にかけての海際には写真のような神楽殿がよく見られるが、これは「三番叟」が共通して演じられてきた、ということによる。三番叟は伊豆の海から房総半島にかけて漁師達が奉納するものとして見え、その海の文化の伝播を考えて行く上で貴重なものだ。しかし、現在は片菅神社の三番叟は中絶されているとある[資料4]

また、現在どうか分からないが、かつては例祭の神輿は決して口をきくことなく担ぐのだとされていたと言う[資料4]。これは白田の志理太乎宜神社で「神榊の葉を口にくわえて声を出さないようにしていました」とあるのと同じだろう。キノミヤ信仰の忌事との関連が考えられるが、そのあたりのことは志理太乎宜神社の稿で述べた。

参拝記と私見

社頭
社頭
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片菅神社へは平成二十二年の九月四日に参拝している。伊豆大川から片瀬白田まで残暑の厳しい中を歩いた。片菅神社に到着したときはその社叢の提供してくれる日陰にホッとしたものだ。ご覧のように大変立派な樹木の生い茂る社叢である。志理太乎宜神社の方で、来宮として浜際に祀られた兄弟神が、白田川を遡って木の宮として片菅神社に祀られるはずだったのではないかと述べたが、この参拝時の感想がそう思った根本にある。

社叢
社叢
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さて、主張な点に関しては上でほぼ出尽くしているので、後は現地で少し気になったことをボチボチとあげていこう。全面的に「埒のない話」ではある。まず、志理太乎宜神社の方でも述べたが、片菅神社と志理太乎宜神社の造作は良く似ている。実際この土地に赴くならば、所々の木造物や雰囲気やらをよく見比べてみると楽しいだろう。対となる神社なのだということが実感されるはずである。

木鼻の獅子
木鼻の獅子
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拝殿に向ってまず目につくのが、屋根に設えられた漆喰の龍だ。お寺みたいだね、と言ったらそうなのだが、私はこれが気になった。特に赤い火炎と絡まっているような、部分的には赤い所が龍の腹のようになっているような所が特に気になる。

漆喰の龍
漆喰の龍
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伊豆熱海には修験の一大勢力の根本社だった伊豆山権現が鎮座するが、そこの縁起に赤白の夫婦龍の話が出てくる。伊豆山から箱根芦ノ湖までの地下には赤白の夫婦龍が絡み合っておって、頭が伊豆山権現で尾が箱根権現なのだと言う。赤龍(女龍)がマグマを、白龍(男龍)が温泉を示すとか、熱海の錦が浦は本来「二色浦」であり、この赤白の龍のことだとか言われる。

そんな話をこの片菅神社の龍を見た時に連想したのだが。片菅神社に伊豆山修験がどれほど影響力を持っていたのかはまったく分からない。お隣河津の杉桙別命(河津来宮)は伊豆山との縁も深いのだが。

石塔
石塔
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そして、拝殿前には写真の石塔がある。左右に二本ずつ四本立っている。参拝から一年以上経過したが、今に至るもこれが何か分からない。燈籠なんだろうか。まったく同様のものが下田市田牛の八幡神社にあったが、そちらは普通に参拝したのではまず見えない拝殿と本殿覆殿の間両脇に立っていた(それも左右に二本ずつ)。

椀状穿痕
椀状穿痕
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また、こちらちゃんとした(?)石灯籠の台座にはものすごい数の椀状穿痕があった。実は伊豆半島東側ではこの椀状穿痕がほとんど見られない。その様な風習がなかったのかと思っていたら、ここでこんな光景を見た訳だ。その後、伊豆の道祖神に関する資料をあれこれ読んで行くと、道祖神の頭頂部に椀状穿痕様の凹みを持つものが相当数あったことが分かり、なかった訳ではないことは分かっている。

狛犬
狛犬
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このような不思議なあれこれが集まってくるというのも年期の入った鎮守の社の特徴だ。拝殿前の狛犬さんからも大変な貫禄を感じたことを今でもよく覚えている。

脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部(1981)
[資料2]『東伊豆町の神社・仏閣』東伊豆町文化財審議委員会:編(1980)
[資料3]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料4]『ふるさとのならわし 東伊豆町年中行事』東伊豆町文化協会:編(2008)

片菅神社(賀茂郡東伊豆町) 2011.10.13

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