高浜神社
索部:常陸神社ノオト:2011.06.16
祭 神:武甕槌命
配 祀:菅原道真公
月読命
創 建:不詳(貞享二年本社再建)
例祭日:七月二十五日(青屋祭)
社 殿:本殿流造茅葺/西北西向
住 所:石岡市高浜
高浜神社はJR常磐線高浜駅から霞ヶ浦の方へと行くと恋瀬川の流入する北側に鎮座している。表の通りからは少し分かりにくいがセブンイレブンが目立つので、その裏手だと思っていれば良い。
社頭掲示が簡潔なのでこれを引用しておこう。
高浜神社
口碑によれば、高浜の地は古代には国府の外港として栄えた。国司は都から着任すると、当国内の大社に報告のために巡拝し、また奉幣祈願をするのがならわしであった。
国司が鹿島神社に参拝するには、高浜から船で行くのが順路であったが、荒天で出航不能のときは、高浜のなぎさにススキ・マコモ・ヨシなどの青草で仮屋(青屋)をつくり、遥拝したといわれる。
現在は、本殿・拝殿・石鳥居などがあるが、この社殿は後世に建てられたものであろう。
由緒に見るようにもとは仮屋(青屋)であったものが、「青屋祭」が整備されるのに併せて神社化し、高浜の鎮守となっていったのだろう。貞享二年に本社再建、「高浜鹿島大明神」と称したと記録があるので、その辺りにこのような社殿が構えられたのかもしれない。
大正時代に町内の天神社と境内の月読社を合併とあり、配祀の神はこれである。月読命はこの辺り一帯で子安講(月待ち講)の本尊とされるので、それだろう。また、国府に造られた「青屋神社」も後子安の神社と化しており、鹿島そのものが子安信仰の中心であることからも、結びつきやすいものである。
現在境内にはいくつかの石祠が見えるが、資料上境内社の記載はなく、何が祀られているのかは分からない。上は弁天さんだろうか。水神さんだろうか。
年間行事化した「青屋祭」に関して、国府直近の青屋神社で行われる祭祀の次第はそちらにあげたが、その続きはここ高浜神社へやってきて行われた。『神社誌』にこちら高浜神社側の次第が記録されているのであげておこう。
青屋祭
旧六月二十一日府中(石岡)税所、健児所の両人公家装束騎馬従者三十人列を正して来社、社前の青茅葺仮殿に税所左、健児所右に着席。神主両人茅の輪をくぐること三度、両人奉幣の式を行ひ、天神地祇四方拝礼、奏楽の順に厳修した。幕末に中断してをつたのを明治五年六月祠掌小松崎穂、税所とはかり復活した。この日神前に「うどん」と茅の箸を献饌。諸人これにならつて青屋箸と云ひ「うどん」を茅の箸で食す風習今に残る。
祇園の祭祀と結びついた青屋祭・青屋箸の次第は大変興味深い側面を持つので、別途論ずる。中近世には「うどん」ではなく初物青物を青茅の箸で頂く風習だった。
参拝記
高浜神社へは平成二十三年四月二十三日に参拝した。石岡に行こうと思ったのだが、なぜか一つ手前の高浜で降りた。大地震に応じて、まずは霞ヶ浦の向こうの「要石」の鹿島神宮を遥拝したいと思ったのだ。そうしたらその高浜に国司が鹿島を遥拝する仮屋だったという高浜神社があって、驚いた、という次第。いつの世も人の考えることは似たり寄ったりである。
ご覧のように本殿・拝殿共に大変立派な茅葺きの神社でありまして、その後の予定を大幅に遅らせての滞在となった。境内を通りかかった婆ちゃんにあれこれお話を伺ったが、「いっぺえ写真撮っどくとええよぉ」と自慢の茅葺き屋根の様だった。もっとも「最近はこんな屋根つくるもんもいねぐなっちまって」ということで、次の建て替え時にはどうなってしまうか分からない。石岡の総社の方の随神門の茅葺き屋根は新しく葺かれていたが。
高浜は江戸時代には霞ヶ浦と筑波山麓の海山の物資を水運で江戸へ送る一大センターだったようで、町内の掲示にも往時の賑わいが強調されている。今はもう眠っているような町ではあるが。
水運業といえば「力石」で、船乗り達はこれを担いでみせて力自慢をしたものであある。霞ヶ浦から各河川に沿ってあちこちの神社境内に力石がある。霞ヶ浦の水運業が大ブレイクしたのは利根川の流路変更以降なのだろうが、もっと昔からこういったものがあったかもしれない。
そういった「霞ヶ浦湖畔」であることが強調される一方、この土地は「筑波山を遥拝する地」という側面も併せ持つ。特に恋瀬川に架かる橋からは筑波山の偉容がよく望める。式内社などがないのでこの辺りの信仰はスルーされがちだが、霞ヶ浦の鹿島への玄関、という線と筑波山を遥拝する地という線が交錯する、かなり重要な信仰の地であった可能性がある。『神社誌』には「当地は筑波神山と鹿島神域の中間に位置し、風光明媚な国府(現石岡市)の外港として栄へた処で宮方と呼び、鹿島を鹿島国方と云った」とある。国方─宮方という具合に鹿島と対となる信仰上の要所であったのではないか。
高浜神社の社地の造営にも気になる点があり、上の写真は本社殿向って左脇を抜け、後背にある鳥居を望んだものだが、このような「立派な後背の鳥居」を持つ神社というケースには往々にして「そもそも同一社地に二重に神社が造営されている」場合がある。
今は該当する建物は見当らなかったが、この「後背からの参道」はあるいは何らかの第二の神格を祀るものだったかもしれない。
いずれにしても雨中の参拝であったが、往古国司が荒天に際して造営した仮屋がそのもとである、というのならむしろ適当であったかもしれない。神社を後に高浜の岸から鹿島の方を望んだが、あるいはその時国司達の目にした霞ヶ浦もこんな風であったかもしれない。
高浜神社(石岡市) 2011.06.16