おとわ池

門部:日本の竜蛇:中部:2012.02.21

場所:新潟県佐渡市
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系3』(みずうみ書房):「おとわ池」
『日本の伝説9 佐渡の伝説』(角川書店):「おとわの池」
タグ:蛇聟入り


伝説の場所
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佐渡島の奥深くに「乙和池」という世にも神秘的な池がある。日本最大の高原湿原性浮島を持つ池だそうで、学術的にも大変貴重な所とされる。そしてこの乙和(おとわ)とは、この池の竜蛇に見初められて嫁いだ娘の名、そのものなのだ。件の浮島もおとわが池の主に嫁いだ後出現したと伝わる。周辺類話を含めてこの話は「水神に嫁ぐ娘」を代表する話だと言える。

むかし、佐渡の長福寺に、乙和という下女がいた。ある時、村の娘たちと奥山に蕗を採りにいく。途中娘たちとはぐれ、あわてて駆けているうちに、馬の足跡の水たまりに足をふみこんで腰巻きをよごす。近くの池でそれを洗っていると、池の主があらわれて、この池で腰巻きを洗った者はわしの女房になる掟だから、三日後に迎えに行くという。乙和はたまげて、逃げ帰って床についてしまう。
三日目になると、主の大蛇がやってきて、寺の本堂を七巻半まき、乙和を渡さねば、大水を出して、村の田畑を流してしまうという。和尚は困って三日間だけ待つようにいい、りっぱな若者の姿で来てくれと頼む。大蛇が帰った後、和尚は乙和を呼んで仏の道を説いて聞かせる。
約束の日、乙和は村中の人に見送られて馬で迎えに来た若侍の馬に抱きあげられ、池に嫁ぐ。数日後、村人たちは、池の中央に浮島が出来ているのを知る。そして、それは乙和が池に住みついたしるしだろうと噂し、その池を「乙和池」と呼ぶようになる。旧六月二十三日は、乙和が池の主に嫁いだ日だといい、村人は池に供物をするという。(『佐渡の民話』)

みずうみ書房『日本伝説大系3』より引用

周辺地図
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まず一見してピンと来るのは「馬に見初められる娘」のモチーフが入っていることだ。引いた話では「馬の足跡の水たまりに足をふみこんで腰巻きをよごす」となっているが、類話では古いものほど月経で汚れた腰巻きを洗う、という話になっている。汚れ物を洗ったので池の主の馬(竜馬)が怒って大水になったという話はままあるが、これはもともとは怒ったのではなく、発情したのだと考える方が良いだろう。伊豆三宅島にも「飼い主の一人娘が小用をたしているのを見て、馬がみそめる。」というオシラサマ的な伝説があった。とかく馬となるとそういう方向へ話が流れるらしい。乙和を見初めたのは馬ではなく蛇だが、その過程は馬系の伝説のモチーフが混在していると見て良いだろう。

で、次いでヌシの蛇は「この池で腰巻きを洗った者はわしの女房になる掟だから」と無茶なことを言うのだが、これには前段がある。乙和の頃より昔、一帯が大旱魃に見舞われた際、池のヌシに雨乞いをした。ヌシは娘を嫁がせることを条件に雨を降らせた。しかし村人たちは娘をやりたくないので、この先池で腰巻きを洗う娘があったらそれを嫁がせよう、とヌシに誓ったのだそうな。このような伏線があるのだ(『大系』同稿の類話)。かくして乙和は竜蛇に嫁ぐことになる。

この婚姻が何を言っているのかは色々考えられるだろうが、やはりオシラサマ伝説にまつわる馬娘婚姻譚と近しいものがある感じがする。先の前段の旱魃の際、ヌシは「昇天するために嫁がいるから」という理由で娘を要求している。馬娘と蛇娘の異類婚は非常に近いものがある、という点は指摘しておきたい。

さて、続いて興味を引く点を上げておくと、長福寺の和尚が「りっぱな若者の姿で来てくれと頼む」という場面がある。各類話でも概ね共通する。これは、高僧の説法を聴いて昇天しようとする竜女に対して、「人の姿ではなくもとの姿で来なさい(出ないと昇天させられない)」と高僧が申し出る話の型(「龍の残した鱗」など参照)と、構造的に対になるモチーフの様な気がする。検討するほど話の数が集まっていないが、大きいテーマになるかもしれない。

また後日談としても面白いものがある。この乙和池は下っても神池であり、その水を農耕に使おうものなら作物は却って枯れてしまうとされるほどのものだったそうな。逆に長福寺の雨乞いには験力絶大に応えたと言うのだが、それをうらやんだ者もいたという。

(前略)むかし、青野の宝蔵寺の公寛和尚は、長福寺の和尚のする雨乞いの法事を心憎く思っていた。ある年(正徳六年ともいう)公寛は、七日以内に、きっと雨を降らせてみせるといい、おとわ池のほとりに祭壇を設けて祈願した。ところが、七日満願の日が来ても、雨は一滴も降らない。
公寛は腹を立てて人夫を連れて来て、池の土手を切り崩し、池の水を流した。そして、公寛は池の主に祈願しなくても、こんなに水が流れて、田をうるおしているといって、山を下る。しかし、翌朝になってみると、人夫の家の田の稲は、みんな枯れていた。そして、幾日もたたないうちに、宝蔵寺は焼け、公寛も急死した。これは、おとわ池の主の祟りだといっている。(『佐渡郷土文化』)

みずうみ書房『日本伝説大系3』より引用

伝説の効能というのはそれを共有する共同体の保証でもあるという良い例だろう。いずれにしても色々なモチーフが短い中に凝縮している伝説だと言える。

そのそれぞれの解題は、例えばオシラサマ伝説との類似では、佐渡にオシラサマがどのように入っていたかを見ていかないといけないだろうし、東北独特の馬信仰がどう影響しているのかも細かな民俗を集めて繋げていかなければ本当の所は分かるまい。しかし、そのように辿っていく甲斐がその先にあることを伝説は予告してくれている。今でも行くのが大変であるというおとわ池の畔に立つまでにどれだけの切り口を見つけることが出来るだろうか。それは、すべての遠方の伝説の地について言えることでもあるが。

乙和池(webサイト「佐渡観光協会」)

乙和池
乙和池
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おとわ池 2012.02.21

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