常中行:水戸・常北・瓜連

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.09.10

ほぼひと月ぶりに週末の天候が良好となりまして、「常中行:水戸・常北・瓜連」であります。三地域も回ってるけど、神社さんはいつもの半分くらい。この日は「渡る」事が目的だったのですな。いろいろと。
華麗に8:30amに水戸駅に着き、余りにも気ぜわしいので前回はスルーした35分発のバスにドリャッと飛び乗りまして、九時には水戸の探索に入る事ができる、という次第であります(西相模発)。しかも鈍行で(水戸から先に行くとなると特急の方が早くなる)。

ここがその第一ポイント、水戸市は愛宕町の「愛宕神社」さんであります。茨城大学のすぐ近く。で、ここは例によって前方後円墳である事が主眼目なんですな。写真は前方部から登っていく参道。
本社殿・境内社などは皆後円部上に鎮座されている。デカイのだ。それもそのはずで、ここ愛宕山古墳は『常陸国風土記』に見るこの地の雄にして、ここ古代那珂(仲国)の国造の初祖であるとされる「建借馬命」の墓と衆目の一致する所なのだ。
愛宕さん、というよりも建借馬命の墓、という感じですかねぇ。奉納されている絵馬も建借馬命を描いたものじゃないかしら。もうちっと若い頃のイメージしかなかったので(個人的に)ちょっと意外だったけれど。
ひと際立派な境内社は三島さんだった。事代主命・大山祇命、とあるので伊豆三嶋大明神だろう。ここから那珂川を遡る道にも箱根や伊豆のあれこれが見える。あたし西相模の人なので、地元の神さまの活躍を見るの巻、なのです。
しかし妙に境内社がよく祀られて……石祠に垂れ幕なんて初めて見たかも?
ちなみに古墳を縦走する参道が本筋なんだろうけれど、後円部脇にも鳥居があって参道がある。こちらに古墳そのものの解説などはおかれてありまする。
ちなみにちなみに隣接地区を「袴塚」というのだけれど、これ前方後円墳の事かしら。確かに前方後円墳は袴をはいた塚と言ったらそうも見る。
愛宕山古墳のすぐ側には、これまた『常陸国風土記』に見える「曝井(さらしい)」がある。布をさらした泉なので曝井という。今は庭園状にきれいに管理されている。
あ、先の写真は『万葉集』の方にある歌の碑ですな。しかし今はこんなでも、園内の由緒書きによると昭和50年手前くらいは雑草に埋もれて荒れ果てていたそうな。キッチリ先へ残す造営が成されて何よりな所であります。
布をさらしたからなんだってんだ、とお思いかもですが、このすぐ脇を那珂川が流れ、北には久慈川が流れ、遡ると静織りの里であった静神社が、また、長幡部神社があり、久慈川を遡れば棚倉と、一大「織物」ロードであった、ということなのですよ。さらした織物も「調」だったのでしょうな。

ここでまたひらりとバスに飛び乗り、北西の「大井神社」へ。式内:大井神社の最有力論社であります。バス通り沿いに立派な鳥居が……あったんですけど、地震で。
大井神社の鎮座するこの土地は「飯富(いいとみ)」といい、これは古代多氏すなわち飫富(おふ)・意富臣(おふのおみ)からきているのであろうとされ、御祭神も先の建借馬命(意富臣)。常陸多氏の本拠地だったのかも、という所ですな。
実はここ、予習段階で謎物件てんこ盛りである事が分かっていた神社さんのだけれど、えぇ、あたくし多少の無理を押してでも宮司さんにお話を聞きたいなぁ、と思ってやってきたのですよ。んが……
結婚式が執り行われていたのでありました。わはははは。これは多少の無理どころじゃねい。謎解きはまた。でも、これは聞いた所によると「地元の人が鎮守さんで挙げる結婚式」であったようで、これはこれで良いところに遭遇できた、のかも。
御神紋は拝殿垂れ幕には三つ巴の紋があったが、御本殿には菱井に大の字の紋が。こちらが本来かしらね。
ではその謎物件その1(ジャブ)。境内社の「意冨比神社」。「元宮」と書かれている。で、御祭神がなぜか「天照大神」なのだ。どういうことだろう。
謎物件その2。「女化稲荷」さんが写真の木の根元のウロに祀られている。女化(おなばけ)稲荷といやあ、ずっと南の龍ケ崎市の有名なお稲荷さんだ。それが木の根のウロに祀られるとは……子安系なのか。女化稲荷には葛の葉的な伝承もあるが……
寄りで。ちゃんとウロの中にはお狐さん方もおられまする。
謎物件その3(左フック)。「お袋様」。祠にはお人形も何体か奉納されている。常陸には「姥神様」という山姥(鬼)のような造形の石像物を祀る所がままあるが、その流れかね。しかしこんな彩色されている女神像というのは聞いたことがない。
そしてその4(右ストレート)。なんじゃこりゃー!八角の……方位がらみか。中央に白い鉱石が祀られている。なんだかまったく分からん。……という所なのですよ。聞きたい事がてんこ盛りだった、というのもお分かりでしょう。
そんな感じで、式内で古代多氏で、という所を差し引いても「村の鎮守」かくあるべし、と言う素晴らしい神社さんでありました。ワラホウデンもずらっと。多分これがたくさんある所は里の家々との繋がりが濃い神社さんなんだと思うのです。
参道階段脇にはかつての御神木の切株か。とても丁寧に祀られております。この様に万事細かい所まで行き届いている大井神社さんですな。
おまけで境内社の意冨比弁財天巽神社も。銭洗弁天状になっとるのだ。大井神社の御手洗はまた別に。また、名のもとかどうか、かつては近くに大きな湧水もあったそうな(以下の爺ちゃん談)。
で、神社ではお話を伺う事はできなかったのだけれど、神社の真ん前のお家の爺ちゃんと「目が合い」まして、例によって「どうも〜」とお話を伺う事に。やはりこの爺ちゃんが日ごろ神社境内を手入れされてるということで、えぇ、その辺の目利きも神社メグラーのたしなみでありますれば、えぇ(笑)。
んが「ここの神社はいろんなもんがあるぞ」と自慢する爺ちゃんなのだけれど、それぞれの由来と言うと「……何だったかの」という感じで。その辺はいずこも同じであります。難しい由緒がどうこうというのではなく神さまはそこにおられる、それで土地には十全なんですな。
でも「昔は隣りに寺があってなぁ。雷が落ちて燃えっちまった」とか資料上は見ない話も色々聞かせていただけました。で、話している間中猫さんが必死であたしの足下でゴロゴロアピールしてる訳で、途中から話はその猫さんのことに。
「もう十三年もおる」というのでこの猫さんが大井神社の「見張り猫」だろう。適当にいじくり回していたら満足したのか、こんどは門柱の下でゴロゴロと。「あんまそうしてっと笑われっぞ」と爺ちゃんに言われてました(笑)。
といったところでバスが来まして、爺ちゃんと猫さんに見送られてあたしは発つのであります。これがこの日第一の「渡り」で、建借馬命の墓と言う愛宕山古墳と命を祀る大井神社を続けて巡りたかったのですな。そして、道行きはまた旧常北町石塚の方へ。
この間の常中行(青山神社付近)もここ歩いてんですが、その時は時間的にもう日が暮れかかっていたので印象が違いますな。ま、「ざ・のどか」という感想は変わらんが。
行く道に子安観音さんと月待ちの二十三夜供養の碑が。二十三夜供養碑は嘉永五年とある。まわりの花は意図的に育てられてるんでしょうな。女人講がまだあるんだろうか。

ここは「小坂(おさか)」という土地となります。前回神社巡りで「専用の行程を踏んで参ろうか、という程」で、スキップした、という「小坂神社」が鎮座される土地なんであります。明らかに山並みから外れた黒々した森。地図を開くまでもない。
この「行程」がこの日第二の「渡り」となるのです。実に、ここ小坂神社は常陸二宮静神社の「本宮・元宮」と伝える所なのであります。本宮・元宮から静神社へと参りましょうと、そういう趣向なんですな。
しかしここ小坂神社さんは参道と社殿の関係がちょっと不思議。写真が参道なのだけれど、社殿は横を向いている。あると言えばあることだけれど、こうもあからさまなのは……何か意図があるのか。
笠宮・飯野宮・熊野権現の三社が合祀して小坂神社となったのだけれど、静本宮と伝わってきたのは笠宮(かさのみや)。小坂神社はこの笠宮をベースとしている。静本宮というのも勝手な伝承ではなく、かつては静神社の例祭に笠宮から榊を持って神職が赴いたと言う。また、延宝年間にはその榊の木を静神社に移植したとも言う。
拝殿の前はこんな風に社叢だけ。やはり参道と社殿向きの関係が気になる。
注連縄も例の左右からの常北タイプ。でも最初の愛宕神社さんもそうだったな。水戸タイプ?大井神社さんは鳥居が崩れちゃっていたので分からないけれど、玄松子さんの写真によると違うものだったようだ。
また、笠宮以外では、合祀された飯野宮には文明十一年の銘のある、在銘としては県内最古の御神像が伝わっており、この土地が重要な神祀りの地であった事も伺わせますな。御本殿も「いわくありげな神明造」で、隣接地区の式内:青山神社も御本殿神明造だったけれど、こちらも「劣らない神社なのだ」という感覚があるのかしらね。
「笠宮」の由来となるのは、御祭神の天手力雄命が、ここの松に笠をお掛けになったから(笠懸の松)、というのだけれど、その松は古代のうちに枯死してしまったそうな。で、二代目の松をその由来を受けて八幡太郎義家公が手ずからに植えたという、写真の切株がそれ。これも昭和四十八年に虫害により枯れてしまったとある。
また別に「笠状の石を祀っていた」ともいうのだけれど、いずれにしてもこの「笠」が何なのかというのはまだよく分かりませんな。一般的には「笠神」というのは疱瘡除けの神(瘡蓋)だ。んが、そういうんでもないなぁ、ここは。
さて、その境内には一人の爺ちゃんが涼んでおられたのだけれど、「ここは、静神社の……」と聞いてみますと、言下に「おぅ、元宮よ」と力強く言い切りなさった。口調からしてよくぞ聞いて下さった、の感だ(笑)。ま、ここ小坂の地に静元宮を訪ねる他所の人など絶無に等しいだろうから無理もない。
で、「昔はその裏の(と拝殿裏を指して)榊をなぁ……」と、先の話をして下さったのだけれど、「今氏子総代の方が行き来とかはしませんか?」と聞いてみると「今はもう何もしねぇなぁ」との事でした。
ま、あたしはこれから「今はもう何もしねぇ」ところを静へ向うんだけれど。参道に連なる石祠さん達がなんぞ言っとるようにも。「相模のコワッパが静に行くそうじゃ」「何年ぶりじゃ。酔狂なことよの」とかね(笑)。
ちなみにここ小坂神社の由緒を記した看板は、境内になくて少し外れた所にある。他の参拝の方の記録などだとこれ(静神社元宮の伝)を知らずに……というものもあった。折角のものすごい伝承なのになぁ。なんでじゃ。ここに行くと読めます。

小坂からてくてくとまた石塚へもどってきまして、那珂川を渡って静神社を目指す訳ですが、途中一社より道。「草懸神社」へ。
ついに注連縄のあわせ部分が俵の様相を呈して来ましたな。これは鳥居の所だけれど、拝殿の注連縄も同様だった。
ここは例の武甕槌命一派 vs 甕星族の激戦を伝える神社。この地で武甕槌命が追い込まれ、危うい所を土地の者が命に草を懸けて隠して助けた、という伝説があり、草懸神社という。そして、これを期に武甕槌命一派は巻き返し、以降那珂川を渡った先への追討戦に持ち込んだという。
話せば長いのでいずれまとめてとなるけれど、おそらくこの武甕槌命一派 vs 甕星族の伝承というのは、土地の武闘派とぶつかった古代多氏建借馬命達の記憶を伝えるものだろう。この日はずっとその流れを考えながらの神社巡りだったのであります。
ところで、ここも何やら社地・参道と社殿の向きが不思議な……参道に角度をつける事はよくあるが、社殿だけが斜めを向いてる感じというのは見た記憶がないな。
そしていよいよやってきました那珂川。常陸編も四ヵ月を越えてようやくであります。まさに常陸のルビコン川であると言えましょう。「賽は投げられた!」と南下した蝦夷の雄もいたかもしれん。
那珂川を渡ると現・那珂市となりまして、静神社の鎮座するかつての瓜連町へと向うのであります。川を越えるとすぐこんな地勢に。これがまさに「瓜連(うりづら)」なんですな。
ウリはアイヌ語で丘の意、ヅラはヤマト言葉のつらなるで、大変珍しい蝦夷の言葉とヤマトの言葉の合成語地名だと考えられているのがこの土地、この光景。もう、実にそのとおりの光景で「おぉ、まさにウリのつらなる……」と感激している単純なアタクシでありました(笑)。

そんなこんなで丘を越えてやってきましたよ、常陸国二宮・式内:静神社。あ、「しず」神社ですね。「やっとここまでやってきました」という参拝ができるというのは神社メグラーの喜びであります。押忍。
静織り(倭文)の神にして、香々背男にとどめを刺した武神でもある謎の静神社。あたしは常南・常中と来て、そして常北町の伝承と小坂神社からの行程で、その謎を解くひとつの鍵を持って来る事ができたと思っている。
しかし、それは言葉通り「ひとつ」の鍵に過ぎない。あたしも小坂神社が静元宮だとは額面通りには考えていない。まだまだ、何本もの鍵が必要なのだ。ここ静の女神に姿を見せていただくには。
そんな訳なので、もう日も暮れている事もあるし、今回はほんの「さわり」という事であります。写真もあえてあまり撮らなかったしね(撮っちゃうと「まぁ、撮ったし」と足が遠のくしね……笑)。
またいずれ成果を重ねてお参りさせていただきます、とふり返る静の社叢。もうすっかり日暮れでもありました。しかしこの日は次へ次へと進んじゃいまして、朝から何も食べていなくて、いい加減腹ぺこの極みでありまして、静駅の方に行ったらなんぞお店がないかしらと思っていたのですが……
静駅(TΔT)。うまいもの食わせる店どころかコンビニすら……あ?こんびに?瓜連を舐めんじゃねぇよ、ってなもんですか?ここで列車(電車ではない)がくるまで小一時間……が、この日のラストステージなのでした。

補遺:

常中行:水戸・常北・瓜連 2011.09.10

陸奥・常陸編: