常中行:旧常北

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.08.13

あたくしこの日は東茨城郡城里(しろさと)町の旧常北町エリアへと行っとりました。常中行なのに常北とはこれ如何に……ってなもんですが、仕方ねぇ。「常中行:旧常北」のレポートであります。
ついに道行きは水戸駅まで来たのでありますっ!カッカッカッ!ま、水戸はあれこれ難儀なんで後回しなんだけどね。ここからバスで城里町の方へとさらに40分程ひた走るのでありました。
あ、メモしておこう。バス乗っていたら途中のバス停に「安戸星(あどぼし)」というところがあった。古代多氏の本拠だったかもの飯富あたりだ。地域最古の安戸星古墳とやらもあったそうな。いずれにしても「星」の入る地名は珍しい。覚えておこう。
水戸市と城里町の境辺りの藤井という所まで来るともうこんな具合であります。まだここは水戸市なんだけれど経路的に具合が良いので、まずはここの藤内神社さんを目指しております。

式内:藤内(ふじうち)神社最有力論社の「藤内神社」。ここでは朝房(朝望)山を経津主命の神体山であるとし、そこから射した霊光がこの地におりたので、鎮斎したという。
ここからの分かれであるともいうこの間の有賀神社は、那珂国造・建借間命の創祀だとも伝える。だとすると、古代多氏の建借間命が経津主命を祀った、ということになる。フーム。
御本殿女千木だ。鰹木は三本だが。有賀さんもそうだった(鰹木は五本)。両社ともこのパタンとなると捨て置けませんわなぁ。なんかあるんか。
派手ではないが注連縄が変わっている。二本の注連縄を結びつけた、という理解で良いのか、これは(と、思っていたらこれがこの地域のスタンダードであることが以降分かってゆく)。
そしていよいよ城里町・旧常北町エリアへと進むのであります。……てか、この時点でもう暑すぎて……農作業小屋も暑さでうにっと歪んでいるように見える。
ステキ度ランクA+な小川。なんかもうあれもこれもいるに相違ない。マムシとかもいそうだが。

旧常北町上入野という所の「鹿島神社」。もう、この社叢の日陰を求めてさまよう一日であったと言っても遠からず(笑)。
この鹿島さん、社頭の由緒に「木の根に関する伝説あり」とわけの分からぬ一文がある。これは『神社誌』の方により詳しくあり、武甕槌命がここで木の根につまづいたので、踏み込まれた縁の地として祀ったのだと言う。
それだけでもよく分からない話で、つまづいたからってなぁ……と、思うのだが、実はこの土地、それで十分神祀りになる勢いの所なのだ。旧常北町、どえらい土地なのである。なんとなれば、武甕槌命一派と甕星族の激戦の地はまさにここであったと伝える土地なのだ。

以下ちと長いが『茨城県神社誌』に特記されている「ふるさとのしづめ」という一文から当該部分を引用しておこう。

ふるさとのしづめ
(常北町は)古来常陸国の北西の要所で山河にめぐまれ、交易文化の要路として栄えた。太古、天津甕星神、又の名を天香々背男といふ悪神の勢力圏内にあつて暴威をほしいままにしてをつた。天津神の御委任をうけ平定の大任を帯びた武甕槌命、鳥磐櫲樟船命(石船神)、建葉槌命たちは当地の西部に天降られ、慎重な空陸一体の作戦をねられて香々背男軍に向つたが神出鬼没、極めて巧妙頑強で、大激戦が至るところに展開された。鹿島河原の戦には九死一生の危機に命(みこと)もあはれた程であつた。しかしよく全軍をたてなほされ、当地の甕星族を討伐し、更に甕の原へと追撃に転じ遂に全滅させ、この地に平和郷が建設されたのであつた。大神たちの甚大な功績と勇武を讃へ、後世ふるさとのしづめと武甕槌命を鎮斎した当地は、実に十社に及び、建葉槌命ゆかりの社二社で占めてをる。御神威赫灼と全域を照らし、口碑に文書に敬仰してやまぬものが満ち満ちてゐる。おそらく当国随一であつて、鹿島神宮式年遷宮御用材も伐出してをり、鹿島発祥の地として誇つてをる。

『茨城県神社誌』より引用

と、いった次第なので武甕槌命を祀るといってもこの周辺はちょっと異質なのですな。そのせいかこんな石も「腰掛け石」じゃあないのか、と見える。
それはともかくここも注連縄がこんな。やはりこういう様式なのだ。何と言うのかね。あるいは何を意味しているのかね。
石祠の前に小さな瓶が。あらやだ。普通に民間レベルでは「瓶を置くもんだ」とかやってんじゃないでしょうね。うーむ。中は空だったが。
とかまぁ、色々聞きたいことがあるのだけれど外は人気もなし。こんな太陽だもの、イタシカタ無し。ていうかちょっと手加減してくれませんかね、あたくしもうとけっちまいますやん(TΔT)。

そんな中を増井という所の「鹿島神社」へ。注連縄三例目。ここには常陸国七井の一という「増井」があったという。古くはその井にちなんで豊受大神を祀っていたという。
Wikipediaの笠間稲荷の項に「『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。」とあり、どこにもんなこたぁは書いてない謎があるのだが、「井」の祭祀のことなのかしら、とこの増井の話など見ると思う。といっても常陸は井だらけだが。
その後増井は鹿島神宮の神倉となり、鹿島神社になった。しかしここ一間社なのだが、千木が三組。笠間の三所神社がこうなのは三柱を祀るからかと思ったのだが、ここは武甕槌命一柱だ。祭神の数の反映というわけではないのか。
ここは本殿前に狛犬さんがおった。立っている。やや御本殿向きに据えられてると言えるかなぁ。やっぱどうも「本殿狛」は神さまの登場を待ち侘びていると言うか、本殿の中に入りたがっていると言うか、そんな感じが。
拝殿に落書きと椅子。見えるかしら。相合い傘で「はいど♡みか」(笑)。何だか廃校のようだ。もしかしたら実際そういう役割もあったのかもしれん。廃屋と化していた隣の社務所(?)はそんな感じだった。
増井を後にしまして、ちと幹線道を外れ、山中へ。民俗調査的に、えぇ、日よけのない幹線道歩くのがたまらんかった、という説もある(笑)。この道の先は山中の墓域となっていた。山中異界をイメージするにはこういった山中の墓域をよく見ておかないと。
そして山を抜けるとささやかに拓けた土地が耕されていた。小さな小川が削ってきた土地なんだろうね。こういう所を見て歩いていると、「持ち帰る」事のできるものが膨らむと思うのですよ。

西へと進みまして下古内(ふるうち)という集落へ来ております。ここに清音寺という古刹があり、その敷地内にまた「鹿島神社」が鎮座されている。太古山か。どうも周辺この名の山があちこちあるようで。
ここ清音寺には「うなぎ地蔵」にまつわる伝承があって、興味深いのだけれど、これ追うには南東にある藤井川ダムの方へ行かにゃならん(一日がかり)というわけでこれはまたの機会に。
清音寺参道途中にある鹿島さんは大同年間(和銅とも)清音寺開基の折、護法のために鹿島・香取・高房の三社を勧請したと言う。このうち香取さんは分からなくなってしまったけれど、鹿島・高房神社は今も祀られている。
まー、山内ということもあって素晴らしい緑の中のお社であります(御本殿)。しかし東国三社でなく鹿島・香取・高房を勧請したというのですなぁ。香々背男との激戦の地、という伝承と関係するのだろうね。
境内祠もこんな。竹の作り物がありますな。なんだろうな。お寺的なものかしら。
里の方へともどりますと不思議鳥居が。立派な鳥居なのだけれど、後ろは畑である。さらにその後ろに茂みがあるが、茂みがなんかなのか?
鳥居の足下には犬卒塔婆が。これは「現役」っぽいですな。この後(明日分)、もしかしたら馬を弔っているのかもしれん、という股木卒塔婆を見たが、ここもそうだったかもしれない。周辺馬頭観音さんが頗る多い。
里の中をうねうね流れている藤井川。下流に「竜潭淵」という淵があり、先のウナギ地蔵の話の舞台となる。んが、これがまた「水戸の御老公」が「いかにも竜の棲んでいそうな淵だ」と言ったからそうなった、とも言い、古いのかどうか微妙なのだ。
ま、あたしの実情はと言いますと御老公もうなぎ地蔵もあまり念頭になく「あああああ、とびこみてえぇぇぇ〜!」といった所だったのだけれど。暑いのなんの(笑)。

下古内を北上し、上古内との境近くに「高房神社」さんが鎮座されている。先の清音寺開基にまつわる一社ですな。民家の塀・垣根が続いて、ふっと途切れて鳥居が現れる。「あ、」と思う瞬間。
特に注連縄などは見えなかったが、鳥居脇のこの木が御神木なんでしょうなぁ。何となく見るとちょっと大きい木だが、よく見ると写真中央の主幹なんか、上の方が太くなっているようにも見える、「ぬおっ」と思う木だ。
高房神社・建葉槌命は再三出ているが、常陸二宮静神社の織物の神の側面、鹿島神宮摂社の大神に仕える巫女神の側面、宿魂石を蹴倒した武神の側面が重なりあう複雑な神格だ。
香々背男との激戦地だったここ常北ではいかに……と思いますると、やっぱ男神・武神としての勧請なのかしら、とも思う。千木はないが、鰹木は陽数だ。朱に塗った拝殿が気になるが。
ここまでも例によって七福神さんはあちらこちらにいっぱいおったが、ここの石祠には面状のダイコクエビスさんが。こういうものが作られているのね。土師器なのか?
ここ上下古内はこんなところ。山間に田畑や茶畑がささやかに広がる。今は車道がしっかり通っているが、昔は隠れ里のような所だったんじゃないかという感じもする。

さらに奥まりまして、上古内の「鹿島神社」。ここが「平定の大任を帯びた武甕槌命、鳥磐櫲樟船命(石船神)、建葉槌命たちは当地の西部に天降られ……」と伝えるその場所だったと言う。
御社殿は皆最近建て替えられたようでピカピカだが、ここが『三代実録』に見る鹿島神宮の建替え用材を採った「古内山」だといい、古地名も那珂郡鹿島郷古内村だったという。鹿島神宮とはその歴史の始まりから縁の深かった土地なのだ。
これが果たして神宮の用材を供出する土地となったから「降臨」伝承が生まれたのか、事実鹿島(の一面)の発生の地だったが故に用材の供出地とされたのか、が難しい所だ。個人的には多氏の流れからして後者の確率は高い、と思う。
境内社の弁天さんまでピカピカでしたな。神池も設えられている。なんかこう……鹿島大神降臨の地、とか打ち出すのかな?
古内の地を後にしまして道行きますと、田んぼを見守るような位置に馬頭観音さんの一群が。
中でもお屋根のかけられている脇には股木の卒塔婆が。これが昨夜言っていた馬を弔ったのかもしれない、という股木卒塔婆ですな。文字はもうかすれていてまったく読めなかったが。田畑で働いてくれた馬故にその田畑がよく見える場所に……ということだろう。
さらに道行きまして勝見沢という集落への入口に経塚堂が建っていた。もう日暮れが迫っていて、ヒグラシさんたちがすごい状況ですのよ、これ。あぁ、帰らなきゃ、宿題やんなきゃ、と四半世紀たってもあせる(笑)。
その経塚堂の前にちょっと珍しい石神さんがおった。「馬力」と彫られていて、「馬力神(ばりきしん)」と言う。北関東から宮城辺りの範囲に見られるもので、いずれ馬の供養のための石碑。馬頭観音さんとはどういう差があるのかしらね。
お隣には子安観音さんも。犬供養の犬卒塔婆はご婦人連が祀るのが通例だが、これは犬と安産が連絡する故。そして馬供養の馬頭観音さんや馬力神とも同じ所に子安観音さん。皆緩やかに連絡しているのだろう。
ところでこの辺りから北西側には「小坂」という土地があり、「小坂神社」さんが鎮座されている。実はものすごい由来のある神社なのだけれど、ものすご過ぎるのでここは「専用の行程」を踏んで参ろうか、という程。故に今回はスルーなのでした。

そして道行きは「青山」という土地にいたり、ここに「式内:青山神社」が鎮座されているのであります。まず確定社だろう。あたしはここが一連の話のキモだと思う。
参拝された方達が一様に紹介するすごい参道。杉の古木が両脇に連なり、まさに「神域」である。
長い参道の果てに姿を現す御社殿がまた。何と言うか巨大な何かが眠っている土地、という感じだ。本来社叢はそういうもんだと言えばそうだが、身体レベルで実感させてくれる所はそうはない。
宝亀三年創建(ないし遷宮)、紀伊の伊太祁曾神社から五十猛命を勧請したという。しかし、如何せんこれまでに見てきたこの土地の話からすると唐突な印象ではある。あたしはむしろそれらが付会で、ここはズバリ「多氏の社」だったのだと思う。
谷川健一先生は「青」の付く地名が黒潮に沿って分布していることを指摘し、この運び手が古代多氏だったのではないかと言われるが、これがここの本意ではないか。そうであれば甕星族と戦った武甕槌命一派の話は多氏の進出のこととしておさまってくる。
ここ青山神社は一見常北の古の大戦の話からは外れるように見えるが、逆にその枠組みの中で、というかまさにその中心に据えてみるべき社であると思う。

さて、旧常北町エリアをぐるっと一周してきた道行きもオーラスでして、えぇ、今回あたくし「オーラス」を狙って回ってきたのであります。石塚(いしつか)というその土地。何の石の塚なのかと言いますと、天香々背男を封じた宿魂石の一片の石のことなのであります。
「風隼(かざはや)神社」。五裂した宿魂石の一つを祀るという社その三であります。社頭にも「神体石。石塚の地名起源の伝説の石」とある。
例によって御祭神は宿魂石を蹴倒した方の建葉槌命。現在城里町の役場もこの石塚にあるが、常北の頃から土地の中心地であっただろう。『神社誌』でも常北筆頭にあり、常北総鎮守格である。
ここに宿魂石がなぁ。一名「魔王石」とも言うようだ。笠間石井の石井神社、内原の手子后神社とここで三社目だが、五裂したあと二つは東海村石神社と御根磯(日立市の海にある小島)。だんだん大甕神社も見えてきたか。
ここ石塚はすぐ東が那珂川。渡ってそう遠くなくもう常陸二宮静神社という土地である。建葉槌命の本地だ。それは甕星族の逃走経路でもある。多分、この流れを追うことは常陸の謎解きのための強力な橋頭堡となるはずだ。
といったところで日も暮れまして。右手の木立が風隼神社の社叢。多分、ここ常北に伝わる古の大戦の話に軸を置いて常陸の古代を考える試みというのはあまりない。なんとなく「お前はこれをやれ」と言われたような一日でありました。

補遺:

常中行:旧常北 2011.08.13

陸奥・常陸編: