三浦行:横須賀
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.27
長浦神明社
吾妻社
もと田ノ浦浜の神明社
田浦神明社
道行き
船越神社
船越には「船越神社」が鎮座される。昔から船越神社というお社があったわけではなく、熊野権現・日枝社が合祀されて船越神社となった(ただし、江戸時代の田浦の文書に一部熊野権現を「船越宮」と記しているものもある)。 | |
何とも一日中こんな青空でしたのことよ。ついこの間鶯がホーホケキョとやっとるねぇ、と思って歩いていたが、もう燕がピーチクパーチクと飛び交っておる。 | |
ここ船越の鎮守は熊野権現の方で、船越神社も主体は熊野神社である。このあと見る船越の浦を干拓した新田地域に祀られた日枝社がこちらに合祀された。この双方の由来に大変重要な要素があるのでここの話は長くなる。
まず「船越」という地名の由来だが、よく分からない。大きく分けて二つの考えがあり、ひとつは文字通り「船(の荷)が越してくる所」の意だろうというもの。逗子の方で紹介したが、田越川というのは運河化しており、かなり奥まで船を引き上げていた。
▶「田越川」(三浦行:逗子) そしてそこ(沼間)から峠を越えて江戸湾側に下りてくるポイントが「船越」だった、というわけだ。全国の船越地名の多くもこのように半島などを途中で横断して越えてしまう所につく名だといわれる。しかしこれは「船越地名はそういう地名なのだ」という考えありきでそういわれるもので、実際土地に沼間から船荷がこの浦に続々やって来た、という話があるというのでもない。で、土地の伝としてはもうひとつの由来がもっぱらに語られる。「船で来られた観音」の話なのだが、これは後にまわそう。 |
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先に、船越浦の干拓の方も見ておきたい。伝説の浦なのだが、近世から近代にかけて新田化された浦でもある。境内から見晴らすこの東芝ライテックの敷地あたりが皆干拓された船越新田だった。実にこの海にはなむなむ九代に渡って、津波で壊滅しようが資金難で人手に渡ろうがめげることなく、金沢をはじめに各地の浦を干拓していった一族、永島家というのがあり、ここ船越新田も彼らが干拓した海なのだ。船越新田の着手は元禄の昔である。 船越新田開発が最終的に落ち着くのはもう明治のことになるが、その折(明治四年)に新田と海をしきる堤防上に勧請されたのが永島家本家が金沢の方で祀る日枝社の分霊だった。この日枝さんが廻りまわって熊野さんに合祀されたのだ。 |
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ここで永島家の事を話し出すと長くなるので、金沢の方でまとめて話すが、この一族が「亀」の一族なんですね、えぇ。この話も金沢へ到達したあとに。写真は神輿殿のようだけれど、ここに今回のタイトルイメージにした亀さんがいましたね。 | |
また先に社地の隅にまとめられていた庚申さんのことなども。この手前側の黒い庚申さんはアレですな。三浦半島のあの「うにゃうにゃ庚申塔」ですな。こういう不思議な紋のある石を石塔に加工する文化があるのですよ。 | |
左の写真は横須賀市久里浜の住吉神社(栗浜大明神)のもの。三浦半島南部にも見える。あー、南部の方の話だと思っていたのでまだこれが何なのか調べていなかったぞなもし。しかしまぁ、同じ海の文化が続いているとはいえよう。 | |
さて、では熊野さんと船で来られた観音さんの話。いつのころとも分からぬ昔(景徳寺はあったように語られるが)、この船越の浦に一艘の朱塗りの小舟が出現し、まばゆい光を発しているので漁師たちが繰り出して見ると、小舟の中で八寸三分の十一面観音像が光りかがやいていたのだという。 これが土地に伝わる船越の由来。船越神社の境内は左写真のように妙に広いのだが、御社殿の向こうの建物群が共済病院というでっかい病院で、その向こうが丘陵になっている。そのあたりに昔はこの海から来られた観音さんを祀る宝珠庵があったという。 | |
その宝珠庵が写真のお寺「景徳寺」さんの持で、熊野権現はこの景徳寺の守護神として勧請されたお社なのであります(応安二年という)。故に昔は熊野権現も「景徳寺の権現様」と呼ばれていたそうな。 | |
今は十一面観音像は景徳寺の御本尊として安置されているそうな。ちなみに景徳寺さんに入りまして、すぐ左手に観音堂がありますが(左写真)、これは十一面観音さんではありませぬ。馬頭観音さんのお堂。 | |
元々熊野権現というのも海上楽土の信仰そのものでもあるのだから同じ話の枠組みで祀られてきたようにも思うが。かつては社殿は南向きであったといい、観音さん(宝珠庵)の方を向いておったのかね。先に述べたように、この近くまで船越は浦の海だったので現在のこの社地構成は結局海からの神を迎える様式に落ち着いたのだと見える。 |
道行き
八王子神社
そんな船越の浦をあとに、トンネルばかりも飽きるので、ここは上を越えて。先の日枝社がこの丘陵(写真は越えたあとだが)斜面の梅田というところに一時祀られていたということもあり。 | |
次の浦「深浦」へと進みまして、このあたりから今の住所大字も「浦郷町」になる。その湾出口の方、日向(ひなた)に鎮座される「八王子神社」さんへ。なんかもう伊豆のお社のような雰囲気ではある。 | |
慶長十一年勧請の棟札があったといい、今は国狭槌命を祭神とするが、この八王子神社さんも海際の開発に伴って遷座されているので、はじめからここにお社があったわけではない。 | |
狛犬どのはトルソと化しているが、安政四年の銘のある狛犬どのだ。なんともこの海が空前の激動の時代へ突入するその時期に作られそれ以降を見て来られた狛どのだと思うと感慨深い。 | |
で、ここ八王子神社に関しても非常に興味深い話がある。が、現状詳しいことが分からず、また今回の主題と関係する話かというとそれも微妙なので簡単に。 まず、もともとこの社はたった八戸の漁民が祀りはじめた神がもとになったのだといい、その家々は「社を中心に家々が取り囲み、各家の正面が社を向く」という集落を形成していたという。社が八王子権現となる前、近世以前のことかもしれず、今その元地もそのような家並みも何も痕跡はない。しかし、早くにその痕跡がなくなってなお話が延々伝わったのだとすると、よほど印象深かったのだろう。『田浦町誌』(昭和三年)にそうあるのだが、より詳しい(又は別経路の)話が見つかったら、さらに検討していきたい問題である。 また、現社地も昔からの信仰があった場所のようで「聖石」という人が寝たような姿の石があったという。そして、より海の方にはこれと陰陽を成すような石もあったという。そういう信仰があったのかもしれないが、ちょっと今は見えなかった。各記述も既に過去形なので、現物はもうないのかもしれない。 さらにもう一点。大蛇伝説がある。昔浦郷の西側の鷹取山から続く尾根の下に古池という池があり、そこに七つの頭を持つ大蛇がおり、人々を苦しめていたのを六人の勇士が討ち取るという話だ。そして、その六勇士は四ヶ月後に揃って大蛇の毒気か祟りかで死んでしまうのだが、彼らを祀った六社(六所)大明神なる社があったという。この六社大明神がここ八王子神社に合祀されているというのだ(菊池幸彦『三浦半島の民話と伝説』神奈川新聞社)。 しかし、この話はお隣逗子の池子の旧家に伝わった伝説そのままで、六勇士の名も同じであり、おそらく池子の伝説が浦郷に持ち込まれてこちらを舞台に語られただけのように思える。六社大明神が八王子(原文では八王寺)神社に合祀されたとあるが、浦郷の他記録に「六社(ないし六所)」という社は見えない。一方、池子にはかつて六社大明神が実際あったので(今は池子神明社に合祀)、これもそちらのことだろう。 |
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一応もしかして、という点をあげておくと、八王子神社の境内社に諏訪社があることは気にかけておいても良いかもしれない。おそらく同系の話、逗子の沼間の方で紹介した「七諏訪神社」のことを思えば、ここが蛇の諏訪社である可能性もなくはない。
▶「七諏訪神社」(三浦行:逗子) |
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そんな日向の八王子神社さん。ふんふんと思いつつ、あとにしようとしますと、脇のヤブががさごそいって猫さん登場。で、またしてもお社を見上げるのであります。 横須賀の猫さんは信心深いの……あ! 今の今まで失念していたが、猫の盆踊りといや戸塚だ。そう遠くないな。この辺の猫たちも盆踊りしたりするタダモノではない猫たちなのかもしれん(笑)。 |
能永寺・山中神社
道行き
深浦の亀島
大国主社
鉈切神明社
こんな具合にやぐら状に掘られた中に神仏は祀られる土地なのですな。ここは正禅寺というお寺だが、昔はこのあたりにもっと高台があり、斜面に横穴がたくさんあったそうな。 | |
そして目指すは鉈切神明社さんなのだけれど……ふおっ!ついに黒猫が鳥居向こうのセンターに立ちはだかりましたよ。何だ今日は招き猫デーか(何だそりゃ)。 | |
えー、改めまして鉈切の「神明社」さん。ここが浦郷への興味のそのニにあたる「鉈切(鉞切)」の地。追浜・鉈切が蒲冠者・源範頼伝説の地なのであります。以前紹介したけれど再掲すると…… 修善寺で暗殺された源範頼(頼朝の異母弟で、義経の異母兄)が実は生きており、船で逃げるのだが、その際上陸したのが追浜であり、追われて着いた浜だからそういう、という伝説がこの地にある。この際、地元の漁師・平兵衛が範頼一行を助け、「蒲」の一字を授かった。蒲谷姓が追浜や金沢に多いのはここからだと云々(本当にトンネル抜けたらすぐ蒲谷の表札だった)。で、その平兵衛が追っ手と鉈で奮闘したことから「鉈切」の地名がおこったという(範頼が上陸を隠すため船のとも綱を鉈で切ったからだとも)。 |
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その鉈を納めていたのが鉈切神社・鉈切明神であり、この神明社がそうだったのだという。参道にもこんな風に横穴があるが、昔はこの下大工場地帯も高台斜面があり、南面して洞窟が行列していたそうな。そこに範頼が隠れ住まったという。追浜エリアは古い写真がたくさん公開されている。範頼が隠れ住まったという伝説の横穴群はこんなであったそうな。
▶「蒲ヶ谷のやぐら」 (webサイト「おっぱまタウン」) | |
しかし、ここは少なくとも近世は神明さんだったろう。鉈切明神というのはその範頼が隠れた窟をいったのではないか。というよりも、この「鉈切平兵衛」の伝説自体は古くないかもしれないといわれる。 『三浦半島の民話と伝説』(菊池幸彦:神奈川新聞社)では「新話」の分類でこの話を紹介している。黙阿弥が蒲冠者の話を書いた際にこの地を取材したそうな。その後明治座で公演の際蒲谷家の当主が舞台挨拶をしたというが、そのあたりにできた脚色のようである。蒲冠者範頼が隠れ住まい、蒲谷家の先祖が世話した、という話は古いのだが、「鉈切」は地名が先にありきの話なのだろう。あたしとしてもその方が望ましい。 | |
そもそもこの問題は「船越・鉈切」という名が安房館山の海南刀切・船越鉈切神社と同じく並んでいるのはなんでだ、なんか関係があるのか、というものなのだ。関係があるとしたら古代の動向であるはずだ。範頼由来だとそれまでなのであります。
そして、古代のこの地というのがまたエライ所なのだ。この神明社の丘から西側に「なたぎり遺跡」と命名された大型複合遺跡が発見されている。縄文貝塚のころから奈良時代以降に至る大変な遺跡だ。この詳細はここでは無理だが要点だけ述べておこう(詳しくは『新横須賀市史 別編 考古』など)。 まず、様々な土地の土器が出ており、ここが交易の焦点であったと見て取られている。そして、五世紀末からの土器が急増し、これが北武蔵のものであることが分かっている。またその後、これが上毛地方の土器に移るので、いずれそのあたりの有力者の管轄であったことが伺える。 このあたり武蔵の海路を考える上で超重要であるが、それにとどまらず祭祀遺物が多く出ていることも注目されている。というより、一般の湾岸集落ではなく祭祀集落であったと考えられている。遺跡からは牛骨祭祀跡が発掘され、アオウミガメ甲羅製卜甲なども発見された。 このようなので、鉈切そのものが航海の安全を祈念する祭祀場であったと考えられているわけだ。今は海は遥か彼方だが、また古い写真を見ると鉈切りの前は海であったのがよく分かる。 ▶「鉞切から野島」 (webサイト「おっぱまタウン」) | |
まだ館山の海南刀切・船越鉈切神社には行ったことがないので、この話はこれまでにするが、やはり通じる所があるように思う。左写真は社殿裏に平地を見晴らす石祠さん。浦郷鉈切も何がどう祀られてきたとしてもおかしくない場所だといえるだろう。 | |
まぁ、そのかつての海はこうなってるのだけれどね。 | |
狛犬どのもさぞや魂消たことでありましょう。で、かつてのその鉈切の祭祀場がなにを指標としていたかというと、やはり洋上に浮かぶ島々だったと思うのですよ。
▶「室の木から夏島を望む」 (webサイト「おっぱまタウン」) |
夏島
現在、盛大に埋め立てられた中に、この夏島は残っている。最古級の縄文貝塚があった、という以外行っても丘があるだけなのは分かっているが、行くのであります。道行きはこんな。工場工場また工場。 | |
途中に烏帽子岩(烏帽子島)の跡の碑があった。昔の様子はこう…… ▶「烏帽子島と夏島」 (webサイト「おっぱまタウン」) |
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そしてそびえる夏島や、ああ夏島や、夏島や。内地に雪が降っても夏島には降らんかったので夏島という、などといわれる。 | |
先にいったように古い夏島貝塚があり、島全体が国指定史跡だそうな。 ▶「夏島貝塚」(Wikipedia) いや、もうちょっとなんか入れるとこがあんじゃないかと思ったのだけれど……orz |
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他には伊藤博文公がこの島にカンヅメになって明治憲法の草案を練ったことでも知られる。ま、あと特に何があるという所ではないですな。 |
豊海稲荷神社
築島さま
さらに追浜駅近くまで行きますと、追浜三丁目内会館という公民館のような建物があり、その前に写真のような枯木が祀られている。これを「築島さま」という。 | |
次に参る浦郷総鎮守の雷神社にまつわる場所で、「雷神社故址」といい、その碑もあるのだが、旧地元宮かというとそういうのでもない。築島さまは築島(つきしま)さまなのだ。社伝では次のようにいう。 「永禄二年六月十五日築島に落雷此の處に十二名おりし乙女は柏槙の大木が身代りで命を取止たと云ふ。乙女達蚫貝に焦(こがし)を献じ小麦にゑまし麦を水で練りその外米の粉を水で練り献じ崇た。柏槙の大木を御神木と唱へ雷電の社を建て奥の院と云う(『神奈川県神社誌』)」 雷神社(昔は雷電社)はそれ以前延喜年間に菅公を祀ったのだというが、先の落雷の話を聞いた時の浦郷領主・朝倉能登守(後北条家臣)が雷電社を創建したのだともいう。概ねこのようにどの資料も書いてあるのだが、築島さまとは何か、なぜ女ばかり十二人もここにおったのか、ということが語られない。 |
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実はその理由がこの話のキモなのだ。『田浦町誌』にはその理由がある。曰く、この築島という場所は往昔実際島のようであり、村はずれにあたったという。 ▶「築島の旧観」 (webサイト「おっぱまタウン」) そして、ここは月のものがはじまった女たちが村を離れて共同生活する場所だったというのだ。今では考えられないが、特に漁師たちは月経を忌み、女房はこの期間「別火」といって家の火とは別の火で煮炊きしてご飯を食べた、などという話はままある。そのグレードアップ版の習俗があったのだろう。これは月待ち講などの女人講のことを考える上で大変示唆的な伝承である。「築島」という名も偶然ではないだろう。今回の本筋とはあまり関係ないが、浦郷にはこうした興味深い所もある。 |
雷神社
瀬戸神社
弁才天
洲崎神社
龍華寺
永島泥亀