三浦行:横須賀

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.27

横須賀といっても広うございますが、今回は田浦・浦郷というあたりの神社巡りであります。浦郷は今はもっぱら追浜というほうが通りが良いかもしれん(追浜は近年使われ出した地名、昔の小地名としても「おいはま」といっていた)。
田浦は三浦半島東側を南北に分けて上手浦・下手浦といっていた名残りじゃないかといわれ、浦郷に至っては御浦郡御浦郷の遺称じゃないかともいわれるので、何れもなかなかに古い海であると思われるところ。旧國の範囲としましては浦郷の北側六浦・金沢はもう武蔵國であります故、そういう境の土地という側面もありますな。もっとも「海」としては近代に入って急速に軍港と化してしまったところであり、古い文物を探るというのも難しいところなのだけれど。

長浦神明社

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そんなところです故、浦から浦へと「♪ トンネル抜ければ〜」と唄いながらトンネルを抜けまくって渡って行くのであります。スタートの田浦駅自体、十一両編成の列車だともう最前後一両は共にトンネルに入っているので扉が開かない始末(笑)。

そしてまずは長浦町というところの「神明社」さんへ。あとで出て来るが、ここを土地の人は「長浦神明社」といっている。
元々はこの北東側にある箱崎町(吾妻島)の鎮守の箱崎明神であり、箱崎の海側にあったのだが、箱崎は全面米軍施設となってしまったのであちこち遷られ、今はここに鎮座されている。
拝殿と本殿覆殿がまったく分かれてますな。こういうのはあまり見ないので、もしかしたらもとは覆殿一棟だったのかもしれない。
ということで元々は別の場所の神さまなのだけれど、現社地もこのように浦から続く谷戸を見下ろすいかにも鎮守さまという感じな場所であります。こういう土地選びは旧社地の様相に鑑みたりするのかね。
なんとなく狛犬さんの前に柵があったり生け垣が来たり、というのが土地の好みか、という感じがする。このあとのまたの神明さんもそうだった。

吾妻社

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その南側から浦と浦を区切る高台を越える道が登りはじめるのだけれど、そこにこんな。今はもう歩きでもトンネル抜けて行き来するので登り下りする人はいないが、昔はここが峠越えの道入り口ということだったのだろう。
中は庚申さんお地蔵さんなどなど。三浦半島は大変庚申塔が多い。奥にコンクリでない本来の地肌が見えますな。元々そういう洞が掘られて祀られていたのかも。ここも鎌倉文化圏です故、やぐらによく神仏が祀られる。
そして峠越え道に。この先のお社だけ法人社なのに駅前観光マップになかったんですけどね。なるほどね、という。いや、古そうな道だ。

なにゆえGW初日の朝っぱらからこんなところに登り込んでんだ、おいらは……と思いつつふと見上げると……なんたる光景であろうかと。ここは長浦の「吾妻社」さまであります。
ここを登ったんですよ、あたしは。自慢ですね、えぇ、良いでしょ(笑)。
しかし、この吾妻さんももとは箱崎のお社だった。というより箱崎の島(昔は半島)の最高所を吾妻山といい(故に吾妻島ともいう)、その天辺に祀られていたのだ。そして、そこは弟橘媛の笄が流れついたので祀った、と伝える吾妻社だった。走水は目と鼻の先である。多分この系の吾妻社でもっとも走水に近い存在なんではないか。また、『新編風土記』には「社頭松樹数株あり、海上通船の標となせり」とあり、吾妻社=海上からの標の結構であった事も伺われる。
このあたりの箱崎と田浦長浦の関係を図で見るとこんな。この箱崎町・吾妻島がかつて漁師たちの海だった頃には大変重要な半島だったのでしょうな。
現社地からもひょっとして海か箱崎が見えるんかなぁ、と思ってもいたが、これは見えないですな。この峠越え道そのものがやはり切り通し的な道であり、鳥居向こうにも一山ある。
明治三十二年に吾妻山一帯が海軍用地となったため、翌年二月現在地に遷座されたというが、峠越えのピークの社として遷されたのですな。しかし、その後の交通の便の発達により、峠を越える人もいなくなった。
そのうちに誰に知られることもなく、という森のお社になってしまうのかもしれない。既に管理されてる方以外人が来るのかどうかという感じであるし。
反対側に下る道。鎌倉からこっち切り通しの峠道は実に滑りますな。特にこんな風に落葉がかぶさっていると最強。いえ?転けてなんかないですよ?

もと田ノ浦浜の神明社

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下り切ったところにまた鳥居がある。今度もまた長浦町の「神明社」。この辺大変神明社が多い。横須賀が軍港だからかというとそうでもなく、近世から多い。
この神明さんも遷座しているが、軍用地になったから、というのでもないらしい。理由は不明。昔は北東の方の今ベイスターズ(ではないのか?)の練習場がある西側あたりの「田ノ浦浜」というところに鎮座されていたそうな。
ここが地図などでは「長浦神社」と表記されているのだけれど、これは妥当でないかもしれない。ご近所の方と話していたのだけれど、「長浦の神明さんはあっちだ、山の向こう」ということで最初の神明さんが長浦神明社と認識されている。で、こちらは「ここは田浦の神明社さん」と認識されている。田ノ浦浜にあったからだろう。現在田浦の神明社といったら次に参るお社がそう捉えられると思うが、そこはそこでその場所にあったのは御霊社だった。ということで「田浦の神明さん」といったらここのことだったのだろう。
住所は長浦町だが、地元の人は「長浦神社」という名はピンと来ないのかもしれない。このあとでも色々神社が遷ったりなんだりとしたのでわけが分からなくなってとりあえず今ある場所の「地名の神社」で表記されている神社が出てくるが、もっと地元感覚に学んで考えた方がよい。
境内にはなんだか不思議な石祠群が。大概浦のお社というと細々とした神々が色々祀られていたりして、資料からは伺えない雰囲気がありますのです。
こちらがさっきいっていた前面をふさぐのが習わしかもしれない狛犬さん。やっぱこう、突然現れる感が欲しい土地というのがあるのかね。
このあたりは「横須賀ですなぁ」という感じ。参道途中にも。
猫さんのお参り。
きっとまだ十二支の座をあきらめていないのだろう(笑)。
いや、あたしが次行こうと参道を下りようとすると参道中間にいて、あたしににゃあと鳴くと逆にとことこ登って行った。まったくお参りにきた猫にしか見えんかったのです(笑)。

田浦神明社

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「♪ トンネル抜ければ〜」と田浦駅の方に戻るの道。この左上に先の峠越えの道があり、吾妻社がある。

今度は田浦駅の西の方へと進みますとまた「神明社」さんが鎮座される。先にいったように現在「田浦の神明さん」というとここになる。神社の規模としても田浦総鎮守格となると思う。
神明・御霊・貴布祢社の合祀社で、主祭神・御食津神(神明社)/合祀神・吉備霊(御霊社)・闇龗神(貴布祢社)となっているが、元々ここに祀られていたのは御霊社だった。
御霊社だったころの名残りが脇にあって、御霊社旧参道の碑がありますな。御祭神も近世は神明社は普通に天照皇大神を祀り、御霊社は鎌倉権五郎を祀っていたのだが、なぜか今に至るまでにかくのごとく変化している。ナゼ故に。
拝殿は蟇股に虎なんですよ。方位的ななんかかね。後北条氏かね。
境内社に御嶽神社が祀られていた(各資料に見ないが)。走水的な海故に日本武尊がどう祀られてきたかというのはおさえていかないといけない。んが、不入斗という所(走水との中間くらい)の御嶽さんなどはもと蔵王権現で、今の御祭神が「天香語山命」となってたりするので日本武尊を祀る感覚なのかどうかは分からない。
ていうかなんで神明さんが多いのだろう。西伊豆なんかに多いのは伊勢の海女さんが来て「お伊勢さん」を守護と祀っていった、というのが分かっているが、三浦半島はなんでかね。

道行き

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なぜか鎌倉周辺の踏切はステキに見える。ナニが違うのだ。江の電のイメージが刷り込まれているからそう見えるだけか(笑)。
そしてまた「♪ トンネル抜ければ〜」と次の浦へと向うのでした。えぇ、一日中脳内CKBなんですよ。どうにもなりませんな(笑)。はっ!
が、ちょっとトンネルを抜ける前に、その脇に。ナンですかね、これは。旧隧道?しかし、この向こうは墓場なはずだが。
改めましてトンネルを抜けて「船越」の浦へ。おぉ!トンネルを抜けた先に既にお社が見えておる。こういうシチュエーションははじめてですなぁ。

船越神社

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船越には「船越神社」が鎮座される。昔から船越神社というお社があったわけではなく、熊野権現・日枝社が合祀されて船越神社となった(ただし、江戸時代の田浦の文書に一部熊野権現を「船越宮」と記しているものもある)。
何とも一日中こんな青空でしたのことよ。ついこの間鶯がホーホケキョとやっとるねぇ、と思って歩いていたが、もう燕がピーチクパーチクと飛び交っておる。
ここ船越の鎮守は熊野権現の方で、船越神社も主体は熊野神社である。このあと見る船越の浦を干拓した新田地域に祀られた日枝社がこちらに合祀された。この双方の由来に大変重要な要素があるのでここの話は長くなる。 まず「船越」という地名の由来だが、よく分からない。大きく分けて二つの考えがあり、ひとつは文字通り「船(の荷)が越してくる所」の意だろうというもの。逗子の方で紹介したが、田越川というのは運河化しており、かなり奥まで船を引き上げていた。

▶「田越川」(三浦行:逗子)

そしてそこ(沼間)から峠を越えて江戸湾側に下りてくるポイントが「船越」だった、というわけだ。全国の船越地名の多くもこのように半島などを途中で横断して越えてしまう所につく名だといわれる。しかしこれは「船越地名はそういう地名なのだ」という考えありきでそういわれるもので、実際土地に沼間から船荷がこの浦に続々やって来た、という話があるというのでもない。で、土地の伝としてはもうひとつの由来がもっぱらに語られる。「船で来られた観音」の話なのだが、これは後にまわそう。
先に、船越浦の干拓の方も見ておきたい。伝説の浦なのだが、近世から近代にかけて新田化された浦でもある。境内から見晴らすこの東芝ライテックの敷地あたりが皆干拓された船越新田だった。実にこの海にはなむなむ九代に渡って、津波で壊滅しようが資金難で人手に渡ろうがめげることなく、金沢をはじめに各地の浦を干拓していった一族、永島家というのがあり、ここ船越新田も彼らが干拓した海なのだ。船越新田の着手は元禄の昔である。
船越新田開発が最終的に落ち着くのはもう明治のことになるが、その折(明治四年)に新田と海をしきる堤防上に勧請されたのが永島家本家が金沢の方で祀る日枝社の分霊だった。この日枝さんが廻りまわって熊野さんに合祀されたのだ。
ここで永島家の事を話し出すと長くなるので、金沢の方でまとめて話すが、この一族が「亀」の一族なんですね、えぇ。この話も金沢へ到達したあとに。写真は神輿殿のようだけれど、ここに今回のタイトルイメージにした亀さんがいましたね。
また先に社地の隅にまとめられていた庚申さんのことなども。この手前側の黒い庚申さんはアレですな。三浦半島のあの「うにゃうにゃ庚申塔」ですな。こういう不思議な紋のある石を石塔に加工する文化があるのですよ。
左の写真は横須賀市久里浜の住吉神社(栗浜大明神)のもの。三浦半島南部にも見える。あー、南部の方の話だと思っていたのでまだこれが何なのか調べていなかったぞなもし。しかしまぁ、同じ海の文化が続いているとはいえよう。
さて、では熊野さんと船で来られた観音さんの話。いつのころとも分からぬ昔(景徳寺はあったように語られるが)、この船越の浦に一艘の朱塗りの小舟が出現し、まばゆい光を発しているので漁師たちが繰り出して見ると、小舟の中で八寸三分の十一面観音像が光りかがやいていたのだという。
これが土地に伝わる船越の由来。船越神社の境内は左写真のように妙に広いのだが、御社殿の向こうの建物群が共済病院というでっかい病院で、その向こうが丘陵になっている。そのあたりに昔はこの海から来られた観音さんを祀る宝珠庵があったという。
その宝珠庵が写真のお寺「景徳寺」さんの持で、熊野権現はこの景徳寺の守護神として勧請されたお社なのであります(応安二年という)。故に昔は熊野権現も「景徳寺の権現様」と呼ばれていたそうな。
今は十一面観音像は景徳寺の御本尊として安置されているそうな。ちなみに景徳寺さんに入りまして、すぐ左手に観音堂がありますが(左写真)、これは十一面観音さんではありませぬ。馬頭観音さんのお堂。
元々熊野権現というのも海上楽土の信仰そのものでもあるのだから同じ話の枠組みで祀られてきたようにも思うが。かつては社殿は南向きであったといい、観音さん(宝珠庵)の方を向いておったのかね。先に述べたように、この近くまで船越は浦の海だったので現在のこの社地構成は結局海からの神を迎える様式に落ち着いたのだと見える。

道行き

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そのまだ海である方へ。こんな感じでかつての横須賀を彷彿とさせる海際倉庫も。
ここを津波がやって来て、船越新田は一旦壊滅したというが、この光景からは想像がつかんですな。あぁ、あれか、船越神社がやたら広いのはこの海の対津波マウントであるのかな。しかし長閑な浦でやんすねぇ。
まぁ、よーくみるとこんなもんが浮んでいるのが横須賀クオリティなのではあるが(笑)。
軍港として、又は工業用地として埋め立てなど盛んだったとはいえ、まだこの浦がどこから外海(といっても江戸湾だが)へ出るのかもよく分からんような入り組んだ海岸だったのは分かるだろう。
逆に湾奥を見るの図。左端が先の景徳寺背後の丘。これが中央工業地帯部分まで入っていたわけで、そこが新田化されたのですな。

八王子神社

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そんな船越の浦をあとに、トンネルばかりも飽きるので、ここは上を越えて。先の日枝社がこの丘陵(写真は越えたあとだが)斜面の梅田というところに一時祀られていたということもあり。

次の浦「深浦」へと進みまして、このあたりから今の住所大字も「浦郷町」になる。その湾出口の方、日向(ひなた)に鎮座される「八王子神社」さんへ。なんかもう伊豆のお社のような雰囲気ではある。
慶長十一年勧請の棟札があったといい、今は国狭槌命を祭神とするが、この八王子神社さんも海際の開発に伴って遷座されているので、はじめからここにお社があったわけではない。
狛犬どのはトルソと化しているが、安政四年の銘のある狛犬どのだ。なんともこの海が空前の激動の時代へ突入するその時期に作られそれ以降を見て来られた狛どのだと思うと感慨深い。
で、ここ八王子神社に関しても非常に興味深い話がある。が、現状詳しいことが分からず、また今回の主題と関係する話かというとそれも微妙なので簡単に。
まず、もともとこの社はたった八戸の漁民が祀りはじめた神がもとになったのだといい、その家々は「社を中心に家々が取り囲み、各家の正面が社を向く」という集落を形成していたという。社が八王子権現となる前、近世以前のことかもしれず、今その元地もそのような家並みも何も痕跡はない。しかし、早くにその痕跡がなくなってなお話が延々伝わったのだとすると、よほど印象深かったのだろう。『田浦町誌』(昭和三年)にそうあるのだが、より詳しい(又は別経路の)話が見つかったら、さらに検討していきたい問題である。
また、現社地も昔からの信仰があった場所のようで「聖石」という人が寝たような姿の石があったという。そして、より海の方にはこれと陰陽を成すような石もあったという。そういう信仰があったのかもしれないが、ちょっと今は見えなかった。各記述も既に過去形なので、現物はもうないのかもしれない。
さらにもう一点。大蛇伝説がある。昔浦郷の西側の鷹取山から続く尾根の下に古池という池があり、そこに七つの頭を持つ大蛇がおり、人々を苦しめていたのを六人の勇士が討ち取るという話だ。そして、その六勇士は四ヶ月後に揃って大蛇の毒気か祟りかで死んでしまうのだが、彼らを祀った六社(六所)大明神なる社があったという。この六社大明神がここ八王子神社に合祀されているというのだ(菊池幸彦『三浦半島の民話と伝説』神奈川新聞社)。
しかし、この話はお隣逗子の池子の旧家に伝わった伝説そのままで、六勇士の名も同じであり、おそらく池子の伝説が浦郷に持ち込まれてこちらを舞台に語られただけのように思える。六社大明神が八王子(原文では八王寺)神社に合祀されたとあるが、浦郷の他記録に「六社(ないし六所)」という社は見えない。一方、池子にはかつて六社大明神が実際あったので(今は池子神明社に合祀)、これもそちらのことだろう。
一応もしかして、という点をあげておくと、八王子神社の境内社に諏訪社があることは気にかけておいても良いかもしれない。おそらく同系の話、逗子の沼間の方で紹介した「七諏訪神社」のことを思えば、ここが蛇の諏訪社である可能性もなくはない。

▶「七諏訪神社」(三浦行:逗子)
そんな日向の八王子神社さん。ふんふんと思いつつ、あとにしようとしますと、脇のヤブががさごそいって猫さん登場。で、またしてもお社を見上げるのであります。
横須賀の猫さんは信心深いの……あ! 今の今まで失念していたが、猫の盆踊りといや戸塚だ。そう遠くないな。この辺の猫たちも盆踊りしたりするタダモノではない猫たちなのかもしれん(笑)。

能永寺・山中神社

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お次はすぐ隣の榎戸という所の能永寺というお寺へ。写真中央上に本堂が見えてますが、このように小高い所なのであります。ここは榎戸貝塚が発見され、また寺の裏斜面には榎戸横穴群といって古代の横穴古墳群もある。寺には出土遺物も陳列されているそうな。今回はちょっと法事の方々がお忙しそうだったので、お寺訪問はせずに。
門前の猿田彦大神と庚申塔。当初から「三浦(のキー)は猿田彦か?」といってはいたが、どうも実際そうなっていきそうな塩梅であります。

その能永寺入り口脇に「山中神社」さんというお社がある。お寺の守護神のようだが(そうなのだが)、法人社で榎戸の鎮守さんでもあります。ここには本来寺守護の薬一王神が祀られていたが、明治の神仏分離により浦郷の山中に鎮座していた山中権現社を遷し榎戸村の鎮守として祀った、のだそうな。山神社ですな。そのようなことで今の御祭神は大山祇命。
お稲荷さんと砲弾。なんか妙な組み合わせな?そういわれて見ると何にでも変化するお稲荷さんも軍事的なあれこれにはあまり関係せんのかな。

道行き

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道端にもこんなところが。昔はもっと丘斜面に「愉快に行列して」いたそうで。太古の海蝕洞穴から、古墳時代の横穴、中世のやぐら、軍港となってからの防空洞まであって、どれがどれやらワカランという土地。

さて、かなりコマゴマとした点に引っかかっているが、現状「浦郷」というエリアの扱いをどうするか迷っている、ということがある。もし、いわれるように浦郷が御浦郡御浦郷の遺称であるとすれば、「古代三浦」のまさに焦点となるはずの場所であり、詳細な検討が必要になる。んが、見てきたように重要な海際は文化遺産の保存という概念ができる前に軍用地として開発されてしまい、また引き続き埋め立てられてきたので、痕跡が少なく実態が分からないという問題がある。古くから住んでいた人々も転出してしまっていることが多い。
ところで実は『新横須賀市史 別編・民俗』が、この三月末づけで出た「はず」なんだが、まだ実物にお目にかかっていない。今回の行程で半ばその気になってもいるが、この民俗編にも手ごたえがあるようだったら、それでも浦郷は特別枠で小字ごとに検討するようなレベルの探求となるかもしれない。
と、なんだかまとめのようなことをいっているが、この日の第一目標はまだこの先であります(笑)。そのことを知ってか知らずか並ぶ「亀」さんたち。ナニこれ伝説の「ウェルカメ」ってやつですか?考え過ぎですか、そうですか(笑)。

深浦の亀島

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深浦の海。ここが今回の第一目標地点だ。もっとも、見るべきものはとうの昔になくなってしまっているのだが。写真の対岸あたりに「亀島」という小さな島があった。工場が並んでいるあたりも往昔は海であり、亀島があったのは今はもう敷地内だそうな(東邦化学工業の門あたりになるという)。皆削平されており、跡形もない。「面積は一段歩ほどの小さな島で、その名の通り形が亀に似ていた」という。また「引き潮の時には胴と頭の間を歩いて渡れた。満ち潮になると、本当に亀が水中から頭を出しているように見え、それは美しい光景であった」そうな(横須賀市市長室広報課『古老が語るふるさとの歴史 北部編』)。

そして、この亀島の「ちょうど甲にあたる部分に小さなお宮があって浦島太郎の像が祀ってあった」というのだ(同前)。このお宮を亀島大明神ないし亀崎大明神という(埋め立てられる前くらいは洲で繋がり岬状になっていたという)。
『田浦町誌』には寛文十二年の創立とあり、御祭神は事代主命となっている。当然のことながら漁師たちの信仰する社であり、毎年一月二日の朝には漁師たちが参詣したという。深浦は今はヨットやクルーザーが並び、漁船は奥のここに並ぶだけだが。
さあ、この「浦島太郎」はどこからやって来たのだろうか。浦島太郎を祀っていたとはいうものの、この深浦に浦島伝説・竜宮伝説があるというわけではなく、現状社の由緒もない。端的には亀島に浦島太郎が祀られていた理由は「亀島だから」という以外まったくの不明である。そう遠くなく横浜市神奈川区に大きな浦島伝説の地があり、まずはそことの関係が考えられるが、他にも色々な線がありそうでもある。今は道を先に進むことにしよう。

大国主社

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亀島は消滅してしまったので、亀島(亀崎)大明神も遷られている。湾奥から少しの所の大国主社に合祀されているのだ。大国主社の方はもと大黒天社であり、すぐ隣の「独園寺」というお寺の守護神(そしてまた兼深浦の鎮守)であった。その独園寺さん門前の庚申さん。いや立派ですな。実はこの辺皆繋がっている可能性が出てきているので、かなりしっかり見ております。
で、しっかり見るとデスな……この手前の青面金剛さんポジションのお方……ハヌマーンのような。口元の突き出しが。これお猿のお顔でありませんかしら。気のせいか?こういう庚申塔があるのか?

ともかく「大国主社」。『新編風土記』には「小名深浦の鎮守なり、寛永二年造立の棟札あり」とある。もとはといえば浦郷に興味を持ったはじめは『神奈川県神社誌』のこの社の記述に境内社として亀崎明神社があって浦島太郎の像を祀るとの一文があったのに目が飛び出た事による。
ここは大黒天であったのにはじまり、甲子社と名のったり、お稲荷さんを合祀した際は稲荷社になったりと、色々な名を持ったので、ついには何のお社だかよく分からなくなって「深浦神社」と登録されたりもした。
今でもその名で記されている地図・資料もあるだろう。拝殿蟇股にはお狐さんが遊んでいた。このへんは稲荷社だったことの名残りですな。
しかし、地元の方による『深浦の鎮守大国主社について』(平成三年)という資料があるのだが、地元の感覚としてここを「深浦神社」と認識することはないようだ。狛犬さんも「ニンゲンは色々忙しいのう」という表情であります。
で、亀島大明神はここに合祀されているわけだが、島が消滅した際に、まずは写真右のブロックでふさがれている「やぐら」の中に祠が遷されたという。昭和三年のことだそうな。そして、その祠の老朽化に伴い(現地で見る限りやぐらそのものに崩落の危険があったように見えるが)、大国主社の方に合祀された。昭和二十年代には既に祠はなかったという。『新編風土記』に「神躰は束帶にて龜に乘たる木像なり」と記録された浦島太郎の像が今どこにあるのかは分からなかった。
この辺のやぐらをはじめとする色々な穴が掘られる地質とはこんなですな。こうなんというか削りやすそうな感じなのですよ。ここも新しく掘ろうとした痕跡じゃないのかね。
拝殿と本殿覆殿の間の壁側にはこんな小さな穴も。どう見ても何に使うのか分からん径50センチくらいの穴も良くある。

さて、ひとまず浦郷の浦島太郎調査はこのようなスタートなのでありました。とりあえず現地が今どうか見た、という程度だけれど。んが、ここで先も引いた『深浦の鎮守大国主社について』に次のようにあったことが、ここからどこへ話を繋げていくべきかの指標となる。「古老は亀島明神社を「亀島さま」又の名を「シラシゲ神社」と呼んだと云う」と、こうあるのだ。白髭の神なのですな。海から現れるシラシゲの神、白髭と比叡、海蝕紋の石を石塔化する庚申信仰……三浦半島のこれらの問題はおそらく繋がって来る。この浦島太郎の話はその一端を成す事柄かもしれない。
(ちなみに、平成五年:生方直方『深浦の鎮守大国主社について』は本当に地元の方のレポートのようなものなので横須賀市立図書館か神奈川県立図書館にあるだけですかと)
ひたすら深浦をしらみつぶしに巡りたい気もするのだが、外堀もあります故、ということで。また「♪ トンネル抜ければ〜」と次の浦へと向うのであります。

鉈切神明社

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こんな具合にやぐら状に掘られた中に神仏は祀られる土地なのですな。ここは正禅寺というお寺だが、昔はこのあたりにもっと高台があり、斜面に横穴がたくさんあったそうな。
そして目指すは鉈切神明社さんなのだけれど……ふおっ!ついに黒猫が鳥居向こうのセンターに立ちはだかりましたよ。何だ今日は招き猫デーか(何だそりゃ)。

えー、改めまして鉈切の「神明社」さん。ここが浦郷への興味のそのニにあたる「鉈切(鉞切)」の地。追浜・鉈切が蒲冠者・源範頼伝説の地なのであります。以前紹介したけれど再掲すると……
修善寺で暗殺された源範頼(頼朝の異母弟で、義経の異母兄)が実は生きており、船で逃げるのだが、その際上陸したのが追浜であり、追われて着いた浜だからそういう、という伝説がこの地にある。この際、地元の漁師・平兵衛が範頼一行を助け、「蒲」の一字を授かった。蒲谷姓が追浜や金沢に多いのはここからだと云々(本当にトンネル抜けたらすぐ蒲谷の表札だった)。で、その平兵衛が追っ手と鉈で奮闘したことから「鉈切」の地名がおこったという(範頼が上陸を隠すため船のとも綱を鉈で切ったからだとも)。
その鉈を納めていたのが鉈切神社・鉈切明神であり、この神明社がそうだったのだという。参道にもこんな風に横穴があるが、昔はこの下大工場地帯も高台斜面があり、南面して洞窟が行列していたそうな。そこに範頼が隠れ住まったという。追浜エリアは古い写真がたくさん公開されている。範頼が隠れ住まったという伝説の横穴群はこんなであったそうな。

▶「蒲ヶ谷のやぐら
 (webサイト「おっぱまタウン」)
しかし、ここは少なくとも近世は神明さんだったろう。鉈切明神というのはその範頼が隠れた窟をいったのではないか。というよりも、この「鉈切平兵衛」の伝説自体は古くないかもしれないといわれる。
『三浦半島の民話と伝説』(菊池幸彦:神奈川新聞社)では「新話」の分類でこの話を紹介している。黙阿弥が蒲冠者の話を書いた際にこの地を取材したそうな。その後明治座で公演の際蒲谷家の当主が舞台挨拶をしたというが、そのあたりにできた脚色のようである。蒲冠者範頼が隠れ住まい、蒲谷家の先祖が世話した、という話は古いのだが、「鉈切」は地名が先にありきの話なのだろう。あたしとしてもその方が望ましい。
そもそもこの問題は「船越・鉈切」という名が安房館山の海南刀切・船越鉈切神社と同じく並んでいるのはなんでだ、なんか関係があるのか、というものなのだ。関係があるとしたら古代の動向であるはずだ。範頼由来だとそれまでなのであります。

そして、古代のこの地というのがまたエライ所なのだ。この神明社の丘から西側に「なたぎり遺跡」と命名された大型複合遺跡が発見されている。縄文貝塚のころから奈良時代以降に至る大変な遺跡だ。この詳細はここでは無理だが要点だけ述べておこう(詳しくは『新横須賀市史 別編 考古』など)。
まず、様々な土地の土器が出ており、ここが交易の焦点であったと見て取られている。そして、五世紀末からの土器が急増し、これが北武蔵のものであることが分かっている。またその後、これが上毛地方の土器に移るので、いずれそのあたりの有力者の管轄であったことが伺える。
このあたり武蔵の海路を考える上で超重要であるが、それにとどまらず祭祀遺物が多く出ていることも注目されている。というより、一般の湾岸集落ではなく祭祀集落であったと考えられている。遺跡からは牛骨祭祀跡が発掘され、アオウミガメ甲羅製卜甲なども発見された。
このようなので、鉈切そのものが航海の安全を祈念する祭祀場であったと考えられているわけだ。今は海は遥か彼方だが、また古い写真を見ると鉈切りの前は海であったのがよく分かる。

▶「鉞切から野島
 (webサイト「おっぱまタウン」)
まだ館山の海南刀切・船越鉈切神社には行ったことがないので、この話はこれまでにするが、やはり通じる所があるように思う。左写真は社殿裏に平地を見晴らす石祠さん。浦郷鉈切も何がどう祀られてきたとしてもおかしくない場所だといえるだろう。
まぁ、そのかつての海はこうなってるのだけれどね。
狛犬どのもさぞや魂消たことでありましょう。で、かつてのその鉈切の祭祀場がなにを指標としていたかというと、やはり洋上に浮かぶ島々だったと思うのですよ。

▶「室の木から夏島を望む
 (webサイト「おっぱまタウン」)

夏島

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現在、盛大に埋め立てられた中に、この夏島は残っている。最古級の縄文貝塚があった、という以外行っても丘があるだけなのは分かっているが、行くのであります。道行きはこんな。工場工場また工場。
途中に烏帽子岩(烏帽子島)の跡の碑があった。昔の様子はこう……

▶「烏帽子島と夏島
 (webサイト「おっぱまタウン」)

そしてそびえる夏島や、ああ夏島や、夏島や。内地に雪が降っても夏島には降らんかったので夏島という、などといわれる。
先にいったように古い夏島貝塚があり、島全体が国指定史跡だそうな。

▶「夏島貝塚」(Wikipedia)

いや、もうちょっとなんか入れるとこがあんじゃないかと思ったのだけれど……orz
他には伊藤博文公がこの島にカンヅメになって明治憲法の草案を練ったことでも知られる。ま、あと特に何があるという所ではないですな。

豊海稲荷神社

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戻ってきまして京急追浜駅の方へ。途中に「豊海稲荷神社」という小さなお稲荷さんがある。んが、ここも亀島にまつわる手がかりの残る場所なのであります。
『新編風土記』に亀島明神社は「慶蔵院持」であるとある。慶蔵院とはまたしても小田原玉瀧坊配下だった修験寺で、今はない。その痕跡がここにあるのだ。このお稲荷さんも別当慶蔵院だったのであり、写真の手水鉢にそう刻まれている。
それだけのはずだったんだけどね。んが、来てみると社頭の掲示板の所に「慶蔵院について」と、痕跡のある古文書の文言その他がレポートにまとめられ貼り出されていた。いやー、助かった(笑)。小さい痕跡だとおざなりにしないで来て良かった。このあたりの話は詳細にすぎるのでまたの機会とするが(金沢との絡みで少し蒸し返すが)、同レポートに金沢の瀬戸神社の文書に伝わった慶蔵院の雨乞いのときの報告があって面白いのでこれだけ紹介しておこう。
「(地頭より仰せ付けられ雨乞いの祈禱を慶蔵院がすることになったが)一七日の内御祈禱相勤候えども、一向雨ふり申さず候、誠に御地頭様よりの仰付られ候儀に御座候えは得重き儀に御座候、左様候えども雨ふり申さず候……」とめちゃくちゃ悔しそうであります(笑)。

築島さま

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さらに追浜駅近くまで行きますと、追浜三丁目内会館という公民館のような建物があり、その前に写真のような枯木が祀られている。これを「築島さま」という。
次に参る浦郷総鎮守の雷神社にまつわる場所で、「雷神社故址」といい、その碑もあるのだが、旧地元宮かというとそういうのでもない。築島さまは築島(つきしま)さまなのだ。社伝では次のようにいう。
「永禄二年六月十五日築島に落雷此の處に十二名おりし乙女は柏槙の大木が身代りで命を取止たと云ふ。乙女達蚫貝に焦(こがし)を献じ小麦にゑまし麦を水で練りその外米の粉を水で練り献じ崇た。柏槙の大木を御神木と唱へ雷電の社を建て奥の院と云う(『神奈川県神社誌』)」
雷神社(昔は雷電社)はそれ以前延喜年間に菅公を祀ったのだというが、先の落雷の話を聞いた時の浦郷領主・朝倉能登守(後北条家臣)が雷電社を創建したのだともいう。概ねこのようにどの資料も書いてあるのだが、築島さまとは何か、なぜ女ばかり十二人もここにおったのか、ということが語られない。
実はその理由がこの話のキモなのだ。『田浦町誌』にはその理由がある。曰く、この築島という場所は往昔実際島のようであり、村はずれにあたったという。

▶「築島の旧観
 (webサイト「おっぱまタウン」)

そして、ここは月のものがはじまった女たちが村を離れて共同生活する場所だったというのだ。今では考えられないが、特に漁師たちは月経を忌み、女房はこの期間「別火」といって家の火とは別の火で煮炊きしてご飯を食べた、などという話はままある。そのグレードアップ版の習俗があったのだろう。これは月待ち講などの女人講のことを考える上で大変示唆的な伝承である。「築島」という名も偶然ではないだろう。今回の本筋とはあまり関係ないが、浦郷にはこうした興味深い所もある。

雷神社

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北へ進むとその本家(?)の「雷神社」が鎮座される。浦郷(今は追浜エリアか)の総鎮守のお社であります。その由来はすでに述べてしまったので、ゆるゆると写真など見つつ。
あ、今の御祭神はその落雷した雷ということで火雷神となりますな(ここでは「いなびかりのかみ」とよむ)。その昔ここと金沢の境は丘陵で天神山といったので、もとより(菅原)天神さんを祀るというのもあったのかもしれない。
立派な御社殿であります。
この紙垂はちょっと意識した作りですなぁ。稲妻を模すという点を強調しているに違いない。
絵馬の絵柄も、雷神格の誰それというよりも、純粋に雷を祀っている社、という感じであります。
ところで『神社誌』に境内社「日本武尊社」とあるのですよね。どこだか分からなかったが。見えにくいが写真の上影中に一社お宮がある。立ち入り禁止でなんだか分からんかったが。
下にあるお宮は「浜空神社」というので、こちらは横濱海軍航空隊の英霊を祀る社ですな。石楠船神・天鳥船というあたりをイメージしたお社のようなので、こちらが「日本武尊社」ということはないと思うが。
さらにおまけのお稲荷さん。特に謂れなどがあるというのではないが、その足元をよく見ますと……
わはははは。という感じで招き猫さんいっぱい。やはりこの日は招き猫デーであったか。まぁ、いわれてみればお稲荷さんと招き猫というのは商いの守護としては近いものがある。
また、こうした近い時代によく整備された大きなお社であっても、固められた斜面にこうしてやぐらを作らないとイカンものらしい。「これがなければ」という土地感覚ですな。
そんなこんなで一体何日分の行程のレポしてんだという感じであたしもくたびれてきましたが(笑)、一日分なんですよねぇ。ふっしぎだね〜。で、まだ終わらんのだ。相模國であった横須賀市浦郷地域をあとにしまして、道行きは武蔵國となる横浜市金沢区へと進むのであります。

瀬戸神社

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もっとも金沢という所はそれはもう大変な歴史のある土地であります故、今回はあくまでもこれまでの行程の延長となる部分を、ということで。鉄板で紹介せにゃあというところは寄っていきますものの、物見遊山な感じで簡単に。
金沢の海というのは要するに鎌倉幕府の海だった。なので、金沢総鎮守のお社も源頼朝直々のお社となるのであります。追浜から金沢区に入ってしばらく行くと鎮座される「瀬戸神社」であります。
あ、富岡八幡もあるから金沢の港の総鎮守、というとこかな。もともと複雑な入江や洲が入り乱れる海であった文字通りの金沢の瀬戸の神であったかと思われるが、頼朝はここを鎌倉の要港とするにあたって伊豆三嶋大明神を勧請して整備した。
そうなのですね、歴史の海、金沢の港の守護神は伊豆三嶋大明神さまであらせられるのですよ、伊豆の皆様。社殿を取り巻く高台の岩壁なんかも伊豆のどこかのお社のようですなぁ。多分頼朝も「伊豆っぽい」と思ったに相違ない。
このあたりは鎌倉三浦の延長であります。やはりこうやぐらを掘って稲荷さんなど祀っているのだ。
伊豆っぽいといえば社頭に大楠も。金沢八景の絵図にこの辺「蛇木」とあるんだがね、この樹ではないのかね。ともかく、こう「離れた所で一脈通う神社・地勢」というセットをまとめて行くというのも面白いかもしらんね。

弁才天

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瀬戸神社は海に向いているが、その正面にまた鳥居があって、こちらも見逃せない。ここから海に桟橋のように参道がのびていて、先端に弁天さんが祀られている。
昔はこの先端が「琵琶島」という島であり、本当に橋で結ばれていたという。そこの弁天さんは北条政子が竹生島から勧請した弁天であるそうな。金沢八景の「瀬戸の秋月」のロケーションでもありますな。
頼朝が伊豆三嶋大神を勧請したら、セットで政子が弁天を建てるのだ。これは神奈川県足柄上郡大井町の三嶋神社なども同じである。竹生島からといっているが、本質的には伊豆の見目神の社などに近い存在なのだろう。
金沢八景の図。左側中段に三島明神(瀬戸神社)があり、すでに今と同じように海に参道がつき出て「ビハジマ・弁才天」とある。往昔はこのように水に浮いたような土地だったのですよ。

洲崎神社

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先の絵図で弁天さんの上に浮いていた島のような洲を洲崎といい(今は周辺皆埋め立てられているが)、「洲崎神社」が鎮座される。絵図の中に「第六天」とあるのがそうで、つまり第六天社であった。この洲崎の昔の家々の並びを「家津良(やづら)八戸」といって、第六天を囲んでそちらに向くような家並みだったといい、先に見た浦郷日向の八王子神社との関係などが慮られる。まぁ、ちょっと今はもうよく分からんかったが。
夢枕に神が老翁として立ち、八幡を名のって祀れといったので八幡となった。というわけで富岡八幡の話に似てますな。安房の洲崎神社と直接関係はない。んが、そもそもこの地を洲崎といったのはどうなのか。
また、ここの洲崎神社に日枝社が合祀されている。船越の方でいっていた干拓一族「永島家」が金沢で祀っていた日枝社ですな。船越の日枝社(今は船越神社に合祀)もここから分けられたもの。この線が今回ラストの話となりまする。
これは船形石の奉納ではないのかね。まぁ、往時は海に浮ぶような土地だったので海絡みの何があってもおかしくないが。ていうか「海の第六天」の筆頭といえるのかなぁ、ここは。
「な、なんだってぇ〜!」という狛どの。これは「驚愕の表情」以外に見えんな。作り手はどういうつもりで作ったものか。

龍華寺

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洲崎神社のお隣の龍華寺もちらりと紹介。瀬戸神社の別当をつとめてきたお寺であります。いやこりゃスゲエ鐘楼でありますね。金沢の片鱗という所か。また当麻曼荼羅の話なんかも出て来る所なんだけれど、詳しくはいずれまた。
今回は龍華寺の不動さんの所にハイブロウな狛どのが居ったのでおまけでのせておこう。山門を入って右手にこのような赤いお堂というか祠があるのですな。その足元に。
あんぎゃあ。
いやいやいや、これはスバラシイ。まったくの偶然で見つけた狛どのだが、すでに巡った地域もまだまだこうした狛どのが隠れているのかなぁ。
吽像の方はもはや謎の生物であります。台座とかないから年号とかどうなんかな。分かっているのだろうか。

永島泥亀

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さて、金沢の物見遊山はそのくらいで。もちろん正規の「金沢行」はいずれガッチリと。今回はこの洲崎から北西側になる、先の絵図だと海になっていたところ、「泥亀」というところへ最後到達するのが目的だったのであります。「どろがめ」じゃないよ。「でいき」であります。

ここは船越の方で紹介したこのあたりの海を干拓することに執念を燃やした一族・永島家が干拓し、新田化した土地。この永島家のこの地へ来ての初代が「泥亀」と号し、故に泥亀新田という。代々この家は屋号を泥亀といったともいい、事業の完成期となる九代目の段右衛門忠篤も「亀巣」と号している。亀の一族なのだ。彼らの動向が、深浦亀島から船越新田の干拓という浦郷側の文物にオーバーラップしている可能性はないか、これが亀島の浦島太郎を追う筋のひとつなのだ。
以下のような時代の話となる。

寛文四年・永島家の金沢への移住、干拓を志す(1664〜)
寛文十二年・鉈切神明社・亀島明神社の創建(1673)
元禄九年・慶蔵院の移動(1696)
元禄十二年・泥亀新田干拓(1699)
宝永年間・船越新田の干拓(1704~1708)

修験寺・慶蔵院の移動が入ってますな。それで慶蔵院といっていたのですよ。「左様候えども雨ふり申さず候」と悔しがっていた、深浦亀島の亀島明神の別当寺だった慶蔵院であります。このお寺が期を一にして金沢(六浦)から浦郷に移動しているのが気になるのだ。『新編風土記』には「慶蔵院 本山修験 小田原駅玉瀧坊霞下、正本山と号す、古は武州金沢にあり 元禄九年此地に移る 今六浦米倉丹後守陣屋前の小橋をけさういん橋と云、是其旧蹟なり」とある。で、この移動した元禄九年というのは、永島一族が泥亀の干拓を一旦完了し(元禄十二年)、船越新田の干拓を開始した時期と呼応している。んが、永島家と慶蔵院に関係があったかどうか、現状まったく分からない。

ここがミッシングリンクといいますか、もちろんそもそも全然関係ないのかもしれないが。いずれにしても深浦の亀島を考える上で、「亀の一族」がそこを渡って行き来していたというのは無視できないだろう。そしてその別当寺の移動が永島家活躍の時期と一致しているというのも無視はできない。
このように、今回の第一目標であった亀島の浦島太郎問題に関しては、よく知られた横浜市神奈川区の浦島伝説からの影響という以外にも考えねばならぬ流れがある、ということなのであります。文化的に母胎の位置にあったろう金沢からの流れに「浦島太郎」があったか否か。永島家が守護としたのがまた日枝社であった。伊豆でも西相模でも海からきた白髭の神はまた比叡の白髭の神でもあった。亀島明神が「シラシゲ」さまであったことがここには連絡する。いずれ何らかの糸口がこの流れの中から見つかるのではないかと思う。

といったところで。どこでもそうだが、古代から現代までを縦横に見通せないとひとつの土地を見るのも難しい、ということがまたまた痛感された浦を渡る神社巡りでありました。今回のように、その面影が薄くなってしまった海ならなおさらである。しかし、逆にいったらこれだけ開発された海にも、これほどの「手がかり」があるのだ。まだ辿るべき筋はある、と呪文のように唱えながら、あたしはまた次の道行きへ進むのであります。

補遺:

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三浦行:横須賀 2013.04.27

惰竜抄: