三浦行:逗子

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.13

逗子市のあたりは平安時代は沼浜(ぬはま)郷といって鎌倉郡の一部だったが、中世以降は三浦郡となった。この「鎌倉の外縁・外」とされた所が重要なので、三浦行とする。

鎌倉というのは低丘陵にぐるりと囲まれた土地なのだが、それを壁として抜ける道が七つあり、これを鎌倉七口と言った。その多くは現代までに拡張されているのだけれど、当時の面目を良く伝えているとされるのが南東側の口、名越切通である。これを越えると逗子。
というわけで。今回は神奈川県逗子市の神社巡りなのだけれど、これは是非「鎌倉から境を越えて」逗子入りせねばならんのであります。故に朝一鎌倉駅で飛び降りましての行動開始。一路南東の名越を目指すのでありました。

名越切通

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前方に見える黒壁の森が境だ。いや、黒いのは単に逆光だからなんだけど。名越って所はですね、それ系の方達には超有名な所ですな。名越トンネルとか「鎌倉のNトンネル」といやあ名うての心霊スポットであるのだそうな。
鎌倉側の登り口はちょっと分かりにくい。この名腰踏切を目指すのが良いです。大通り沿いではないので注意。この踏切を渡ると切通への標識が出ているので以降迷うことはない。
湘南名物サーファー御用達自転車。
ここが名越切通への登り口。普通のハイキングコースだと思っていると度肝を抜かれますな。分かりますかね、右下が横須賀線で、その脇の斜面の張り出し道を行くのであります。
入り口の庚申さんとお地蔵さん(頭がないが)。場所が場所ですによって、えぇ。ここはひとつ深々と。あまりやっかいなモノの登場はノーセンキューでございますので、どうかひとつと(笑)。
するともうこんな山道に。これが名越の口で、この先に切通がある。で、この下を「Nトンネル」が走っているわけですな。
鎌倉時代からこの道は通りやすく整備されることがなかった。それどころかこのように意図的に道中に大石が置かれたりもした。
三浦一族は鎌倉幕府の成立に功ある、というか立役者であるが、それ故に鎌倉のすぐ隣で勢力を保ちつづけた一族でもあり、万が一反鎌倉となったら……と、特に北条氏は恐れていたと思われる。名越の口が通行困難に設えられた背景はそのような所にある。

まんだら堂やぐら群

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さらに、「通りにくくする」だけではなかったという所が重要なのだ。このルートの途中には写真の「まんだら堂やぐら群」がある。
「やぐら」とはこの地で中世の横穴墓をいう。要するにこれはみんな墓である。鎌倉は、名越切通に無数の墓を造ることで、この地(とその先の三浦半島)を人工的に彼岸としようとしたのだと言えよう。
この「墓域感覚」は下っても続き、火葬が増えて後もどんどん遺骨が「やぐら」に詰め込まれていたったという。まんだら堂やぐら群脇の名越の道に点々と見られる白い粒状の土質は、この遺骨が溢れ出たものだとも言われる(本当かどうかは知らない)。
さらにそのすぐ下には現代になって火葬場が建設された。実に千年「あの世感」が継続された土地なのだということだ。この真下を通っているトンネルが心霊スポットと言われるのもこの歴史の末端に連なる。
このあたりから「切通」の名にふさわしい地形となり、写真が「大空峒」とされる所。逗子側から登ってくるとこの大空峒を抜けた先に「やぐら」エリアが広がるわけですな。大空峒はここではなかった、という説もあるが、あったとされるこの後の久木の方には今はもう比定される地形は残っていない。今は写真の切通が大空峒の名で呼ばれている。

ちなみに、先の「まんだら堂やぐら群」は長らく文化財保持の為に非公開で封鎖されていたのだけれど、この(平成二十四年)十月から十二月九日までの土日祝日のみ暫定公開がはじまったのであります。これがあったのでの逗子行でもありました。今がチャンス。
そんな名越切通を抜けまして、現世に帰還という感じ。普通の民家がホッとするねぇ(笑)。

道行き

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下りて来た所は逗子市小坪という土地なのだけれど、小坪は今回スルー。なかなか興味深い漁師文化が展開する所で、小坪は小坪で一日かけないと、というような所なので。

久木神社

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道行きは東へと。久木(ひさぎ)という所へ。ここの鎮守が「久木神社」さん。しかし、久木という地名は新しく、久野谷(くのや)と柏原が合併して久木となった。
久野谷の鎮守はかつて稲荷神社であって、柏原明神と合祀されたのだが、現在の久木神社は宇迦之御魂命一柱を御祭神とするので実質稲荷神社のままではある。
んが、裏手には「草分稲荷」としてさらにお稲荷さんが祀られていた。名のとおり、もともとの鎮守が何であったかを示しているのだろう。絵に描いたような地主の稲荷である。
さらに草分稲荷の裏手に。皆お狐さんがおって、地域の稲荷祠が集まっているようでもあるが、ここにちょっと気をつけたいことがあったのだ(分からなかったけれどね)。

新箸の宮

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新箸の宮:
源頼朝が真田与一・柳川弥二郎の二人を供につれて三浦を訪れた。途中山の中で道に迷って途方にくれていると、とある茅葺きの家から機織りの音がきこえて来た。さっそく訪れて見ると機の主は若い娘で、久野谷六大夫の娘広尾ということであった。久野谷というのは、久木地区の昔の称である。座敷の床の間にかざってある「くつわ」と「えびら」を見つけた真田与一がその由来をたずねると、六大夫は沼浜城で源義平の馬のかかりをしていたが、平治の乱で義平が上京の折、形見として拝領のものだという。頼朝はこれをきいてその奇遇を喜び、自分は義平の弟頼朝であると言うと、六大夫は驚いてその不思議な対面に感泣した。その間、娘広尾は何か食事をと心を砕いたが、なにもない。やむを得ず栗の飯を炊いて、とりあえず庭の茅の茎を切って箸として頼朝の前にそなえた。

『逗子市史 別編1 民俗』より引用

この伝説により、逗子一帯では昭和のはじめ頃まで、七月二十六日に蕎麦を打ち、新しい茅の箸を添えて神棚に供える習わしがあったそうな。そして、この中心に「新箸(にいはし)の宮」という祠があり、祠はまた「ホーソーバーサン」とも呼ばれていたという。
この祠は『新編相模国風土記稿』にも名が見えているのだけれど、亀岡団地造成時になくなってしまい、行方も分からなくなってしまった。その新箸の宮が一説ここ久木神社に合祀されたというのですな。まー、ともかくこれは常陸の「青屋箸」とまったく同じである。青屋箸も祇園祭の時期に行なわれる。これが房総半島では頼朝の故事があって……ということは紹介したが、三浦にもあったのだ。というよりも『逗子市史』では「三浦半島に色濃く分布し」と、こちらが発祥である可能性を暗に示している。
その新箸の宮ないしホーソーバーサンの祠が実は裏手にあったりしてね!箸状のものがお供えされていたりしてねっ!というのを夢見ていたのだけれど(笑)、ま、そううまくはいかないのでした。

久野谷

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御神木は榊の木が社前にあったが、鎌倉隣ですよってどこも立派なイチョウが聳えている。でも何で葉がないのかね。

もう一点。「久野谷」という地名が引っかかっている。久野氏と思われる先の久野六大夫が久野谷に住んで久野谷六大夫と改めたというから、もとより久野谷だったのだろう。あたしはこの「久野」という地名が墓域を示すことがあるのじゃないかと思っているのだ。
「久」という字は屈葬の遺体の象形である。だから「柩」と書く。「久しい」というのはこの世の人ではなく、祖霊と会う時期に使った言葉だった。久遠の地とはあの世である。神奈川県小田原市の狩川から丘陵地にかけて古墳が点在する土地も「久野」と言う。
久木あたりは(この後にも見るが)、先の中世やぐら群に先駆けて、そもそも古墳時代の横穴墓が連なっている土地だった。久野谷は久野が墓域を示す地名であるというひとつの例となるかもしれない。昔の日本でどれだけ漢字の字義が勘案されていたのかは今ひとつ分からないけれど。

熊野神社

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南に下って山の根という所へ。ここの鎮守は「熊野神社」さん。奥に二之鳥居もあるのだけれどね。ちょうどその前にトラックが止まっていてですね。えぇ。「THE・社頭」という写真が撮れませんでね……(TT)。
ここは三つの谷戸の根となるピークのある所で、熊野神社であるというより神社後背のその「山の根」そのものを聖地とする場所だったと思われる。鬱蒼とした丘が取り巻いてますな。
鎌倉お膝元ということで各神社とも寺院との繋がりが密だった土地なのだけれど、そういう所はこのような木鼻の造作がカッチリしている。社殿がお寺的であるということでもある。
この本社殿向って右の丘斜面に古墳時代から奈良時代の横穴古墳群がある。その登り口には山神さんの祠が。ここから右上に登って行く。
三基開口していて(すなわち盗掘にあっていて)、さらに数基未盗掘の横穴墓が連なっているそうな。山の根横穴墓群としては昔は八十九基の墓があったといい、今でも三十基ほど確認できるという。
この三号墳の柵の後ろに小さな鳥居があって、地元の方の手によるものか、小さな書き付けがあった。これがですね、素晴らしいのなんのと言う。

この穴は、山神様の安らぎ場
  古き前より、そっとそのまま

とあった。「古き前より、そっとそのまま」の一文であたしは目頭が熱くなってしまいましたよ。いやもう冗談抜きで。これはもう西行法師の一文に匹敵するのじゃないか。どなたが書かれたものか。
また、今度は本社殿向って左手にご注目。こちらの丘前にはこれこの通り鳥居杉が。注連縄などは渡されていないが、どう見ても鳥居杉である。その間から丘を登るように道が。
境内社さんがあるのかしら、と思って登ってみますと……延々登らされた挙げ句、山の根のピークそのものの所まで来てしまった。特に祠などはなかったが、鳥居杉からして、このピークが「本当のアレ」なんだろう。
(ちょっとピークが不自然な盛土に見えたんだけどね。んなわきゃないよね……笑)

亀岡八幡宮

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山の根の南側はすぐに逗子駅でありまして、この周辺は都会であります。お次はその街中神社でおそらく今の逗子総鎮守格の亀岡八幡宮へと向いますな。実は、逗子市域には旧郷社が構えられなかった(お隣葉山町の森戸神社が旧郷社)。なんでじゃ。ということで今ひとつ地域総鎮守格の神社さんがどこか分からない。
よお。

「亀岡八幡宮」ですものそりゃ狛亀さんもいるんですよ。という感じでフライング亀さんでしたが、こちらが鳥居。このように街中の神社さんであります。
逗子駅近くであるからか、観光と言うか歩けの会(?)的な爺ちゃん婆ちゃんが多い。ガイド付きだ。「鎌倉鶴岡八幡に対して、こちらは亀岡八幡でありましてぇ……」とやっている。
んが、この八幡さんは古記録にはなく、『新編相模国風土記稿』にも「八幡宮」とあるのみなので、おそらく「鶴岡に対しての亀岡」というのは近現代の話である。
相模では八幡と言ったら鶴だが、御社殿もこれこの通り。亀が古くからキーとなっていたらここに鶴は飛ばさんわね。
亀岡八幡宮はその鎮座地の丘が亀のような丘だった、という話もあるのだが、そもそも今の八幡さんは丘上にはない。ただし、駅北側に昔は丘があったといい、その上に祀られていたという浅間祠が境内に移されてある。この丘が(今は削平されてしまったのだろう)、「亀岡」であった可能性はある。何とも言えんけどね。いずれにしても、「鶴岡八幡に対して亀岡八幡がある」というのはネタとして良く言われるのではあるけれど、特に古くから信仰空間として鶴亀を対置する何かがここにあったわけでは多分ない、ということであります。

境内の庚申さんなど。三浦半島は庚申文化圏である。道辻の石造物も庚申さんであり、双体道祖神のような像はあまり見ない(小坪の方には結構あるらしいが)。もっとも「道祖神さんの石を火にくべて割れたら増える」などという興味深い信仰が記録されているのも三浦なので、道祖神さんがないわけでもない。五輪塔の先端の石(ゴロ石)が道祖神さん扱いなのかな。

『逗子市史』には小正月の火祭りは三浦では特に道祖神祭として強く認識されていない、とあるが、八幡さんではこのように「道祖土焼」の名になっていた。どうなんだろうね。てか道祖土焼とはなんだろね。これでどんど焼き、と読むのか。

田越川・岩瀬の天王社

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逗子の地を切り開いた田越川、の田越橋。運河のように見えるが、実際近世はそのようであった。伊豆の海産物を田越川の上流まで船で運び、そこから陸路で江戸に入ったそうな。
かなり近いのだけれど逃げないね。鷺の類はカメラに敏感なイメージがあるのだけれどコノヒトは呑気なものであります。

ここから少し川を遡った所、昔は岩瀬といった字があり(桜山四丁目あたり?)、そこに天王さんがあったそうな(今はない)。そこに「流される天王」の伝がある。

当地にはかつて天王社が字岩瀬にあった。この天王社に神輿があり、いつもこの神輿が荒れ往来の人馬を苦しめたことがあったので、神輿の鳳凰を土中に埋め輿は海へ流したという。流した神輿は鐙摺に流れ着き彼地ではこれを祀り、鐙摺の天王社となったと伝える(『改訂 逗子町誌』)。

『逗子市史 別編1 民俗』より引用

鐙摺(あぶすり)というのは南隣の葉山町の葉山マリーナの南あたりで、現在須賀神社が見えるので(左地図)、おそらくそこが鐙摺の天王社だろう。『逗子市史』では浜降祭様の神事があったのだろうと見ているが、あたしもそう思う。相模は一宮寒川神社が中心となる神輿が海へ入る浜降祭があるが、この神事は常陸から伊豆まで天王社の系が行なうことが多い神事である。むしろ、寒川神社が「水の天王」に近い性格を持った、と解釈する方向で見るべきなのだ。

「浜降祭」(茅ヶ崎市観光協会)

子之神社

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一旦少し川上へ行きまして、桜山の「子之神社」さんへ。かなり路地奥に鳥居が見えてくる。大きな通りからはまったく分からん場所ですな。
小さなお社にもイチョウがしっかり。子之神社自体は何がどうと言うわけではないのだけれど、この後背(社殿は横に向いているので写真左上ということになるが)の「山」が祀られてきたという所が注目される。
かつて子之神社の管轄で山頂に三峯神社の石祠が建てられたと言う。この「山」がどういった範囲を示すのかが分からないのだが、奥まで登るのなら、そこはこの後に登る長柄桜山古墳群の造営されている山のことである。
長柄桜山古墳は1999年に古墳であると確認された「近年に発見された古墳」であって、それまでそのような伝はなかった。もし、子之神社がそこを「山」として祀ってきたと言うならば、注目に値する。

六代御前の墓

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今度は川下へ下ると「六代御前神社」がある。神社といっても要は六代御前の墓である(法人社ではない)。
六代御前(平高清)は平維盛の嫡男で、平清盛の曾孫。直系だ。世が世であれば、という人だが、平家滅亡時に捕えられ、文覚の提言でその弟子となり一命を長らえたと言うが、頼朝が死してあとはその話も胡乱となり、結局はここで斬首されることになった。
この六代御前の死をもって清盛の嫡流は断絶することになる。こちらの建物が「神社」扱いなのかしらね。中は仏具だらけでお堂のようではあったが(拍手を打つのか打たんのか迷った)。
こちらが墓碑。田越川畔のこの場所は、六代御前のみならず斬首が行なわれた記録があり、刑場であったと思われる。田越川は一名「御最後川」とも呼ばれるそうだが、そんな歴史故だろう。

さて、源平マニアならいざ知らず、あたしがここに注目して来たのは六代御前そのものというよりもそこに重なって行なわれてきた民俗の方による。墓碑後ろに大きな木があるが、これが重要だ。土地の伝では、六代御前は斬首される直前熱病を患っていたということになっており、当地で行なわれてきた墓前祭は、流行病を鎮める祭として盛大だった(三浦の三大祭の一)。先の大樹(おおき、と呼ばれる)の枝葉を持ち帰り、軒先玄関口に吊るすと悪い病気が入らない、とされた。
御霊信仰にはこのような側面がある。例えば、新箸の宮に出て来た真田与一(佐奈田義忠)は石橋山で落命しているが、この時「痰が絡んで声を発することができなかった」ために、味方に助勢を乞うことができず討ち取られた、という話になっている。そして、神奈川県小田原市石橋山には佐奈田与一の霊を祀る佐奈田霊社があるが、ここは「のど(声)・せき・気管支炎・ぜんそく」に悩む人々を救う社となっている。御霊が命を落とす原因となった病なり不幸なりが御神徳となるのだ。
しかし、無論、これらはその祭祀が御霊社に習合した時点で「遡って伝説が生まれる」という仕組みであることが多いはずだ。すなわち、ここ六代御前の墓も、御霊社としての性格以前(以外?)の流行病鎮めの信仰が合流したと考える方が自然ということだ。これは祭が祇園祭の時期であること、先の新箸の宮の新箸を用意する祭事と同じ枠組みで行なわれていること、また先の岩瀬の天王社に見るように天王信仰が色濃かった地であること、などから予感され、皆接続していくと思われる。
六代御前の墓の「おおき」はタブの木である。これは海からの指標木であったかもしれない。禍福は海より訪れる。ここにはそのような信仰空間があったはずだ。

長柄桜山古墳群二号墳

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六代御前の墓をあとに長柄桜山古墳群へ向いまする。まだ地図などには反映されてないようで、ぐーぐるマップなどではさっぱり道筋が分からない。んが、六代御前の墓まで来たら写真のような案内があり、以降標識もあるので大丈夫であります。 長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群は二基の前方後円墳からなり、これは現存するものとしては相模最大の規模の古墳。これはまったくその存在が知られておらず、前世紀末に地元考古愛好家の一念から発見に至ったという古墳であります。

長柄桜山古墳群(Wikipedia)

勿論古墳造営時に「相模」はまだなかったけどね。

登ることしばしで二号墳へ。これは後円部の端からですな。桜山丘陵の海に面したピークに造営された前方後円墳なのだ。
ここは墳丘上に登れるので、こうして見ると前方後円墳の形が分かる(後円上部より前方部)。二号墳は全長88メートル程で少し小さいが(一号墳は全長約90メートル)、面積では一号墳より大きいそうな。
で、ですな。前方部下はもう相模湾に面する斜面なのだけれど、樹々の間から江の島が見えるのですよ。はっは〜、なるほどねぇ、という感じ。
古墳自体の軸はほぼ真西を向いていると思われるのだけれど、やや北側になる江の島を強く意識した造営であるに違いない。帰ってきて線を引いてみると左地図のようになった。すなわち、江の島・富士山が連なるライン上であるということだ。
また、二号墳からは葺石の存在が見つかっている(今は埋め戻されていて見えないけどね)。同時期に造営されているはずの一号墳には見られない、というのも面白いですな。

長柄桜山古墳一号墳

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ちなみに古墳群散策ルートはこんな感じ。きつい登りというわけではないけれど、足回りをきちんとしていかないとイカンです。

そして東側の一号墳へ。ここは全容がよく見えますな。前方部端から。写真左奥の塚が後円部。どんどん木を伐っているようだ。芝の古墳状にでもするのかね。
こちらは整備中という感じで全面立ち入り禁止(写真は後円部墳丘)。古墳の軸は南西(南南西?)と、二号墳よりも南を向いている。伊豆半島先端か、大島か。

さて、あたしはこの長柄桜山古墳群の造営感覚は、上総市原の姉崎古墳群によく似ていると思う。

上総行:市原(終盤)

スケールは異なるが、共に土地を拓いた河川(逗子・田越川/姉崎・養老川)の南側の丘陵のピークに西の海に向って造営された前方後円墳だ。
もとより内房と三浦の関係は深いが、あるいは国造時代の人の流れまで遡ってその関係を見ることが出来るかもしれない。まだ手が着いていないが、姉崎古墳群と長柄桜山古墳群はよくよく比較検討すべきではないかと思う。

道行き

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桜山から下りてきまして庚申さんやら地神さんやら。やはり庚申地帯ですな。次の記事など参照するに、道祖神さんもあるようなのだけれど。

鎌倉の隠れ里:PDF

五霊神社

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ところで、このような相模でも突出した古墳の見つかった土地なのだけれど、古代の様子がよく分からないのが三浦半島でもある。三浦郡にはなぜか式内社がない(逗子市域は古代は鎌倉郡だったが……どのみち、鎌倉郡にも式内社がないが)。
名越から桜山を越えるルートは古代において、武蔵が東海道に編入される以前の東海道の本道であったと考えられ、浦賀へ続いていたと思われる(浦賀道と言う)。逗子小学校の場所には郡衙クラスの大型建築物の趾が確認されており、また行基菩薩伝説の色濃い土地でもあり、交通の要衝であったのは間違いない。
長柄桜山古墳群の存在を考えても、何かしらそのあたりを反映した古社があってしかるべきなのだが、今となってはよく分からない。分からない、のだけれど……

その逗子にあって「最も古い神社」であると認識されているのがここ沼間の「五霊神社」なのであります。もとは「御霊社」だったのだけれど、明治に神明・諏訪・熊野各社をを合祀して「五霊」と改めた。また、沼間(ぬまま)という地名自体、古代の沼浜(ぬはま)郷の遺称であるとされる。
天手力男命を御祭神とし、頼朝の父、源義朝によって土地の鎮守として勧請されたと伝わる。『逗子市史』ではもとは他の鎌倉御霊社同様に鎌倉権五郎景政を祀っていたのだろうとしているが、あたしは天手力男命の方が気になる。
甲府の佐久神社もそうだったが、天手力男命は国土を拓いた祖の意味で祀られることがままある。ここ五霊神社がどういった経緯で天手力男命を祀るに至ったのかは分からないが、国造の社の側面があったのではないか(ちなみに神奈川県下法人社の御霊・五霊神社で天手力男命を御祭神とするのはここ沼間のみ)。
ま、どうだか分からないけどね。今の所先に述べたような古代の要衝であったはずの沼浜郷に少しでも関わりそうな面が見えるのはここ五霊神社だけなのであります。山の根の熊野神社さんも「聖地」としての結構は充分だけれど。
五霊神社にも立派なイチョウが。樹齢600年ほどとあるが、「かながわの名木100選」にも選ばれている大イチョウ。
境内傍には木の蔭にお稲荷さんの祠が。時々目に着かないようにお稲荷さんの祠がある神社がある。意図的だと思うんだがね。

七諏訪様

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沼間の七諏訪神社(要約):
聖武天皇の時代と伝わる。当時、沼間は海に続いており、おそろしい大蛇がいた。時々海の方へ出て行って船を沈めたり、火や毒を吹きかけて人々を苦しめていた。この土地を治めていた長尾左京大夫善応という人が、なんとか大蛇を退治しようと、朝廷に掛け合った。
折よく高僧、行基が諸国修行の途中この地に来られたので、善応は大蛇の教化を頼んだ。行基は山に籠り、十一面観音菩薩の木像を彫り上げた。そして、それを小舟に乗せると沖へ出て、一心に観音経を唱えた。やがて波の間に首をうなだれた大蛇が現われ行基の船に近づくと、これまでの悪事を悔い、これからは観音様の教えの通りに世の為に尽くす、と誓った。人々は大喜びをし、大蛇の魂を祀る諏訪明神を建てることにした。
大蛇には頭が七つあったので、七ヵ所に諏訪明神を建て、七諏訪様と呼んだ。祭は当初八月一日に全部一緒にすることになっていて、沼間の人々がみんな集まって祭礼をしていたという。

『逗子市史 別編1 民俗』より要約

ここから次幕・逗子の七頭の竜蛇と七諏訪社の話となる。上記が沼間に伝わった七頭の竜蛇伝説であり、七諏訪社の縁起なのであります。七諏訪社は実在し(石祠だが)、同『逗子市史』の各地域の信仰の稿でも扱われている。んが、市史の編纂段階で既にその所在などは分からなくなってしまっていると報告されてもいる(一社だけ分かっているのだが)。
沼間の鎮守であるここ五霊神社に諏訪神社が合祀されているので、それも七諏訪様のひとつじゃなかったのかね、とか思いながら境内をウロウロしておったのでありました。写真は境内社をまとめた一宇。
すると神社に婆ちゃんがやって来て、銀杏を集めはじめた。これ幸いと例によってお話を聞いてみたのだけれど、「いやー、聞いたことがないねぇ」とおっしゃる……orz
「桜山とか山の根とかねぇ、お宮さんはあるけど。沼間に諏訪神社が七つ?あたしは六十年……今年で八十七になるんですよぉ、ホッホッホ……沼間に六十年住んどるけれど、そういう話は聞かないねぇ」とのことなのだ。うーむ。でも婆ちゃんは続いて……
「あっちにね、公民館がありますよ。逗子の昔のこととか書いた本もあるから、公民館行ったら何か分かるかも……」と教えて下さったのでした。なるほど、公民館ね。
ということでやってまいりましたのは沼間公民館。何と立派な……地域の公民館というより役所の分館ですなこりゃ、と思ってみると中に本棚の列が見える。おぅ、本があるというのは図書館の分館があるということか。ナイス婆ちゃん。
実は、この日本来の予定は途中で逗子市立図書館に寄って、市史より古い『改訂 逗子町誌』などにあたるというものだったのだ。んが、市立図書館が資料整理の長期休館状態で、その辺はまた改めて、という変更を余儀なくされいた。これがこちら沼間公民館図書館は開いておるようでありまして、突撃。『改訂 逗子町誌』とか地域誌の『沼間のむかし』とかありますねぇ。うひょひょひょひょ……んが、ここで七諏訪様のその後のことが大体明らかに。

『改訂 逗子町誌』には(古くて粗いものだが)いくつかの諏訪祠の写真も載っていて、小字と鎮座地も大まかに分かるのだけれど、どうもこれらは個人所有の山林中に祀られていたもののようだ。山に入らない時代となって『逗子市史』の編纂段階では、既に所在不明となってしまったのだろう。すなわち、一般道を通って行ってどうこうなるものではなく、現在七諏訪巡りなることをやろうとしても無理だ、ということになる。うーん、残念でした。

十一面観音

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だがしかし。話はこれでおしまいではない。この七頭の竜蛇伝説には後日談となる伝説がさらにある。今度はそちらの方をあたりに。途中に狛犬さんが。はー、狛犬さんが社寺の外におるというのも珍しいですな。

こちらは日蓮宗のお寺「法勝寺」。ここが今でも伝・行基作の十一面観音を安置するお寺であり、後日談の伝説を伝えるお寺なのだ。

十一面観音菩薩をめぐる伝説(要約):
行基菩薩が刻んだという十一面観音は、山上にお堂を建てて祀られ、長尾山善応寺と呼ばれた。しかしこれは荒れ果て、いつしか観音像も苔の下に埋もれることになっていた。
道長が出て、藤原氏の全盛の頃という。沼間の某の娘に絶世の美人がいた。しかし、年頃になると顔に腫れ物ができてしまい、医者にも治せなかった。安倍の保仲という陰陽師に占ってもらうと、娘の命は年内を出ないと告げられ、両親は消沈した。それでもあきらめきれずに、大蛇を祀った諏訪明神様に願をかけたところ、満願の日に神託があり、池の畔に十一面観音が埋もれているから、掘り出して祀れば娘は治るであろうとのことだった。早速そのようにすると、娘の腫れ物は綺麗に治った。
両親は大いに悦び、あらたにこの十一面観音を祀るお堂を建立して「子生山感応寺」とした。(後略)

『逗子市史 別編1 民俗』より要約

この観応寺の後裔であったと思われる天台宗の天童山正覚寺というお寺があり、これを永仁年間(1295)に日蓮宗九老僧の一、日範聖人が宗論に勝ち日蓮宗の寺と改めたのが法勝寺。ここの『法勝寺古縁記』にも沼間の大蛇伝説が語られて来た。
まー、何にしても最終的に伝説が収斂したのが日蓮宗のお寺だったということで因果な話である。何のことかというと、江の島の五頭竜のことだ。これは有名なのでご存知の方が多いと思うが、逗子から鎌倉を挟んで反対西側には五頭竜がいた。その悪逆の竜を鎮める為に顕現されたのが江の島の弁天さんである。五頭竜は弁天さんにひと目惚れしてしまって、弁天さんは悪逆をやめ鎮まるなら願いを叶えましょうということで竜蛇を鎮めたのであります。
この五頭竜が山となったというのが江の島の対岸の龍口山。昔はこの竜を祀る龍口明神が鎮座していたが、ここは日蓮の法難の地であり日蓮宗龍口寺となった(ちなみにこちらも刑場の地であった)。あたしは逗子と江の島の多頭の竜蛇の伝説は対応関係にあると思う。

さて、あたしは以前、箱根と戸隠の九頭竜伝説は、鎌倉によって再編集された伝説であり、日本を東西に分けた場合のその両端に据えられた巨大な「サイノカミ」なのではないかという無茶苦茶な話をしたことがある。

「旧正月初詣・箱根行」(最後の補遺)

まー、当時も書きながらわれながら無茶なことを言う……と思ったものだが(笑)、この逗子の七頭の竜蛇の伝説を知るに及んで瓢箪から駒ならぬ、瓢箪から九頭竜(?)もあるかもしらんと思いはじめている。もし江の島と逗子沼間の五頭竜と七頭の竜蛇が鎌倉の東西の境を意味するならば、鎌倉には境界を多頭の竜蛇伝説をもって鎮護する発想があった、ということになる。江の島も沼間も(箱根も戸隠も)成敗されずに高僧に教化され、護法の龍と化していることに注目されたい。

矢の根橋

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そんなことで脳内がフィーバーしつつ、道行きに。写真だと見えないか。「矢の根橋」とある。なんとな?
全然話は変るが、このあたりで「矢の根」と言ったら為朝である。伊豆大島に流された鎮西八郎為朝がオノレ鎌倉めと大島から放った矢が落ち水が湧いて井戸になったという井戸が鎌倉と逗子の境にある(小坪の矢の根井戸・六角井戸)。ま、鎌倉成立期には為朝はもう死んじゃってるのだけどね。
有名なのはその六角井戸だが、以前三浦半島先端の剣崎にも「矢の根井戸」があることを紹介した(左写真)。

「東相模行:横須賀・三浦」(最後部)

なんなんだろうね、こちらの「矢の根橋」は。

七諏訪様2

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閑話休題。東逗子駅の方へと戻ってきまして、そこから北上すると唯一訪れることのできる七諏訪様の一祠が現存している。
通りの脇、駐車場の片隅で今にも消えてなくなってしまいそうだが、榊などは定期的に改められているようだ。もともと先に述べたようにお屋敷神の側面も強いので、この土地の方が守っておられるのだろう。
この件にはさらに色々なコードが接続していくと思われる。諏訪明神というのは弁天と双璧を成す鎌倉北条氏の守護神である。この間の甲府行で見た七所天神にも諏訪神社が関わっており、そのことも連想される。これ以上は現状何とも言えないが、逗子に七頭の竜蛇と七諏訪様あり、と覚えておかれたい。

神武寺

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さあ、大まかにこの日の目標は達成。あとは「逗子と言えば」の古刹・神武寺を訪れて幕としましょう、ということで。ここも由緒沿革諸々興味深い点が多いが、随分話も長くなったのであとは気楽に写真を見ながら、という感じで。
先の諏訪祠さんの南に東逗子駅から神武寺に登る参道入り口がある。ハイキングコース扱いであるので誰でも気軽に参拝できる。
「車では行けません」とありますな(伏線)。
標柱の基部には椀状穿痕が。これはその社寺が里人に親しまれた歴史、というのを見る良い痕跡。
参道はこんな。貴重な植生の山でもあり、あたしと前後して登っていたおとっつあんはそちら専門のようで、建物とかには目もくれずに植物観察をもっぱらにされていたほど。
参道途中の石祠。こういう中に七諏訪さんの後裔がまぎれていたりせんかね、と思いつつ。

山門が見えてきましたな。神武寺であります。現役のお寺パートと文化財エリアが別れており、文化財エリアの楼門はまた別にある。
「御浦札第一番」の標石。「御浦」なんですよ、三浦半島は。
門をくぐって暫しで、何と「駐車場」が(笑)。車で来れんじゃん、みたいな。でも、この車道はおそらくお寺と檀家の人たちだけが使える私道(ちなみに神武寺の檀家は沼間でなく桜山に多いという興味深い分布がある)。
木漏れ日六地蔵さん。笠地蔵状態であります。
そして文化財エリアの楼門へ。外国の樽のようなおっちゃんも登って来ておりました。楼門を見上げて何か驚嘆したけど何語かすら分からんかったので、なんと言ったか分からない。
秘仏・薬師三尊像が安置されているという薬師堂。故に「醫王山来迎院神武寺」なのであります。ちなみにぐーぐるまっぷはここを「山王神社」と表示しているけれど、違いまする。
お隣には地蔵堂。この地の子安信仰の中心でもある。写ってはいないが、さらにこの右手に小屋のようにあるのが守護神の山王神社(神武寺は天台)。
境内の石仏さんも笠地蔵状態。なんでかね。何かいわれがあるのかしらね。

その他諸々(逗子八景の神武寺の晩鐘の鐘は超逆光状態にて御免)あるのだけれど、このへんで。割と都心からも近く、山寺の雰囲気を満喫できる所でありますれば、秋のハイキングがてらにどうかしら、といった感じの神武寺でありました。

おわり

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そんなところで。切通にはじまり切通に終わる一日。いや、レポ書いてると嘘のようだが、名越の切通がこの日の朝なのだ(笑)。あれもこれもと良く巡った一日でありました。

そのあれもこれものおかげでまたとっ散らかったが、やはりこの逗子行の要は(七諏訪様もあるが)、大きな枠では浦賀へ通じる古代の官道だった、という所にある。長柄桜山古墳を紹介してその端緒としたが、ここから考えねばならぬことは山ほどある。とくに、姉崎と似ている、というのが大きい。鎌倉により境界の地であり異界であるとされた以前にはメインストリームであった古代があるのだ。その重心の移動が追えるものか否か。それは相模と上総を結ぶ道にもなる。
今の所日本武尊伝説があるというわけでもなく雲を掴むような所もあるが、この日の体験から何かが繋がっていくことを期待したい。

補遺:神武寺と行基伝説について

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補遺:神武寺と行基伝説について
最後にあまりにも観光モードで流してしまった神武寺と行基伝説について。七諏訪様の伝説も行基が登場して十一面観音を作っているが、土地の古刹名刹である神武寺がそもそも伝・行基開基の寺である。スキップしたが、久木には岩殿(がんでん)寺というこれまた古刹があり、ここも伝・行基開基の寺であり、行基が作ったという十一面観音像が安置されていたとしている。両寺は『吾妻鏡』にも源実朝が参詣した旨が書かれている。さらに「逗子」の名のもとになったという亀岡八幡宮近くの延命寺の延命地蔵も行基作と伝わる(このことから周辺が「厨子」と呼ばれるようになったという)。ことほど左様に逗子は行基伝説の地なのだ。
全国に行基菩薩が開いたという寺があり、また津々浦々を行脚したとされ、昔の日本の地図(鱗の重なったような地図)を「行基図」と言ったりもする。んが、関西圏ならともかく、東国などは無論伝説ではある。しかしその伝説とは何を意味するのか。これは概ね東大寺と国分寺のネットワークの形成に関すると見て良いと思う。東大寺を中心に国分寺が展開したように、それぞれの地方では国分寺を中心にさらなる末寺が展開したのだろうが、このオーダーの寺社のあった所に行基伝説が濃いのだと思われる。東大寺の大仏製造のマスターが行基だったのですな。相模は相模以前に相武(さがむ)・三浦・師長の重心があったと思われるが、相武では日向薬師、師長では高麗寺と中村白髭神社、三浦では逗子周辺が行基伝説の濃いポイントとなる。
こういった面からも、逗子は古代の要衝であったと思われるのだ。神武寺は桜山の方に檀家が多く、社領も桜山の方にあったのだが、これは郡衙相当の施設が桜山下にあり、そこにセンターとなる寺があり、神武寺はそこの奥の院の性格であったと考えると了解がついてくる。武蔵國が東海道に編入され、東海道が高座郡から武蔵国府へ向うようになって以降の三浦半島の様子というのは本当に霧の彼方という感じなのだが、この神武寺以下の行基伝説は一つの指標となると言えるだろう。

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三浦行:逗子 2012.10.13

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