三浦行:逗子
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.13
名越切通
まんだら堂やぐら群
道行き
下りて来た所は逗子市小坪という土地なのだけれど、小坪は今回スルー。なかなか興味深い漁師文化が展開する所で、小坪は小坪で一日かけないと、というような所なので。 |
久木神社
新箸の宮
新箸の宮:
源頼朝が真田与一・柳川弥二郎の二人を供につれて三浦を訪れた。途中山の中で道に迷って途方にくれていると、とある茅葺きの家から機織りの音がきこえて来た。さっそく訪れて見ると機の主は若い娘で、久野谷六大夫の娘広尾ということであった。久野谷というのは、久木地区の昔の称である。座敷の床の間にかざってある「くつわ」と「えびら」を見つけた真田与一がその由来をたずねると、六大夫は沼浜城で源義平の馬のかかりをしていたが、平治の乱で義平が上京の折、形見として拝領のものだという。頼朝はこれをきいてその奇遇を喜び、自分は義平の弟頼朝であると言うと、六大夫は驚いてその不思議な対面に感泣した。その間、娘広尾は何か食事をと心を砕いたが、なにもない。やむを得ず栗の飯を炊いて、とりあえず庭の茅の茎を切って箸として頼朝の前にそなえた。
この伝説により、逗子一帯では昭和のはじめ頃まで、七月二十六日に蕎麦を打ち、新しい茅の箸を添えて神棚に供える習わしがあったそうな。そして、この中心に「新箸(にいはし)の宮」という祠があり、祠はまた「ホーソーバーサン」とも呼ばれていたという。 この祠は『新編相模国風土記稿』にも名が見えているのだけれど、亀岡団地造成時になくなってしまい、行方も分からなくなってしまった。その新箸の宮が一説ここ久木神社に合祀されたというのですな。まー、ともかくこれは常陸の「青屋箸」とまったく同じである。青屋箸も祇園祭の時期に行なわれる。これが房総半島では頼朝の故事があって……ということは紹介したが、三浦にもあったのだ。というよりも『逗子市史』では「三浦半島に色濃く分布し」と、こちらが発祥である可能性を暗に示している。 その新箸の宮ないしホーソーバーサンの祠が実は裏手にあったりしてね!箸状のものがお供えされていたりしてねっ!というのを夢見ていたのだけれど(笑)、ま、そううまくはいかないのでした。 |
久野谷
熊野神社
亀岡八幡宮
田越川・岩瀬の天王社
当地にはかつて天王社が字岩瀬にあった。この天王社に神輿があり、いつもこの神輿が荒れ往来の人馬を苦しめたことがあったので、神輿の鳳凰を土中に埋め輿は海へ流したという。流した神輿は鐙摺に流れ着き彼地ではこれを祀り、鐙摺の天王社となったと伝える(『改訂 逗子町誌』)。
鐙摺(あぶすり)というのは南隣の葉山町の葉山マリーナの南あたりで、現在須賀神社が見えるので(左地図)、おそらくそこが鐙摺の天王社だろう。『逗子市史』では浜降祭様の神事があったのだろうと見ているが、あたしもそう思う。相模は一宮寒川神社が中心となる神輿が海へ入る浜降祭があるが、この神事は常陸から伊豆まで天王社の系が行なうことが多い神事である。むしろ、寒川神社が「水の天王」に近い性格を持った、と解釈する方向で見るべきなのだ。
▶「浜降祭」(茅ヶ崎市観光協会) |
子之神社
六代御前の墓
長柄桜山古墳群二号墳
六代御前の墓をあとに長柄桜山古墳群へ向いまする。まだ地図などには反映されてないようで、ぐーぐるマップなどではさっぱり道筋が分からない。んが、六代御前の墓まで来たら写真のような案内があり、以降標識もあるので大丈夫であります。
長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群は二基の前方後円墳からなり、これは現存するものとしては相模最大の規模の古墳。これはまったくその存在が知られておらず、前世紀末に地元考古愛好家の一念から発見に至ったという古墳であります。
▶長柄桜山古墳群(Wikipedia) 勿論古墳造営時に「相模」はまだなかったけどね。 | |
登ることしばしで二号墳へ。これは後円部の端からですな。桜山丘陵の海に面したピークに造営された前方後円墳なのだ。 | |
ここは墳丘上に登れるので、こうして見ると前方後円墳の形が分かる(後円上部より前方部)。二号墳は全長88メートル程で少し小さいが(一号墳は全長約90メートル)、面積では一号墳より大きいそうな。 | |
で、ですな。前方部下はもう相模湾に面する斜面なのだけれど、樹々の間から江の島が見えるのですよ。はっは〜、なるほどねぇ、という感じ。 | |
古墳自体の軸はほぼ真西を向いていると思われるのだけれど、やや北側になる江の島を強く意識した造営であるに違いない。帰ってきて線を引いてみると左地図のようになった。すなわち、江の島・富士山が連なるライン上であるということだ。 | |
また、二号墳からは葺石の存在が見つかっている(今は埋め戻されていて見えないけどね)。同時期に造営されているはずの一号墳には見られない、というのも面白いですな。 |
長柄桜山古墳一号墳
ちなみに古墳群散策ルートはこんな感じ。きつい登りというわけではないけれど、足回りをきちんとしていかないとイカンです。 | |
そして東側の一号墳へ。ここは全容がよく見えますな。前方部端から。写真左奥の塚が後円部。どんどん木を伐っているようだ。芝の古墳状にでもするのかね。 | |
こちらは整備中という感じで全面立ち入り禁止(写真は後円部墳丘)。古墳の軸は南西(南南西?)と、二号墳よりも南を向いている。伊豆半島先端か、大島か。
さて、あたしはこの長柄桜山古墳群の造営感覚は、上総市原の姉崎古墳群によく似ていると思う。 ▶上総行:市原(終盤) スケールは異なるが、共に土地を拓いた河川(逗子・田越川/姉崎・養老川)の南側の丘陵のピークに西の海に向って造営された前方後円墳だ。 もとより内房と三浦の関係は深いが、あるいは国造時代の人の流れまで遡ってその関係を見ることが出来るかもしれない。まだ手が着いていないが、姉崎古墳群と長柄桜山古墳群はよくよく比較検討すべきではないかと思う。 |
道行き
桜山から下りてきまして庚申さんやら地神さんやら。やはり庚申地帯ですな。次の記事など参照するに、道祖神さんもあるようなのだけれど。
▶鎌倉の隠れ里:PDF |
五霊神社
七諏訪様
沼間の七諏訪神社(要約):
聖武天皇の時代と伝わる。当時、沼間は海に続いており、おそろしい大蛇がいた。時々海の方へ出て行って船を沈めたり、火や毒を吹きかけて人々を苦しめていた。この土地を治めていた長尾左京大夫善応という人が、なんとか大蛇を退治しようと、朝廷に掛け合った。
折よく高僧、行基が諸国修行の途中この地に来られたので、善応は大蛇の教化を頼んだ。行基は山に籠り、十一面観音菩薩の木像を彫り上げた。そして、それを小舟に乗せると沖へ出て、一心に観音経を唱えた。やがて波の間に首をうなだれた大蛇が現われ行基の船に近づくと、これまでの悪事を悔い、これからは観音様の教えの通りに世の為に尽くす、と誓った。人々は大喜びをし、大蛇の魂を祀る諏訪明神を建てることにした。
大蛇には頭が七つあったので、七ヵ所に諏訪明神を建て、七諏訪様と呼んだ。祭は当初八月一日に全部一緒にすることになっていて、沼間の人々がみんな集まって祭礼をしていたという。
十一面観音
だがしかし。話はこれでおしまいではない。この七頭の竜蛇伝説には後日談となる伝説がさらにある。今度はそちらの方をあたりに。途中に狛犬さんが。はー、狛犬さんが社寺の外におるというのも珍しいですな。 | |
こちらは日蓮宗のお寺「法勝寺」。ここが今でも伝・行基作の十一面観音を安置するお寺であり、後日談の伝説を伝えるお寺なのだ。 | |
十一面観音菩薩をめぐる伝説(要約):
行基菩薩が刻んだという十一面観音は、山上にお堂を建てて祀られ、長尾山善応寺と呼ばれた。しかしこれは荒れ果て、いつしか観音像も苔の下に埋もれることになっていた。
道長が出て、藤原氏の全盛の頃という。沼間の某の娘に絶世の美人がいた。しかし、年頃になると顔に腫れ物ができてしまい、医者にも治せなかった。安倍の保仲という陰陽師に占ってもらうと、娘の命は年内を出ないと告げられ、両親は消沈した。それでもあきらめきれずに、大蛇を祀った諏訪明神様に願をかけたところ、満願の日に神託があり、池の畔に十一面観音が埋もれているから、掘り出して祀れば娘は治るであろうとのことだった。早速そのようにすると、娘の腫れ物は綺麗に治った。
両親は大いに悦び、あらたにこの十一面観音を祀るお堂を建立して「子生山感応寺」とした。(後略)
この観応寺の後裔であったと思われる天台宗の天童山正覚寺というお寺があり、これを永仁年間(1295)に日蓮宗九老僧の一、日範聖人が宗論に勝ち日蓮宗の寺と改めたのが法勝寺。ここの『法勝寺古縁記』にも沼間の大蛇伝説が語られて来た。
まー、何にしても最終的に伝説が収斂したのが日蓮宗のお寺だったということで因果な話である。何のことかというと、江の島の五頭竜のことだ。これは有名なのでご存知の方が多いと思うが、逗子から鎌倉を挟んで反対西側には五頭竜がいた。その悪逆の竜を鎮める為に顕現されたのが江の島の弁天さんである。五頭竜は弁天さんにひと目惚れしてしまって、弁天さんは悪逆をやめ鎮まるなら願いを叶えましょうということで竜蛇を鎮めたのであります。 この五頭竜が山となったというのが江の島の対岸の龍口山。昔はこの竜を祀る龍口明神が鎮座していたが、ここは日蓮の法難の地であり日蓮宗龍口寺となった(ちなみにこちらも刑場の地であった)。あたしは逗子と江の島の多頭の竜蛇の伝説は対応関係にあると思う。 さて、あたしは以前、箱根と戸隠の九頭竜伝説は、鎌倉によって再編集された伝説であり、日本を東西に分けた場合のその両端に据えられた巨大な「サイノカミ」なのではないかという無茶苦茶な話をしたことがある。 ▶「旧正月初詣・箱根行」(最後の補遺) まー、当時も書きながらわれながら無茶なことを言う……と思ったものだが(笑)、この逗子の七頭の竜蛇の伝説を知るに及んで瓢箪から駒ならぬ、瓢箪から九頭竜(?)もあるかもしらんと思いはじめている。もし江の島と逗子沼間の五頭竜と七頭の竜蛇が鎌倉の東西の境を意味するならば、鎌倉には境界を多頭の竜蛇伝説をもって鎮護する発想があった、ということになる。江の島も沼間も(箱根も戸隠も)成敗されずに高僧に教化され、護法の龍と化していることに注目されたい。 |
矢の根橋
そんなことで脳内がフィーバーしつつ、道行きに。写真だと見えないか。「矢の根橋」とある。なんとな? 全然話は変るが、このあたりで「矢の根」と言ったら為朝である。伊豆大島に流された鎮西八郎為朝がオノレ鎌倉めと大島から放った矢が落ち水が湧いて井戸になったという井戸が鎌倉と逗子の境にある(小坪の矢の根井戸・六角井戸)。ま、鎌倉成立期には為朝はもう死んじゃってるのだけどね。 |
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有名なのはその六角井戸だが、以前三浦半島先端の剣崎にも「矢の根井戸」があることを紹介した(左写真)。
▶「東相模行:横須賀・三浦」(最後部) なんなんだろうね、こちらの「矢の根橋」は。 |
七諏訪様2
神武寺
おわり
補遺:神武寺と行基伝説について
三浦行:逗子 2012.10.13