田方行:修善寺・湯ヶ島

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.02.23

修善寺から南の方はかつて伊東氏と近い狩野氏の狩野荘であって、今その地域名はないとはいえ、要するに狩野である。
ちなみに日本史上空前の絵師一族として君臨した狩野派の狩野一族はここから出た人たちだとなっている(初代狩野正信は伊豆狩野氏の末裔だと伝える)。
今大きく伊豆市とまとまったが、狩野川沿いの旧町区分としては北に修善寺町があり、南に天城湯ヶ島町があった。今回後半は天城湯ヶ島町域なのだけれど、湯ヶ島そのものはもっとずっと奧だ。一応、同域湯ヶ島までを湯ヶ島、そこから南を天城湯ヶ島としたい。いずれにしても狩野川を遡る行程でありまして、前回の模様は……

▶「田方行:長岡・田京

……を参照。さらに前の模様もそちらから。
今回はこの続きで大仁からとなります。

大仁神社

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そんなわけで大仁駅下車。大仁は「おおひと」。猫さん爆睡中。とび起きねいかなと思ってお茶買ったですよ(耳がビビッと動いただけだった……笑)。神社巡りのおともはイエモンティーと決めていたのだが、このため今回はコカコーラボトリングに。

そして参りますは駅からほど近い「大仁神社」さん。まだ大仁で伊豆の国市なんだけどね。ここは合祀後地名を冠したけれど、もとは山王さん。
大同年間に近江から勧請と伝えるから、古くから地域の鎮守として確たるものがあった所だろう。ちなみに宮司家はすでに狩野家である。
長岡日枝神社の方で、このあたりに旧伊豆国府があったかもしれず、周辺の山王の鎮斎はこの問題と関係するかもしれないという件があるのだが(国府を京と見立てての比叡ということ)、ここの山王さんにもその可能性があるかもしれない。

▶「田方行:長岡・田京」(長岡日枝神社)
新旧狛さんが揃う造営。社地はなんだかコロシアムのような造りになっていた。下の広場でなんぞそういう必要のある祭りでもするのかね。駐車場のようでもあったが。
手水では龍でなくて亀でなくて「鮎」が水を吐いておる。狩野川は鮎の友釣り発祥の地であるというのだ(後ろに碑がある)。天保年間の文書があり、それはあまりに有効な漁法故に規制をもとめる訴状だそうな。
鳥居脇のこれは……なんぞ?後ろは神池。うーむ。信仰上の何かのようにも見え、特にそういうわけでもないような気も……でも、何を意図したものだか分からん。
本社殿脇には別途参道があってお稲荷さんがあるが、ここはさっぱりなにもなく、きれいなものだった……というのがプチ伏線。えぇ、大仁のお稲荷さんには何もなかったのであります。

城山

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趣味全開のバー。いや、結構なんですけどね。あたしには長く歩いていると、同じ曲の一部のフレーズが延々脳内で繰り返されてしまうという困った習性があって、このおかげでこの日はずっとイマジン(笑)。
そして狩野川に出ますとズドンと聳える城山。丈山とも書き、「じょうやま」である。いやー、こうしてまじまじと見たことはなかったのだけれどでっかいねぇ。
もっとも今回は横目に見つつ、南に向うのだけれどね。丈山には「大蛇=山のヌシ=山の神」がしっかり繋がっている昔話があり(実は山の神まで直結する例は少ない)、いずれ単独で大きく扱う。
また、狩野川沿いのこれだけの奇景でありながら、この岩山を神体とする社などが見えない、という問題もある。背後の神益麻志神社のことは長岡・田京の方で指摘したが、遥拝する社があってしかるべきように思うのだが。

▶「田方行:長岡・田京」(神益麻志神社)

熊坂・熊野神社

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狩野川を渡ると伊豆市・旧修善寺町に入り、熊坂という土地になる。目指しているのは熊坂の鎮守の熊野神社。八幡・稲荷をはじめ、たくさんある神社の中で熊野神社はなぜか周辺の地名となっている例が見えなかったが、ここはそうだと伝わる所。

その「熊野神社」さん。昔は熊坂、堀切、大澤がひとつの地域で、その総鎮守であった。場所ももっと西奥にあり、御熊野(おくまの)といい、今も碑があるそうな。今回は行かないけどね。
うむ。読めん(TΔT)。手持ちの資料によると、熊野権現は寛文年間に分村に併せて現社地に遷座されたという。創建年代などは不明だが、土地の人の感覚ではここが一番古いお社である(『熊坂村史考』原久雄:私家版)。
現在の形となるまでに、八幡・木之宮・第六天・日枝・金山・山神社各社が合祀されている。現在の御祭神は「熊野大神」とあるだけなので、ここは注意が必要だ。いうまでもなく特に「木之宮」さんですな(後述)。
本社殿は急峻な崖上にあり、パッと見御本殿(覆殿)は見えない。この角度からちらりと見えるが、デカイですな。この規模の覆殿ということは御本殿そのものが相当の大きさと思われる。
鯉さんがんばっております。ちなみにこの「パッと見、御本殿覆殿が見えない」というのはプチ伏線。

龍爪神社

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境内社のうち、龍爪神社さんだけ独自の鳥居と参道を持って祀られていた。龍爪神社というのはもとは狩猟の神で、静岡市の龍爪山が本社。戦中に「弾除け」の神徳があるとされて、駿河を中心に物凄く広まった。
登ってみると、すでに御社殿は倒壊してしまったようですな。平成十六年の台風二十二号で、と碑にあるので、ごく最近のことではある。
さらに一段登った所に本社となる石祠があった。まぁ、今弾除けの神さまにお参りすることもないので、お役目を終えた神さまという所であり、そうでなくてはならない。
龍爪さんへの道。おそらく、この龍爪神社だけに単独の鳥居があり参道がつけられている理由は、お百度参りの為の設えなのだと思う。お家の為に、お国の為に死ぬのは誉れだと昼は言っても、母たちは夜になったらこういう道を幾度も登り、子どもの無事を祈ったのだ。「その記憶が薄れたから」という繰り返しはもうありえない。

木之宮

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さて、この熊野さんに「木之宮」が合祀されていると述べた。もとは熊坂の「野白」という所に鎮座されていたというが、現状どこだか分からない。いまでも神輿が渡御するというので、いずれ分かると思う。
寛文年間の熊野遷座時に合祀されたというが、木之宮には享保の棟札があり、近世中は独自に祀られていたのではないか。『増訂 豆州志稿』にも「頗る古社なり」とあり、重要な社であったことが伺われる。こちらだったりはせんかね。詳細はまだよく分からないが、キノミヤ信仰を追っている人でも、ここの木之宮をおさえている人は少なかろう(自慢)。ここから狩野川を下った沼津も「木」の宮であったことも思い起こされる。

▶「沼津行」(大朝神社の境内社)

あるいは狩野川を下る材木と関係したかもしれない。
鳥居前の石祠。こういう祠前に神像を持ってくる「オンステージ状態」は長岡でも見たね。

上之神社

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熊坂にはもう一社興味深いお社がある。「上之神社」という。上之は「かみの」ですな。なんと「祭神不詳」のまま法人化したという古ツワモノなのだ。
地図上は鈴尾神社となっているかもしれない。そう名のった時もあった。いずれにしても、古くは妙見宮であったといい、熊野さんに合祀されてしまうはずだったのだが、「とんでもねぇ」という土地の意向で生き残った。
社殿は北西向き。妙見宮というからにはかつては北向きだったかもしれない。この神は堀井を嫌い、白馬を嫌い、松を嫌うといった神で、近世まで近隣家々はこれらを避けることを厳守していたという。まぁ、合祀なんぞとんでもねぇだろう。
そういった社なので山の北麓にあるのだが、崖崩れが警戒領域に来てますな。熊坂では熊野さんの次くらいに古いお社だと認識されているが、どうにかしないと危険な感じで、実はこの写真撮ってる所もロープで封鎖されている。
その脇にはこんな樹木も。こうした根が大岩を抱えたものは子安信仰の対象となるものだが、このお社にもそういう側面があるのかもしれない。

瓜生野・熊野神社

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熊坂からまた狩野川の方へとやってまいりますと瓜生野という土地になる。「うりゅうの」ですな。ここの鎮守さんも「熊野神社」さん。
どちらかというと瓜生野という地名への興味の方が大きい感じで来たのだが(現状よく分からない)、やはり一段高くなった所にお社もあり、低地部は狩野川が氾濫したら流れる所だっただろう。

御祭神は素戔鳴命だが、ここも近世中に多くの神社を合祀している。創建年などは不詳だが、最初の合祀時は元禄年間と棟札にある。土地の鎮守さんだねぇ、という以外特に何だというのはなかったのだけれど……

ご近所の奥様が来られて、こっちゃ来いとあたしを社殿の脇に引っ張っていき、御本殿を見せて「こういう後ろにもう一つお宮があるのは珍しいでしょう」と自慢するのだ。
あたしは何のことか分からず「ほう!そうですか。それじゃあここもお写真に撮って良いですかね」とか超いいかげんに感心し(たふりをし)つつ、脳内「?」だったのだけれど、なんとなく分かるような気もする。
先の上之神社さんもそうだったが、伊豆の小規模なお社は大概一宇に皆おさまっているように見える造りになっている。そういや熊坂の熊野さんも御本殿覆殿はパッと見には見えなかったね、ということで、「後ろのもう一つお宮」は認識されていないのかもしれない。
神社巡りなんてやっていたら、拝殿があって後ろに御本殿があるのが神社、という感覚が当たり前になっているが、それが珍しいもの、という認識になることもあるのだ。

道行き

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そんな瓜生野に驚きの石碑が。「長倉伊豆郷土史研究所」!!!なんとまぁ!ここが「基地」かっ!
説明しよう!修善寺駅から修善寺橋へ行く途中に「長倉書店」という本屋さんがあるが、ここがおなじみ『増訂 豆州志稿』などの近世近代の伊豆の史料を復刻出版して下さっているのだ。『伊豆の民話』なども編纂出版してくれている。要は長倉書店なくば伊豆の郷土史家はにっちもさっちもいかなくなってしまうのである。その研究所がここなのですな。いやもう、本当にお世話になっておりますということで(実はこの日一番驚いたかもしれない……笑)。
思わぬ驚きの瓜生野を後に修善寺橋の方へと行きまして、近くの木と石仏など。狩野川の生み出す物語があり、修善寺という土地の生み出す物語があり、と話題に事欠かない地である。だがしかし「修善寺町史」とかは出なかった。なぜだっ。
ところで修善寺橋は現在絶賛お色直し中で、ベールがかかってます状態だったのだけれど、たもとでおばちゃんと話していて「やっぱ赤く塗んですかね」といったら「だってあんた、赤以外何に塗るのよ」と笑われてしまった。修善寺の橋は赤でないとイカンのだ。
橋を渡って北に戻りつつ見る大岩。狩野川は中流域にもこうした流れの中の大岩が良く残っているように見受けられる。川を下る材木の筏師が、こういう岩を見事な竿さばきで避けて、見物の人々は喝采、とかしていたのだろう。

天神社

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そして今度は狩野川東岸の牧之郷という土地の鎮守「天神社」さんへ。天保の版木には寛弘年中の創建で、菅公を祀っていたとある。
駿豆線で修善寺に向うと直前車窓から「おや、鳥居だよ」と見える目立つお社でありまして、鳥居前から見るとこんな。あたしも昔から気になっていたのだけれど、ようやく実際の参拝なのであります。
旧修善寺町域の狩野川の東側の総鎮守格のお社であり、今でも広い社地を持っている。もとは少し北の方の寺中という所にあったといい、そちらには森下、禰宜屋敷などの小地名があるという。
天満天神さんということで年季の入ったなで牛どのが両脇におられますな。土地の人の苦しみに応え続けてきたのだろう。やっぱね「段々自然石に近づいて行く」という何かがあるのだよ。
しかしここも「天満天神です」で終わるわけにはいかない。もとより多くの社を合祀しているということもあるが、主として立地の問題と「市神社」という社の問題がある。御神木の楠もただ古くより植わってるというのではあるまい。
ちなみにこの楠の裏側はこんな。後でまた出てくるが、こういうのも自然とこうなったというだけではないかもしれない。
ともかくまず立地だが、このように狩野川に古川(こがわ)という川が合流する所に構えられている。右の杜が社叢で、御社殿は狩野川に背を向けて造営されている(これは今回後編に尾を引く点)。
菅公が治水のどうこうという神格として据えられるというのは今ひとつピンと来ないのであり、これだけ川を意識した社地である以上、何らかの水神格の社としての面があるはず、あったはずだ。それはまだ未知である「狩野川の神とは何か」という問いでもある。

市明神とお稲荷さん

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そして「市神社」。そもそもこの地に祀られていたのはその市神社(市明神)であるともいうと『増訂 豆州志稿』にある。天神さん両翼には写真のような合祀社の集まる覆い屋があって、それぞれ北の小宮・南の小宮という。
その南の小宮に市明神は祀られている……のだが、なんと「伊地明神」と表記されていた。これは各資料にはまったくない表記だ。こういうのが「来て見るものだ」というやつである。
「伊」という字は伊豆そのものもそうだが、概ね神威の盛んな様を意味し、伊豆の式内の神名に良く冠されるのもままそうである。「伊地」は強勢な地主の神の社の意と読むことができよう。これは市が開かれる場所というのは土地の中でも地の勢いの盛んである場所であるべきだという感覚を良く表している。
このような場所に天神社さんは鎮座されている、ということだ。修善寺というと川向こうの修善寺温泉に続く土地ばかりが目立つが、この天神さんと牧之郷も要注目ということである。また、この「市明神」は次に参るお社の問題にも関係する。
もう一点。社地の隅には明治に合祀されたお稲荷さんのスペースもあるのだが、ここもちょっと見ておきたい。ちなみに写真右に南の小宮の鳥居が見えているが、これも後でまた出てくるのでちょっと覚えておかれたい(このときあたしはまだ気がついていないことがある)。
色とりどりの旗のようなものがあちこちに散乱しているが、これが二月初午の日に納められた四色紙の書き初め(?)であるらしい。「正一位稲荷大明神」とか「おいなりさま」とか子どもらが書いている。 西相模の方ではこのような書き初めは概ね小正月の道祖神祭(どんど焼き)に併せて書かれ、燃やされるのだが、このあたりは初午にお稲荷さんに納めるものであるようだ。

▶「神奈川県大磯町:左義長

このお稲荷さんへの四色紙の奉納はこの後しばしば出てくるが、これが大仁神社のお稲荷さんにはなかった、とそちらでいっていたのでした。

道行き

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そこから柏久保という所へ向ってるのだけれど、途中の丘上にもこんな。覆い屋の中には真っ赤な稲荷祠が三基あった。旗立の設えから見ても結構根強く行なわれている行事のようだ。ちょっともう二の午も過ぎてるのでぼろけちゃってるけどね。
後ろから。この小屋の横手には古いお墓の碑とか供養塔とかも並び、このように低地を見下ろす斜面に立地している。さらにこの手前に小屋があったが「石尊講」の額がかかっていた。土地の小さな信仰の要所であるようだ。

一之宮神社

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下ってくると(まだ高台だが)、柏久保の鎮守さんの「一之宮神社」が鎮座される。いきなり「一之宮」の名の社であり、スワナニゴトかと物議をかもしてきたお社である。以前はもっと下った柏久保でも川端の船戸という所に鎮座されていたといい、御祭神は「住吉神」であり、そのまま住吉神と号されていた。享保年間の棟札に元和の末に焼失したとの記録があり、それ以前からお社はあったのだろう。創建時期などはまったく分からない。
これが一之宮とも称していたことから明治にそう改称したのだが、これは狩野荘一宮であったからそう称していたのではないか、そうであるならば式内社の後裔であるに相違ないと考えられもした。『豆州志稿』には「必式社ナラム」とあり、増訂時に「式社ナラムト云ル諾ヒ難シ」と打ち消している。
ではなんなのかというと、先の天神社の市明神を引いて、同じ神を分け祀ったのもので、「市の宮」から来ているのだろうと『増訂 豆州志稿』では見解している。しかし、少なくとも近世以降は住吉神であったのは間違いなく、そうなると先に「伊地明神」と見たような地神的な色合いの市神とは印象が異なるといわざるを得ない。現状これ以上何とも言えないが、柏久保にはこういった問題のあるお社があるのだ。
また、今回の行程は最終盤に伊豆の古代船の話になっていくが、その点からしてもここに住吉の神が祀られていたというのは知っておいて良い。おそらく外の人からはまったく注目されていない一之宮神社さんだが、あたしは極めて注目すべきお社であると思う。
ちなみに柏久保は一般的にはお社の後背の山が伊勢新九郎(北条早雲)が狩野氏からぶんどった城の山として知られる。後北条デビューの地のような所ですな。神社へ入る道の入り口にもその碑がある(写真左隅)。

ところでもう一点。住吉と関係する、というほどではないが、オリオン座の三ツ星に関する話が近くから採取されているのでメモしておこう。これから行く南隣の加殿(かどの)の話だが、三ツ星を「三つなみさん」といって信仰していたという。三つなみさんがよく見える夜に女の人がこの星を拝むと、月のものが楽になる、といったのだそうな(『修善寺の栞』「加殿地方の昔話」編:修善寺町役場)。「みつなみ」は、伊豆諸島などで「三連(みつらなり)さま」と三ツ星を呼ぶ流れにあると思われ、本来は連なる・並ぶの意だろうが、「なみ」となっているのはおもしろい。

帳面持ちの道祖神さん

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さて、加殿へと行く前に。一之宮神社さんから通りに出ると、すぐそこに柏久保公民館の看板が見える。む、公民館といや何かあるかもね、とフラフラと寄ってみると……これは特に何もなかった。んが、今度は公民館前から少し先の方に石造物らしきものが見えた。
あらあら……とまぁ、パンくずをついばんでどこまでも行ってしまう阿呆なカラスのようではあるが(笑)、これがホームランだった。写真奥側はなんだかもう分からないことになってしまっているが、手前は伊豆型道祖神さんである。
お分かりだろうか。これは「帳面持ち」の道祖神さんに違いない。おそらくより詳しくは「横帳持ち」とされるものだ。いやー。伊豆の道祖神さんというものを知ってから二年半。ついに帳面持ちの道祖神さんとの邂逅であります。
道祖神……さいのかみさん、としましょうか。さいのかみさんは一つ目小僧から帳面を預かっているのだ。もう何度も繰り返した話ではあるけれど、記念に再度紹介しておこう。

年末になると一つ目小僧が山から降りてきて、里を見回る。一つ目小僧は悪いことをした子どもがいると外に出ている履物などにしるしをつけて、帳面にその名を書き込む。そうされた子どもは翌年一つ目小僧の親分の疫神により、疫病にかけられてしまうのだ。
ある年の暮れ、一つ目小僧は仕事をしすぎて帳面が重くなり、山に持って帰るのがおっくうになってしまった。そこで、さいのかみさんに帳面をわたし、小正月に取りにくるから預かってくれと頼む。さいのかみさんは預かったが、帳面を見て、このままでは里の子どもらが大変なことになってしまう、と悩む。
さいのかみさんは悩んだが、どうもできずに小正月の前の晩が来てしまった。そこで思いあまったさいのかみさんは、自分の小屋に火を着け、小屋諸共に帳面を焼き払い、一つ目小僧には火事にあって帳面も焼けてしまった、と謝った。里人はこのことに感謝して、小正月にどんど焼きを行なうようになった。
これが広く語られるどんど焼きの縁起譚であり(もちろん色々バリエーションはある)、その帳面が、この帳面持ちのさいのかみさんの像の帳面なのだ。あたくし感無量(笑)。
いやなんかもう帰ってもよいのじゃないかと思いつつ(笑)、渡る川は大見川といい、このすぐ下手で狩野川に合流している。渡っている橋は「あゆみ橋」とあった。それだけ見ると「歩橋」のようだが、「鮎見橋」である。また鮎ですな。

子神社

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渡るとさっきいっていた加殿となる。そこの鎮守の子神社さんへの大通りからの入り口。これも道祖神さん。文字碑だ。伊豆型道祖神さんは東伊豆では河津からぱったりなくなるが、内陸でも応じて南下するに連れてなくなっていくだろう。

そして「子神社」さん。今回この点はもう扱わないが、実はかつて修善寺周辺には子神社が物凄く多かった。合祀されたり社名が土地名に変わったりしていてパッと見分からないが、調べると多い。
それはともかく、この子神社さんも難しいお社だ。慶長年間の棟札があり、創建は分からないがそれ以前の鎮座となるだろう。大国主命を祀り、それだけだと普通の子神社である。んが、ここは式内:軽野神社の論社に名があがる社なのである。
軽野神社に関しては、概ねこの日最後に参る松ヶ瀬の軽野神社が確定社扱いであり、こちらが特に検討を要するというわけでもないのだが(「加殿:かどの」と「軽野:かるの・かろの」の音の類似による)、実はこの社地から五世紀頃の神獣鏡が出ているという問題があるのだ(伊豆市指定考古資料)。神獣鏡は下サイトの先頭参照。画像クリックで大きく見ることができる。

▶「神獣鏡」(伊豆市公式サイト:ページ先頭)

子神社というのはおそらく後北条時代に広まった神社と思われ、そうなると、子神社が建てられる以前この地は何らかの古い祭祀に連なる場所であった、という可能性がある。
しかし社地に古墳があったという痕跡はなく、周辺にも古墳は確認されていない。土地にもそこまで古い話はまったく伝わっておらず、神獣鏡の件は宙に浮いているといえよう。
また、神社の他の側面にふれておくと、加殿神楽という獅子舞も文化財指定を受けており、立派な神楽殿が併設されている。詳しくはまだ分からないが、十月十一日の例祭の夜に氏子総代によって行なわれる「おるすぎよう」という不思議な名の神事もあるそうな。緘黙を要する神事で、農村の鎮守の祭りというにはかなり厳かであることが注目される。
はてさて、この長閑な里に何があったのでしょうねぇ、という感じ。で、下の畑で作業されていた爺ちゃんがいたので、ちょっとお話を伺ってみた。ぜひ訊きたいことがさらにあったのだ。
加殿の子神社は玄松子さん(twitter)も来られていて、瓢箪(っぽいもの)と鼠の紋の幕がかかっているのを紹介されているのだが(残念ながらあたしは実見できなかった)、この由来が知りたかったのだ。

▶「子神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

んが、爺ちゃん曰く「あぁ?ひょうたん?」という感じで、そもそも瓢箪だと認識されていないかも?という感じ。「ネズミは、まぁ、描かれとるなぁ」ということでよく分からない。すぐそばに氏子総代のお家があるから訊いてみれ、というのだが、行ったらお留守だった……orz
実は瓢箪、伊豆長岡からちらちら見るのだ(左写真:長岡の稲荷の瓢箪)。何気に狸のシルエット、という線もある。いずれにしてもおそらく神社というより氏子総代の家の何かじゃないかと思うのだが、この件は持ち越しですな。

仁科神社

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加殿では、もう一社お参りした。「仁科神社」という。単立小社で、『田方神社誌』などには見ない。
ここは西伊豆町の仁科にいた人たちがやって来て土地を拓いた、その一族の守護神であり、まわり仁科さんだらけであって、社地を囲む石柱にも名が連なっている。『増訂 豆州志稿』には仁科氏の遠祖を祀るとある。仁科は堂ヶ島のある所……ていうか式内:佐波神社の鎮座される土地。
ともかくこちらは寛永十九年の札があり、石槌の折れたものを祀ってあるとあり、「石神」とも書かれている。社前に陰陽石が実にタダシク置かれていたが、概ねこのような社だったのだろう。
さらに社頭の御神木の欅のコブも子安多産信仰の社であることを伺わせる。文字通り一族の産土であろう。
ところでこの御神木の裏側がこうなのだ。これが自然にこうなるのかというと、どうなんでしょうかね。前々から特異な御神木には「そうなるように育てる技術があった」のじゃなかろうかと思っているのだけれど。
で、この鳥居。あたしはここでようやく気がついたのだけれど、これは貫が壊れちゃったのではなくて、はじめからこれで完成している形状のようだ。貫を渡すような細工跡はまったくない。
先の牧之郷天神社の両翼の小宮の鳥居も同様だった……と帰ってから写真を拡大して見て思った。今までにもあった気がするなぁ(TΔT)。貫のない鳥居は何というのかしらね。

道行き

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といったところで加殿を後に。写真の山は修善寺城山。こちらは「しろやま」。畠山氏の修善寺城のあった山ですな。写真のそこまでの間の畑の切れたあたりに狩野川が流れている。「鎌倉の闇」的な修善寺の歴史も狩野氏の本拠もあちら側だけれど、今回はそちらはスルー。狩野川の東側をさらに南へと遡っていくのであります。
ここは日向(ひなた)という土地。ホントに日なたな感じになっておる(笑)。行く道に何とも立派な覆い屋が。石造物さんたちが一列に並んでいるようだ。
その右端に道祖神さんがおった。いや、これも横帳持ちじゃないすかね。なんだ、修善寺に多いタイプなのかしら(日向はまだ旧修善寺町域)。さらに横には石棒さまも。ていうか……バナナ?
バナナバナナ……なぜにバナナなのだ。

春日神社

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日向の鎮守は「春日神社」である。天児屋根命を祀る。唐突なようだが、この南のこれからむかう雲金にも過去川沿いに春日神社が祀られていた。
狩野氏は藤原南家為憲流の有力在庁官人(代々「介」を名のった……後述)であったといい、藤原祖神を祀ったのだろう。ここ日向の春日神社の創建は不詳だが、永正再建の記録がある。
なんかこう……狛犬どののお顔が。ネットでたまに見る泣きながら隕石と対決したりクッキーモンスターにお煎餅あげたりしてる(なんだそりゃ)あのお方に似ているような……
日向春日神社は、まず第一にその立地が興味深い。社地のすぐ裏が狩野川だが、このように大岩塊に川がぶつかって誇張なしの直角に折れ曲がるという場所なのだ。写真右の大岩塊の上の杜が社叢。
これがここに祀られている意味に相違ない。今はコンクリで補強されているが、そもそもこの川を折れ曲がらせる大岩塊が信仰の中心だろう。しかし、これだけの淵があるのだ。淵そのものに伝わる伝説とかありそうなんだけどね(現状聞かない)。
また、神事では春日神社には「日の出三羽叟」なるものが奉納されるという。三番叟だろうと思うが、これが川向こうの大平(おおだいら)の大平神社の神楽と取りかえっこされたという伝があるのだが、今の所(何を言っているのか)よく分からない。
写真の川向こうの丘陵が大平山。ちょうど真ん中あたりに谷部の切れ込みが見えるが、そこに旭滝とか色々あって時間があったら渡って寄ろうと思っていたのだけれど、かなり巻き進行となっております故、また今度。

道行き

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馬頭観音さんの一群。山中に入ってきておんまさんが苦労したのじゃないかね、という土地に思えてくると、ちゃんと馬頭観音さんが増えてくる。
日向を過ぎると旧修善寺町から旧天城湯ヶ島町となり、佐野という土地になる。この石積みは多分代々畑を切り開く上でのけられてきた狩野川由来のものだろう。
で、この脇にひとつ石が立てられていて、何か刻まれている。遠目に一番上がカタカナの「カ」であるのが見えたのだ。カタカナの文字碑とは珍しいですにゃ、とか思いながら寄って見たら……
カ・ネ・ハ・イ・レ……(ノД`)

佐野神社

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えー、さて。ここ佐野の鎮守が「佐野神社」。あるいは今回最大の問題社だ。ちなみに住所的にはなぜか南隣の雲金に入ってしまう。
先に述べておくと、ここが式内:鮑玉白珠比咩命神社の論社として名のあがる「鮫明神」のことである。応永九年の修繕棟札(が一番古い)から近世間はずっと鮫大明神だった。これが一部「鰒明神」とされたようで、鰒(あわび)から鮑玉白珠比咩命神社の論社とされたわけだ。しかし、『増訂 豆州志稿』では「鮫字或作鰒ハ誤也」とにべもなく、論社であることすら紹介していない。もっとも全体的にもここを論社とするのは参考程度で、鮑玉白珠比咩命神社は沼津市木負の鮑玉白珠比咩命神社(赤碕明神・木負神社)が最有力論社である。
佐野神社さんはそのような神社なのです。と、紹介して終わりのはずだったのだ。それより特に詳しいことは分からない。んが、鳥居を潜ってあたしは固まった。「なんだ、これは」がその時のそのままの感想である。
田京の式内社広瀬神社も「下らせる」造りではあった。だがここの感覚はその比ではない。ちなみにここも現在の御祭神は事代主神……伊豆三嶋大明神である。

▶「式内:広瀬神社」(伊豆の国市田京)
うーむ、うーむ。ところでそもそも「鮫」なのはなんでかという話は諸資料沈黙している。多分伝がないか明かされていないのだろう。郷土資料が佐野をわざわざ「サノ」と書いて誤記(サノ・サメ)である可能性を暗示している程度だ。
そして、本社殿裏手がすぐ狩野川なのだが、そちらに回ってまた驚いた。また「なんだ、これは」である。この砂地は本当に本社殿真裏にある。これは意図して維持されているものに違いない。何の為に?
さらに、本社殿やや斜め前に塚というのも異様である。なんだろうな、ここは。見れば見るほど不思議な所だ。
一方ここは子安信仰の社でもあった。かつては槻の大木二本があり、上が寄り木となって一本の幹になっており、妊婦さんが潜ると安産だ、という伝えがあったという(槻の木は流されてしまった)。写真の楠(か?)も相当の古さである。
横はテニスコートになっていて、そちらから見るとこんな杜となる。式内論社として妥当かどうかはともかく、何らかの深い意味のあるお社に違いない。少なくともこれまで見た中にはこのような社はなかった。

雲金神社

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雲金山というのはこのピークでよいのかな。何にしてもひょいと見上げりゃこんな山ばかりなんで、伊豆では神奈備型とかピラミッド型とかいうのはあまり有り難みがない(笑)。ちなみに雲金はこのような山間の谷間「窪ヶ根」から来ているのではないかとされ、戦国期には窪金の表記も見える。「雲金」というとなんだか不思議な地名だが、特に何だということはなさそうだ。

その雲金の鎮守は「雲金神社」さん。だがここは至るのは地図を最大にしても難しいだろう。このような温泉施設の裏に入り口がある。右からの側溝の先に蓋が見えているが、そこが登り口。
ここはもとは諏訪神社だった。鎮座地小字は諏訪原である。川沿いの春日神社と八幡神社を合祀して地名を冠した。この諏訪神社の分布が周辺濃くなるのだが、その端緒として雲金の伝説はちょうど良い。話そのものは河童の膏薬である。
もと甲斐武田氏の軍医であった相磯守清という人が雲金に住んでいた。これが馬で川を渡る際、例によって河童に馬の脚を引かれたので、守清が河童の手を切り落とすと、あとで河童が手を返してくれとやってきて、お礼に傷薬の作り方を守清に伝えて去るのである。守清の住んだ地を小字小塚といったので、この薬は「小塚薬」と呼ばれたそうな(編:勝呂弘『伊豆の民話集』長倉書店)。
河童の話はともかく、相磯守清のように、このあたりは武田氏の残党、ないし武田に追われた諏訪の人がやって来て土地を拓いて住んだ、という伝が多い。
あわせてその人たちが諏訪大明神を持ってきて祀った、ということで周辺に諏訪神社が多いのだ(雲金のように名は変わっていることが多いが)。これがどこまで史実を反映しているのかは分からないが、場合によっては周辺の民俗を見ていく際にも注意が必要だろう。
しかしなぁ……御本殿覆殿でなく、拝殿上に千木があったのだけれど、なぜか女千木なんだよね。主祭神は建御名方命・建雷命(春日)・八幡大菩薩、なのだけれど。
なお、狩野氏の所領であったという点に関しては、社宝として古釜を蔵するという話もある。これは狩野城落城の折、一族諸共狩野川の殿淵というところに沈んだのが、釜だけ引き上げられて祀られたのだという。諏訪神社となったのは元禄のころともいい、前後関係がよく分からない。
境内社相殿として稲荷があるとあり、ここにも初午の四色紙が奉納されたようだ。土地のお稲荷さんとしての役割もあるようである。ここに至るまでに「これは稲荷だ」ということを了解していなかったら、これだけ見てもなんだか分からんね。また、雲金山には二匹の大狐のヌシがおったという話もある。
で、一応メモしておくが『田方神社誌』にはさらに「境内社 鮫明神」とある。『増訂 豆州志稿』には境内社は「稲荷山神」、『天城湯ヶ島町神社寺院誌』(町教育委員会)には境内社の記載はなし、ということでどういうことかは分からない。

道行き

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また狩野川沿いに下りてきまして、ステキな橋を渡る。日差しの関係上、これはもう渡ったあとだけどね。
しかし、あろうことかあたしはまったくこの位置で「くしゃみ」を連発し出してしまった(笑)。いや、ちょっとおっかなかったね。なぜここでくしゃみをせにゃならんのだ>オレ。
ちなみにこんな標示が……って、ことは農耕作業車は渡るのか、これ。

軽野神社

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さて、そうして狩野川を西へ渡りますと松ヶ瀬という土地になり、この日オーラスであります式内:軽野神社さんが鎮座されるのであります。ちょっと大通りからの入り口が普通の神社と違うこんな感じ……まぁ、すぐ前のバス停名が「軽野神社」なので、バスで来る分には迷いようはないが。

もう日が落ちてしまっているけれど、ここが伊豆の古代船軽野の名を今に伝える「軽野神社」であります。概ねここで確定社だとされる。
あたしはこのお社は三つの側面からなっていると思う。古代船軽野の遺称地としての面、伊豆三嶋信仰と狩野氏・狩野川水運の守護神としての面、そして地域の鎮守さんとしての面。ではまず『日本書紀』応神紀に見る伊豆の古代船・軽野のことから見ていこう。

(応神天皇五年)冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かべると、軽く浮んで早く行くことは、馳るようであった。その船を名づけて枯野(からの)という。──船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは道理に合わない。若しかすると軽野といったのを、後の人がなまったのではなかろうか。

『日本書紀』(現代語訳:宇治谷孟)より引用

これが良く知られる伊豆の古代船「軽野」造船の話だ。このための木材を切り出す際の祭祀の場所であるとも、船そのものが造られた場所であるとも伝えるのが、ここ松ヶ瀬の軽野神社である。ちなみにこの伊豆の船には後日談もある。

(応神天皇)三十一年秋八月、群卿に詔していわれるのに、「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、今は朽ちてきて用に堪えない。然し永らく官用を勤め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百籠の塩が得られた。それを普く諸国に施された。そして船を造ることになり、諸国から五百の船が献上された。……(中略)……はじめ枯野船を塩の薪にして焼いた日に、あまりものの焼け残りがあった。その燃えないのを不思議に思って献上した。天皇は怪しんで琴を造らさせた。その音はさやかで遠くまで響いた。この時天皇が歌っていわれるのに、
(意)〔枯野〕を塩焼きの材として焼き、そのあまりを琴に造って、かき鳴らすと、由良の瀬戸の海石(いくり・海中の石)に觸れて、生えているナヅの木が、潮に打たれて鳴るような、大きな音で鳴ることだ。

『日本書紀』(現代語訳:宇治谷孟)より引用

この後日談の方はあまり紹介されないが、どちらかというとこっちの方が重要だろう。伊豆の船・枯野(以下、軽野に統一する)は活躍して名残り惜しまれたのだ。さらに、伊豆の船のことは『万葉集』にも歌われている。

巻第二十(4336)「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手舟梶取る間なく恋は繁けむ」
巻第二十(4460)「堀江漕ぐ伊豆手の舟の梶つくめ音しば立ちぬ水脈速みかも」

『万葉集』より

「熊野船」とか「松浦船」とか「足柄小舟」のように製造地名が船の特徴を示していたものと思われる。伊豆の船は「伊豆手舟」として知られるものだったのだろう。今風にいえばそういうブランドがあったのだ。伊豆は木材の供出地というだけではなく、特異な造船技術を持つ土地であったのだと思われる。
ここ松ヶ瀬の軽野神社は、そういった古代船建造地の遺称地というのが第一となる。しかし、ではここは何の神を祀っているのかというと八重事代主命……伊豆三嶋大明神一柱を祀ってきたのだ(近代以降の合祀は除いて)。これが二つ目の側面となる。
おそらくほとんど知られていない話だが、ここには伊豆三嶋大神北遷中継の伝があるのだ。三嶋の大社は下田白浜から田京の広瀬神社へ、そして現三島市の三嶋大社へと遷られた、という伝の話は何度もしたが、軽野神社では白濱からここ松ヶ瀬、そして田京という北遷であったと伝えるのである(『天城湯ヶ島町神社寺院誌』/『田方神社誌』)。

▶参照「伊豆三嶋大神北遷の問題

そして、このことは軽野神社が狩野氏の守護神である「狩野の明神」であったこととも符合する。『延喜式』の式内:軽野神社は十四世紀の『伊豆國神階帳』の「正四位上 狩野の明神」であると比定される。『和名抄』にはすでに狩野郷と見えているが、この狩野氏の狩野郷の総社という役割にシフトしたのだろう。軽野神社の棟札史料としては、天文二十一年のものが最古だが、筆頭に「御地頭狩野介」とあり「狩野介の棟札」と呼ばれている(市指定文化財)。当時「介(すけ)」の名乗りを許された家は全国にも八家しかなかったというが、名家の後裔として、後北条配下となっても社は守り続けたということだろう。
実際この地が中継した(すなわち伊豆国府に匹敵する力を狩野郷が持っていた)とまでは思わないが、頼朝についた狩野氏が「鎌倉の三嶋大社」に倣って氏神を三嶋神化、土地の総社化したことは考えられるだろう。
また、狩野氏も引き続き造船業ないし用材の供出を中核事業として行なっていたことは想像に難くない。その領地にはそれを思わせる地名が散見される。この南の狩野氏の拠点のあった柿木の下手を船原という。先の大平山あたりの狩野川縁には大木橋という小地名があったのだが、これは船の用材の木を川に渡してみたらそのまま橋になってしまったほどの大木だった、という伝説が語られてきた所だ。
境内社の隣の現在の御神木の楠はこのような「若様」だが、かつては社傍に「楠田」の名称もあったという。若様は千年後に期待しよう(笑)。 ともかく「狩野氏と造船」というのはまだまだこれからの課題だが、周辺に見える痕跡をすべて応神天皇に御代の残滓とするのはまったく無理がある。伊豆の船、という点に関してはむしろこのアプローチが一番重要になるかもしれない。

第三の面としては、もちろんこのお社は周辺に住む人々の鎮守の社であったのであり、その役割を見ていくことも重要である。そもそも近世の間は「笠離明神」とか「笠卸明神」などと呼ばれていて(すでに先の狩野介の棟札にそうある)、「軽野神社」という号は明治になって復活したのである。
今日さんざん見てきたお稲荷さんの初午の四色紙の奉納もあった。むしろここでぼろけていないちゃんとした形を見ることができたのだ。そして、古ぼけている稲荷祠のたたずまいには、鎮守のお社として祀られてきたこのお社の雰囲気が残っている。「延喜式内」を観光資源などとするために社地が立派に整備されたお社は、こういった境内社のたたずまいにそうなる以前の雰囲気を見て取ることができることがままある。
また、御本殿脇には写真のような段重ねの上の丸石があって、参拝された方皆「これはなんだろう」と不思議に思ってらっしゃるが、これは安産祈願の丸石なのだ(『天城湯ヶ島町神社寺院誌』)。このあたりは式内:軽野神社の面とは何の関係もないが、地元の人にとっては安産を祈願したりお稲荷さんにお供えしたり、というのが「この場所」であったのである。
それにくわえて重要なのは、下ってもここは狩野川を行く人の社であった、ということだ。古代でなくともこの土地の木は重要な産物で、筏となって狩野川を下っていった。そういう筏師が川から遥拝する社であったことが一目瞭然である。写真は神社前は杜なので少し横からの狩野川。この光景はこれまで見た狩野川沿いの牧之郷の天神社や日向の春日神社や佐野の佐野神社が川に背面していたのと一線を画する。昔はこの社の神は魚鳥を好み、境内には魚が多く棲んでいた、ともいうから、多分狩野川までずっと社地だったのだろう。古くは鳥居も川に向いていたのじゃないだろうか。
このことを強調する点としては背後の下田街道との関係もある。もともと神社後背の岩山が信仰対象だったともいうが、その岩山の杜で遮られて街道から社はまったく見えない。
笠離・笠卸明神といったのは、ここを通る時(神の背後を通過することになる)、神さまに失礼のないように皆笠を下ろしたからだという。また、下ろした笠を松に掛けたので、松笠といい、訛って松ヶ瀬になったともいう。いずれにしても、街道を行く陸の人より川を行く人の方に向いた神であり、この土地が重視したのが何かが伺われるだろう。

大まかにこのような三つの層を持っているのが軽野神社なのである。しかし、古代の伊豆の造船・狩野氏の歴史・近世からの人々の信仰と、それぞれがそれぞれにまた周辺により細かく接続していくのだと思われ、すでにその片鱗は今回の行程にも見えていると言えるだろう。
といったところで。ちょっと時間が戻ってまだ日があたっている狩野川を最後に。一体今日はどこでスタートしたんだっけか……とよく分からなくなるほどに色々あった修善寺・湯ヶ島行でありました。勝手知ったる伊豆というと色々目にとまるものも多くて楽しくはあるのだけれど、過ぎるとその内ゼノンの矢のように話が進まなくなるのじゃないかという気もしつつ(笑)。

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田方行:修善寺・湯ヶ島 2013.02.23

惰竜抄: