田方行:修善寺・湯ヶ島
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.02.23
修善寺から南の方はかつて伊東氏と近い狩野氏の狩野荘であって、今その地域名はないとはいえ、要するに狩野である。 ちなみに日本史上空前の絵師一族として君臨した狩野派の狩野一族はここから出た人たちだとなっている(初代狩野正信は伊豆狩野氏の末裔だと伝える)。 今大きく伊豆市とまとまったが、狩野川沿いの旧町区分としては北に修善寺町があり、南に天城湯ヶ島町があった。今回後半は天城湯ヶ島町域なのだけれど、湯ヶ島そのものはもっとずっと奧だ。一応、同域湯ヶ島までを湯ヶ島、そこから南を天城湯ヶ島としたい。いずれにしても狩野川を遡る行程でありまして、前回の模様は…… ▶「田方行:長岡・田京」 ……を参照。さらに前の模様もそちらから。 今回はこの続きで大仁からとなります。 |
大仁神社
そんなわけで大仁駅下車。大仁は「おおひと」。猫さん爆睡中。とび起きねいかなと思ってお茶買ったですよ(耳がビビッと動いただけだった……笑)。神社巡りのおともはイエモンティーと決めていたのだが、このため今回はコカコーラボトリングに。 | |
そして参りますは駅からほど近い「大仁神社」さん。まだ大仁で伊豆の国市なんだけどね。ここは合祀後地名を冠したけれど、もとは山王さん。 | |
大同年間に近江から勧請と伝えるから、古くから地域の鎮守として確たるものがあった所だろう。ちなみに宮司家はすでに狩野家である。 | |
長岡日枝神社の方で、このあたりに旧伊豆国府があったかもしれず、周辺の山王の鎮斎はこの問題と関係するかもしれないという件があるのだが(国府を京と見立てての比叡ということ)、ここの山王さんにもその可能性があるかもしれない。 ▶「田方行:長岡・田京」(長岡日枝神社) |
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新旧狛さんが揃う造営。社地はなんだかコロシアムのような造りになっていた。下の広場でなんぞそういう必要のある祭りでもするのかね。駐車場のようでもあったが。 | |
手水では龍でなくて亀でなくて「鮎」が水を吐いておる。狩野川は鮎の友釣り発祥の地であるというのだ(後ろに碑がある)。天保年間の文書があり、それはあまりに有効な漁法故に規制をもとめる訴状だそうな。 | |
鳥居脇のこれは……なんぞ?後ろは神池。うーむ。信仰上の何かのようにも見え、特にそういうわけでもないような気も……でも、何を意図したものだか分からん。 | |
本社殿脇には別途参道があってお稲荷さんがあるが、ここはさっぱりなにもなく、きれいなものだった……というのがプチ伏線。えぇ、大仁のお稲荷さんには何もなかったのであります。 |
城山
趣味全開のバー。いや、結構なんですけどね。あたしには長く歩いていると、同じ曲の一部のフレーズが延々脳内で繰り返されてしまうという困った習性があって、このおかげでこの日はずっとイマジン(笑)。 | |
そして狩野川に出ますとズドンと聳える城山。丈山とも書き、「じょうやま」である。いやー、こうしてまじまじと見たことはなかったのだけれどでっかいねぇ。 | |
もっとも今回は横目に見つつ、南に向うのだけれどね。丈山には「大蛇=山のヌシ=山の神」がしっかり繋がっている昔話があり(実は山の神まで直結する例は少ない)、いずれ単独で大きく扱う。 また、狩野川沿いのこれだけの奇景でありながら、この岩山を神体とする社などが見えない、という問題もある。背後の神益麻志神社のことは長岡・田京の方で指摘したが、遥拝する社があってしかるべきように思うのだが。 ▶「田方行:長岡・田京」(神益麻志神社) |
熊坂・熊野神社
龍爪神社
木之宮
さて、この熊野さんに「木之宮」が合祀されていると述べた。もとは熊坂の「野白」という所に鎮座されていたというが、現状どこだか分からない。いまでも神輿が渡御するというので、いずれ分かると思う。 | |
寛文年間の熊野遷座時に合祀されたというが、木之宮には享保の棟札があり、近世中は独自に祀られていたのではないか。『増訂 豆州志稿』にも「頗る古社なり」とあり、重要な社であったことが伺われる。こちらだったりはせんかね。詳細はまだよく分からないが、キノミヤ信仰を追っている人でも、ここの木之宮をおさえている人は少なかろう(自慢)。ここから狩野川を下った沼津も「木」の宮であったことも思い起こされる。 ▶「沼津行」(大朝神社の境内社) あるいは狩野川を下る材木と関係したかもしれない。 |
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鳥居前の石祠。こういう祠前に神像を持ってくる「オンステージ状態」は長岡でも見たね。 |
上之神社
瓜生野・熊野神社
道行き
天神社
市明神とお稲荷さん
そして「市神社」。そもそもこの地に祀られていたのはその市神社(市明神)であるともいうと『増訂 豆州志稿』にある。天神さん両翼には写真のような合祀社の集まる覆い屋があって、それぞれ北の小宮・南の小宮という。 | |
その南の小宮に市明神は祀られている……のだが、なんと「伊地明神」と表記されていた。これは各資料にはまったくない表記だ。こういうのが「来て見るものだ」というやつである。 「伊」という字は伊豆そのものもそうだが、概ね神威の盛んな様を意味し、伊豆の式内の神名に良く冠されるのもままそうである。「伊地」は強勢な地主の神の社の意と読むことができよう。これは市が開かれる場所というのは土地の中でも地の勢いの盛んである場所であるべきだという感覚を良く表している。 |
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このような場所に天神社さんは鎮座されている、ということだ。修善寺というと川向こうの修善寺温泉に続く土地ばかりが目立つが、この天神さんと牧之郷も要注目ということである。また、この「市明神」は次に参るお社の問題にも関係する。 | |
もう一点。社地の隅には明治に合祀されたお稲荷さんのスペースもあるのだが、ここもちょっと見ておきたい。ちなみに写真右に南の小宮の鳥居が見えているが、これも後でまた出てくるのでちょっと覚えておかれたい(このときあたしはまだ気がついていないことがある)。 | |
色とりどりの旗のようなものがあちこちに散乱しているが、これが二月初午の日に納められた四色紙の書き初め(?)であるらしい。「正一位稲荷大明神」とか「おいなりさま」とか子どもらが書いている。
西相模の方ではこのような書き初めは概ね小正月の道祖神祭(どんど焼き)に併せて書かれ、燃やされるのだが、このあたりは初午にお稲荷さんに納めるものであるようだ。
▶「神奈川県大磯町:左義長」 このお稲荷さんへの四色紙の奉納はこの後しばしば出てくるが、これが大仁神社のお稲荷さんにはなかった、とそちらでいっていたのでした。 |
道行き
一之宮神社
帳面持ちの道祖神さん
子神社
渡るとさっきいっていた加殿となる。そこの鎮守の子神社さんへの大通りからの入り口。これも道祖神さん。文字碑だ。伊豆型道祖神さんは東伊豆では河津からぱったりなくなるが、内陸でも応じて南下するに連れてなくなっていくだろう。 | |
そして「子神社」さん。今回この点はもう扱わないが、実はかつて修善寺周辺には子神社が物凄く多かった。合祀されたり社名が土地名に変わったりしていてパッと見分からないが、調べると多い。 | |
それはともかく、この子神社さんも難しいお社だ。慶長年間の棟札があり、創建は分からないがそれ以前の鎮座となるだろう。大国主命を祀り、それだけだと普通の子神社である。んが、ここは式内:軽野神社の論社に名があがる社なのである。 軽野神社に関しては、概ねこの日最後に参る松ヶ瀬の軽野神社が確定社扱いであり、こちらが特に検討を要するというわけでもないのだが(「加殿:かどの」と「軽野:かるの・かろの」の音の類似による)、実はこの社地から五世紀頃の神獣鏡が出ているという問題があるのだ(伊豆市指定考古資料)。神獣鏡は下サイトの先頭参照。画像クリックで大きく見ることができる。 ▶「神獣鏡」(伊豆市公式サイト:ページ先頭) 子神社というのはおそらく後北条時代に広まった神社と思われ、そうなると、子神社が建てられる以前この地は何らかの古い祭祀に連なる場所であった、という可能性がある。 |
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しかし社地に古墳があったという痕跡はなく、周辺にも古墳は確認されていない。土地にもそこまで古い話はまったく伝わっておらず、神獣鏡の件は宙に浮いているといえよう。 | |
また、神社の他の側面にふれておくと、加殿神楽という獅子舞も文化財指定を受けており、立派な神楽殿が併設されている。詳しくはまだ分からないが、十月十一日の例祭の夜に氏子総代によって行なわれる「おるすぎよう」という不思議な名の神事もあるそうな。緘黙を要する神事で、農村の鎮守の祭りというにはかなり厳かであることが注目される。 | |
はてさて、この長閑な里に何があったのでしょうねぇ、という感じ。で、下の畑で作業されていた爺ちゃんがいたので、ちょっとお話を伺ってみた。ぜひ訊きたいことがさらにあったのだ。 加殿の子神社は玄松子さん(twitter)も来られていて、瓢箪(っぽいもの)と鼠の紋の幕がかかっているのを紹介されているのだが(残念ながらあたしは実見できなかった)、この由来が知りたかったのだ。 ▶「子神社」(webサイト「玄松子の記憶」) んが、爺ちゃん曰く「あぁ?ひょうたん?」という感じで、そもそも瓢箪だと認識されていないかも?という感じ。「ネズミは、まぁ、描かれとるなぁ」ということでよく分からない。すぐそばに氏子総代のお家があるから訊いてみれ、というのだが、行ったらお留守だった……orz |
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実は瓢箪、伊豆長岡からちらちら見るのだ(左写真:長岡の稲荷の瓢箪)。何気に狸のシルエット、という線もある。いずれにしてもおそらく神社というより氏子総代の家の何かじゃないかと思うのだが、この件は持ち越しですな。 |
仁科神社
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春日神社
道行き
佐野神社
えー、さて。ここ佐野の鎮守が「佐野神社」。あるいは今回最大の問題社だ。ちなみに住所的にはなぜか南隣の雲金に入ってしまう。 先に述べておくと、ここが式内:鮑玉白珠比咩命神社の論社として名のあがる「鮫明神」のことである。応永九年の修繕棟札(が一番古い)から近世間はずっと鮫大明神だった。これが一部「鰒明神」とされたようで、鰒(あわび)から鮑玉白珠比咩命神社の論社とされたわけだ。しかし、『増訂 豆州志稿』では「鮫字或作鰒ハ誤也」とにべもなく、論社であることすら紹介していない。もっとも全体的にもここを論社とするのは参考程度で、鮑玉白珠比咩命神社は沼津市木負の鮑玉白珠比咩命神社(赤碕明神・木負神社)が最有力論社である。 |
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佐野神社さんはそのような神社なのです。と、紹介して終わりのはずだったのだ。それより特に詳しいことは分からない。んが、鳥居を潜ってあたしは固まった。「なんだ、これは」がその時のそのままの感想である。 | |
田京の式内社広瀬神社も「下らせる」造りではあった。だがここの感覚はその比ではない。ちなみにここも現在の御祭神は事代主神……伊豆三嶋大明神である。
▶「式内:広瀬神社」(伊豆の国市田京) |
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うーむ、うーむ。ところでそもそも「鮫」なのはなんでかという話は諸資料沈黙している。多分伝がないか明かされていないのだろう。郷土資料が佐野をわざわざ「サノ」と書いて誤記(サノ・サメ)である可能性を暗示している程度だ。 | |
そして、本社殿裏手がすぐ狩野川なのだが、そちらに回ってまた驚いた。また「なんだ、これは」である。この砂地は本当に本社殿真裏にある。これは意図して維持されているものに違いない。何の為に? | |
さらに、本社殿やや斜め前に塚というのも異様である。なんだろうな、ここは。見れば見るほど不思議な所だ。 | |
一方ここは子安信仰の社でもあった。かつては槻の大木二本があり、上が寄り木となって一本の幹になっており、妊婦さんが潜ると安産だ、という伝えがあったという(槻の木は流されてしまった)。写真の楠(か?)も相当の古さである。 | |
横はテニスコートになっていて、そちらから見るとこんな杜となる。式内論社として妥当かどうかはともかく、何らかの深い意味のあるお社に違いない。少なくともこれまで見た中にはこのような社はなかった。 |
雲金神社
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軽野神社
(応神天皇五年)冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かべると、軽く浮んで早く行くことは、馳るようであった。その船を名づけて枯野(からの)という。──船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは道理に合わない。若しかすると軽野といったのを、後の人がなまったのではなかろうか。
これが良く知られる伊豆の古代船「軽野」造船の話だ。このための木材を切り出す際の祭祀の場所であるとも、船そのものが造られた場所であるとも伝えるのが、ここ松ヶ瀬の軽野神社である。ちなみにこの伊豆の船には後日談もある。 |
(応神天皇)三十一年秋八月、群卿に詔していわれるのに、「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、今は朽ちてきて用に堪えない。然し永らく官用を勤め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百籠の塩が得られた。それを普く諸国に施された。そして船を造ることになり、諸国から五百の船が献上された。……(中略)……はじめ枯野船を塩の薪にして焼いた日に、あまりものの焼け残りがあった。その燃えないのを不思議に思って献上した。天皇は怪しんで琴を造らさせた。その音はさやかで遠くまで響いた。この時天皇が歌っていわれるのに、
(意)〔枯野〕を塩焼きの材として焼き、そのあまりを琴に造って、かき鳴らすと、由良の瀬戸の海石(いくり・海中の石)に觸れて、生えているナヅの木が、潮に打たれて鳴るような、大きな音で鳴ることだ。
この後日談の方はあまり紹介されないが、どちらかというとこっちの方が重要だろう。伊豆の船・枯野(以下、軽野に統一する)は活躍して名残り惜しまれたのだ。さらに、伊豆の船のことは『万葉集』にも歌われている。 |
巻第二十(4336)「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手舟梶取る間なく恋は繁けむ」
巻第二十(4460)「堀江漕ぐ伊豆手の舟の梶つくめ音しば立ちぬ水脈速みかも」
「熊野船」とか「松浦船」とか「足柄小舟」のように製造地名が船の特徴を示していたものと思われる。伊豆の船は「伊豆手舟」として知られるものだったのだろう。今風にいえばそういうブランドがあったのだ。伊豆は木材の供出地というだけではなく、特異な造船技術を持つ土地であったのだと思われる。 ここ松ヶ瀬の軽野神社は、そういった古代船建造地の遺称地というのが第一となる。しかし、ではここは何の神を祀っているのかというと八重事代主命……伊豆三嶋大明神一柱を祀ってきたのだ(近代以降の合祀は除いて)。これが二つ目の側面となる。 |
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おそらくほとんど知られていない話だが、ここには伊豆三嶋大神北遷中継の伝があるのだ。三嶋の大社は下田白浜から田京の広瀬神社へ、そして現三島市の三嶋大社へと遷られた、という伝の話は何度もしたが、軽野神社では白濱からここ松ヶ瀬、そして田京という北遷であったと伝えるのである(『天城湯ヶ島町神社寺院誌』/『田方神社誌』)。
▶参照「伊豆三嶋大神北遷の問題」 そして、このことは軽野神社が狩野氏の守護神である「狩野の明神」であったこととも符合する。『延喜式』の式内:軽野神社は十四世紀の『伊豆國神階帳』の「正四位上 狩野の明神」であると比定される。『和名抄』にはすでに狩野郷と見えているが、この狩野氏の狩野郷の総社という役割にシフトしたのだろう。軽野神社の棟札史料としては、天文二十一年のものが最古だが、筆頭に「御地頭狩野介」とあり「狩野介の棟札」と呼ばれている(市指定文化財)。当時「介(すけ)」の名乗りを許された家は全国にも八家しかなかったというが、名家の後裔として、後北条配下となっても社は守り続けたということだろう。 実際この地が中継した(すなわち伊豆国府に匹敵する力を狩野郷が持っていた)とまでは思わないが、頼朝についた狩野氏が「鎌倉の三嶋大社」に倣って氏神を三嶋神化、土地の総社化したことは考えられるだろう。 また、狩野氏も引き続き造船業ないし用材の供出を中核事業として行なっていたことは想像に難くない。その領地にはそれを思わせる地名が散見される。この南の狩野氏の拠点のあった柿木の下手を船原という。先の大平山あたりの狩野川縁には大木橋という小地名があったのだが、これは船の用材の木を川に渡してみたらそのまま橋になってしまったほどの大木だった、という伝説が語られてきた所だ。 |
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境内社の隣の現在の御神木の楠はこのような「若様」だが、かつては社傍に「楠田」の名称もあったという。若様は千年後に期待しよう(笑)。
ともかく「狩野氏と造船」というのはまだまだこれからの課題だが、周辺に見える痕跡をすべて応神天皇に御代の残滓とするのはまったく無理がある。伊豆の船、という点に関してはむしろこのアプローチが一番重要になるかもしれない。
第三の面としては、もちろんこのお社は周辺に住む人々の鎮守の社であったのであり、その役割を見ていくことも重要である。そもそも近世の間は「笠離明神」とか「笠卸明神」などと呼ばれていて(すでに先の狩野介の棟札にそうある)、「軽野神社」という号は明治になって復活したのである。 |
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今日さんざん見てきたお稲荷さんの初午の四色紙の奉納もあった。むしろここでぼろけていないちゃんとした形を見ることができたのだ。そして、古ぼけている稲荷祠のたたずまいには、鎮守のお社として祀られてきたこのお社の雰囲気が残っている。「延喜式内」を観光資源などとするために社地が立派に整備されたお社は、こういった境内社のたたずまいにそうなる以前の雰囲気を見て取ることができることがままある。 | |
また、御本殿脇には写真のような段重ねの上の丸石があって、参拝された方皆「これはなんだろう」と不思議に思ってらっしゃるが、これは安産祈願の丸石なのだ(『天城湯ヶ島町神社寺院誌』)。このあたりは式内:軽野神社の面とは何の関係もないが、地元の人にとっては安産を祈願したりお稲荷さんにお供えしたり、というのが「この場所」であったのである。 | |
それにくわえて重要なのは、下ってもここは狩野川を行く人の社であった、ということだ。古代でなくともこの土地の木は重要な産物で、筏となって狩野川を下っていった。そういう筏師が川から遥拝する社であったことが一目瞭然である。写真は神社前は杜なので少し横からの狩野川。この光景はこれまで見た狩野川沿いの牧之郷の天神社や日向の春日神社や佐野の佐野神社が川に背面していたのと一線を画する。昔はこの社の神は魚鳥を好み、境内には魚が多く棲んでいた、ともいうから、多分狩野川までずっと社地だったのだろう。古くは鳥居も川に向いていたのじゃないだろうか。 | |
このことを強調する点としては背後の下田街道との関係もある。もともと神社後背の岩山が信仰対象だったともいうが、その岩山の杜で遮られて街道から社はまったく見えない。 笠離・笠卸明神といったのは、ここを通る時(神の背後を通過することになる)、神さまに失礼のないように皆笠を下ろしたからだという。また、下ろした笠を松に掛けたので、松笠といい、訛って松ヶ瀬になったともいう。いずれにしても、街道を行く陸の人より川を行く人の方に向いた神であり、この土地が重視したのが何かが伺われるだろう。 大まかにこのような三つの層を持っているのが軽野神社なのである。しかし、古代の伊豆の造船・狩野氏の歴史・近世からの人々の信仰と、それぞれがそれぞれにまた周辺により細かく接続していくのだと思われ、すでにその片鱗は今回の行程にも見えていると言えるだろう。 |
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といったところで。ちょっと時間が戻ってまだ日があたっている狩野川を最後に。一体今日はどこでスタートしたんだっけか……とよく分からなくなるほどに色々あった修善寺・湯ヶ島行でありました。勝手知ったる伊豆というと色々目にとまるものも多くて楽しくはあるのだけれど、過ぎるとその内ゼノンの矢のように話が進まなくなるのじゃないかという気もしつつ(笑)。 |
田方行:修善寺・湯ヶ島 2013.02.23