都留行・都留

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.06.30

今回は山梨県都留市ですな。甲州街道を大月で分かれ、河口湖の方へ向かう土地。大月から富士急に乗りまして、禾生(かせい)という所で下車。もう山また山であります。そして駅から北東へ少し行くと、都留市を流れる川が合流する所がある。この合流地点に神社があるので、まずはそこの様子を見に。
ご覧のような所であります。桂川・菅野川・朝日川が一同にまとまるのですね(以下桂川)。
もう一度合流地点の写真を載せちゃおう。この木がねぇ。実に「踏ん張って」いるのですよ。最初にここに来たのは当りだった。色々な意味で土地の水に対する感覚、樹木に対する感覚等が象徴されている所のように思う。
菅野・朝日川の方はすぐ上流にこんなステキな古橋梁がある。この上は用水が流れているのだ。
さらに中段にも用水が流れており、川と二つの用水の流れと二重の水の立体交差になっているのである。都留とはとりもなおさず「水の郷」なのだと実感。

この合流部に鎮座されているのがこの「天神社」さんなのですな。通称落合天神社。なるほど川の合流部に関しては「落合」の名が目印になるのかね、という感じである。
今はぶっちゃけトタン小屋、という感じの小さなお宮だが、近世のこの地の殿様鳥居氏が勝山城の鬼門除けとして祀ったというお社で、「当時この社が相当に広大であった云々」と『都留市社記』には二回も書かれている。
それは社地のだだっ広さにも現われているのかもしれない。ところでここ天神社は菅公ではなく少彦名命を御祭神としている。それが何を意味するのかは今の所まったく分からないが。
ともかく川の合流部の鋭角となる地の神祀りに関して、ここは一例でありましょう。特に「落合」の名が目印になる、ということを示してくれた所でもありました。

禾生駅の方へ戻ってほど近い井倉という所の「生出神社」へ。ここから生出(おいで)神社が三社あるのだけれど、今回の主眼目なのであります。
何が生出になるのかと言うと白蛇が生出になる(笑)。ここ井倉生出神社の社頭掲示を引いておこう。

神社の南方に生出山があり、頂上に滾々と湧き出る水を湛えた、小さな池があった。白蛇が棲み、時折里に姿を現わした。里人は恐れ慎み、山頂に御祠を奉建して、諏訪明神と称え奉る。建御名方命、八坂刀売命を奉斎したところ白蛇は現われなくなった。延長七年(九二九年)七月現在地に社殿を造営し、生出大明神として、奉遷したといわれている。

生出神社社頭掲示より引用

『都留市社記』四日市生出神社(後述)記事には山頂に出現したのは龍形の光を放つ岩だったともある。ということで実質諏訪神社なのだが、この延長七年の里への遷座は三社への分裂遷座でもあり、「鼎の脚のように」生出山を囲み三方に祀った、とされるのが興味深い。 図にすると左のようになる。法能の生出神社が少し離れているきらいがあるが(再遷座かもしれない・後述)、このように生出山を三方で結界するように構えられた生出神社三社なのだ。
その一社目となる井倉の生出神社なのですな。一見してお寺のような作り。このすぐ後背から生出山へ登る急峻な斜面がはじまっている。
そして本社殿裏に用水が巡らされている。先に「結界するように」と言ったが、この裏の用水を見てそう思った。
ステキ境内社さん。かつて十社の境内社を数えた、という所で(今はこの祠と立派な天神社のみ)、この祠が何にあたるのかは分からない。丸石、とまではいかないが、滑らかなまるっこい石がいくつも奉納されていた。
多分境内入口の階段脇の写真の石も丸石ということなのだろう。甲信地方に来ましたねぇ、という感じで良いだろうか。
社頭の石造物さんたち。反対側には庚申塔もあったが、この辺りはもう多勢が馬頭観音さんである。写真も皆馬頭観音さん。山中の土地ですなぁ。
いずれにしても山頂にあった社をその神体山を囲むように三分して遷座した神祀りの話というのも中々ないだろう。生出山を巡る話には蛇神の話としてだけではなく、そのような特異さがある。
道行きを例によって国道を外れてぐねぐね行っていると地図にもない熊野さんがあった。その社頭に道祖神さん。この後で分かって来るが、このような四角柱がこの土地の道祖神さんのスタンダードのようだ。
また、石像物のある所とゴミの集配所が高確率で一致している。境の神は昔から壊れたもの等をおさめる場だったものだが、その頃の様子を伝えているのかもしれない。しかしこれはデカイ何かだね。「ナントカ万霊」で上部が折れているようだが。

そして四日市場の「生出神社」へ。注連柱ですなぁ。完全版は関東周辺の神社では初見かもしらん。今回その話をするのはまだ早いが、都留の土地を見ていく上で、中世に活躍した小山田氏がこの地で東西の文物の流通を仲介して栄えていた、という点が重要となる。都留・大月は甲斐(信濃)・駿河方面と武蔵・相模方面との交流の交差路となる所。注連柱の出現は象徴的かもしれない。
四日市場の生出神社は国道(街道)に面しており、三社中では一番立派な生出神社である。また朱塗りの両部鳥居だわね。これが鳥居だ、という土地の感覚かもしれない。
ここは御本殿の彫刻がスバラシイ。というか凄まじい、見よこの細かな細工を。イマイチよく分からなかったが、獅子は子が三才になると千尋の谷へ突き落とし……のお話で構成されているそうな。
本殿裏はすぐ崖になっており、下を菅野川が流れている。で、対岸からすぐに生出山の急峻な斜面がはじまっている。つまり、ここは用水を巡らせるまでもなく、天然の結界となっている、ということだろう。
本日の木漏れ日パート。ここも五社あった境内社のうちの何かが二社(社頭に天神社が別に)今残っているという感じで、何かは分からない。
五社あった頃の名残りがある。今回は出てこないが養蚕絹織りがそのうちクローズアップされる土地でもあり、ここも境内社に蚕影神社があった、という記録が目をひく。
社頭の天神さん(ここは天満宮)と道祖神さん。やはり道祖神さんは四角柱なのだ。
行く道に小さなお宮さん。「市神大神」とあった。四日市場の市神さんなのかもしれない。小さなお宮も木陰に入るようにどこも作られている。このあたりも「それが当然」という土地の感覚かもしれない。
さて、ところで生出山なのだけれど、山頂に白蛇の湧き水の池とか言うんだったらまずそこ行けよ、という話なのだが、そうもいかんのだ。航空写真で見るとよく分かるが(左マップ参照)、実はご覧の有様なお山なのであります。
生出山山頂からは珍しい山頂遺跡である縄文早期の住居跡が発見されたりもしていたのだが、「採石によってかっての姿が偲ぶべくもなくかわってしまった」のだそうな(都留市立図書館サイト)。

そして三社目、法能の「生出神社」であります。しかしこれが何かの修繕作業中。少し前の台風直撃の余波のようであります。ここはお邪魔にならぬようにささっと。
この法能の生出神社は生出山伝説とはまた別に大変な伝説のある所でもある。小字を宮原と言うのだけれど、なんと南朝の長慶天皇が重臣を従えてこの地に行啓し、仮住まいとされたと土地では信じられているのだ。
今回はそちらはさて置くが、生出山伝説の方としては先の二社と違って真後ろに生出山を捉えていない、という違いがある。写真左奥に見えるのが生出山。
これまでの神社→川→生出山というあからさまな構成と違う。資料等にはその伝はないのだが、生出神社としては遷座されているのではないかと思える。今、玉川という土地が少し下流部にあるが、そこの自動車教習所のあるあたりが非常に怪しい。ちょっとこの件は覚えておきたい。
ともかくこうして生出山をめぐる生出神社三社のお参りは完了であります。神山の三方を祀るというのがどういうことなのか現状ノーアイデアだが、ひとまず端緒に着いたとは言えましょう。
戻る道すがらにこんな。先ほどの「ナントカ万霊」は「三界万霊」であったようだ。これは全国にあるものだけれど、要は祖霊信仰の塔ですな。てか、さっきのはさらに二、三文字入るとなるとスゴイでかかったのだね。
馬頭観音さん一色。ものスゴイ像も一見青面金剛さんのようだが馬頭観音さん。馬の首の冠が見える。この日はどこもかしこも馬頭観音さんでありました。お供えされているのは人参のようだった。馬だから?
ところで背面に。先代の像ということなんかね。それとも何か理由があるのかね。
富士急方面へ戻ってきまして、国道沿いにまた四角柱の道祖神さん……と思いきや「街祖神」さんだそうな。はー、少ないながらそういうものがあるらしい。造作と祀り方を見るにこの地の道祖神祀りに同様しているが、いろんなものがありますな。

都留市の中心へと入ってきまして下谷という所に「桂川神社」というちょっと変わった神社がある。
桂川そのものは800mくらい西だし、この神社はすぐ南の谷村水力発電所の守護として勧請されたもので古くもないのだが、土地を見ていく上でのいくつかの重要なモチーフが交錯しているのだ。
まー、法人社じゃないので資料もあまりなく、結構境内の由緒書きに期待しておったのだが……読めませんねい(TT)。だがしかし。木花咲耶姫命が御祭神であるというのは読める。これだけでも結構収穫だ。
このあたり、かつて田原郷であった桂川沿いに、「田原神社」というお社が数社鎮座されているのだけれど(後で一社参ります)、これが木花咲耶姫命を祀る水神的なお社であるようなのだ(あるいは水に負けないような土地をという地神的な?)。その予備知識と照らすと、ここ桂川神社は田原神社と同系の神社なのだろうと想像される。
また、変わっていると言ったのは社地のことで、このように用水の上に社地があるのだ(地図でもよく分かる)。神社の下(地下)を川が流れているのですな。
都留は桂川から用水を存分に引いた水の郷、水の都なんだろう、とこの日初っ端に思ったが(実際そう言うそうな)、この桂川神社はそのような土地の様子を良く反映して造営された近年の神社と言えるだろう。風水とかで見て川の上に神社があるってのがどうなのかは知らんが(笑)。
そこからこの日二つ目の「竜蛇譚」の探索へと入るのであります。まずはその伝説の方を紹介しておこう。

1. 弁天さんを祀っていたけれど、稲本和己さんの隣のうちで白い蛇が出て女衆がおっかながって困る。その家の3代前のおじいさんが尋ねると、弁天さんが七面さんになりたいのだというので、組の者が講中になって、七面講をしようということになった。それで、その七面さんの下に穴があってそこに白い蛇がいるという。七面さんに祀ってやったら、座敷やお勝手に出てこなくなった。

2. 七面様は身延山の七面山の関連で祀っているが、もとは弁天様だったともいう。カイコの神、火事などの厄災を除く神といわれている。白い蛇がでてきて困るので、明治2年に蛇の神様を祀ったという。

怪異・妖怪伝承データベースの要約を引用

「弁天さんが七面さんになりたいのだというので」という表現の出て来る大変に興味深い話だ。カイコの神、となっている所もいずれ重要となる。先に言っておくと、この伝説の土地は今回の都留市の中心街道沿いではなく、中央自動車道の西側の平栗・加畑・金井といった方面に伝わったものである。
しかし、これに限らず都留市域には弁天さんが沢山祀られており、また屋敷神とする例も多いようなのだ。そして、これは中世に一帯をおさめていた小山田氏が弁天を守護神としていたことによるというのである。しかも、これは鎌倉北条氏の影響下でそうなったようで、要は相州江の島弁天であるのだ。
細かく話すと長くなるので端折るが、七面天女は日蓮の前に出現したのだが、江の島弁天の鎮めた対岸の龍口山は日蓮・龍ノ口法難の地であり、実は七面様も祀られている。このような鎌倉弁天と日蓮の七面天女を繋ぐ話の一環として、都留の弁天たちは全面的に見ていかねばならないと思うのである。
ということで富士急都留市駅からほど近くには、かつて「弁天町」があった。今は公的な住所としては使われないのだが、自治会館にその名が残っている。

で、おるんですねぇ、弁天さんが。地図にも見なかったが、来てみるものである。かつては弁天町だった、という石碑もあり、この弁天さんがその名の由来であるのは間違いなかろう。
が、弁天町自体そう古い地名ではない。『甲斐国志』には見ない。この弁天さんの裏に用水が流れており、これが流れて先の桂川神社になるのだけれど、このように用水の整備された近世後期に出来た地名だろう。
つまり、中世小山田氏の弁天信仰は近世後期の用水の発展にあわせて再編成されているのだろうということだ。このような次第を踏まえて都留の弁天信仰は見てゆかねばならない。
祠奥にはよく分からないが色々石造物が。このへんは街道沿い的なものだったかもしれない。
そこから市役所の方へ向かう途中はもう寺社てんこ盛り地帯なのだけれど、そこに東漸寺という日蓮宗のお寺があり、後背の山に七面様を祀っているという。橘紋だ。んが、なんだか盛大に工事中でしてオジャマする訳にもイカンかったですなぁ。
先の伝説の平栗の方と言えば輪をかけた山中で(いずれ行くが)、七面講が組織されたというのなら、その背後にはこの都留の中心あたりの弁天−七面様を祀る大きな寺社勢力が活躍していたのじゃないかと思うのですよ。ちなみに東漸寺は元は真言宗の寺で、北条重時の子、北条時政の曾孫による開山と伝える。
というわけで、とりあえずやはり都留の弁天伝説は中心部から見ていくべきだ、という感触を得つつ、東漸寺に隣接する御嶽神社さんへも参りまする。なぜかやたら立派な鳥居が市街の端に。まだ先なんだけどね。

「御嶽神社」さん自体はそう大きな神社という訳でもないのだけれど、何だろうあの鳥居は。狛犬さんは新しいものだけれど、古い造作を模したタイプ。
都留は御嶽さんも多くまた面白く、丹沢の南の秦野の方のように日本武尊を祀ったりは全くしないで、大まかには大己貴命・少彦名命を祀る。蔵王権現の後裔としては正統派である。
んが、ここ下谷の御嶽神社は御祭神が「豊玉姫命・須佐之男命・少彦名命」なのだ。なんでかねぇ。しかも筆頭に豊玉姫命とあるのは主祭神だということだろうか。謎である。

謎と言えば次に参った「大神社」も謎である。「おお神社」なんだろうなぁ。『甲斐国志』には「太神宮社」とある。
天照皇大神・須佐之男命・建御名方命を祀り、実質は神明社なのだろう。「大(太)神宮」から「大神社」になるものか。拝殿に千木があり、これは男千木である。
御本殿は神明造で女千木ですな。合祀の経緯等はよく分からない。かつて「御伊勢山上にあり……」とどこか近くに御伊勢山があるらしい(後背の山か)。そうなるとやはり神明さんなのだろうか。いずれにしても古くから行政・商業の中心はこのあたりであり、その鎮守的な位置ではあるので良く考えねばならん。また、「太」を用いる例が『甲斐国志』にちらほら見えるような気もしている。まだ何とも言えないけれど。
市の消防署のあたりに行くと、こんな建物があって、中に巨大な「屋台」がおさまっている。都留市の大祭り「八朔祭」で活躍するのだ。実は主宰社は先に紹介した四日市場の生出神社なので、てっきり屋台もそちらの方にあるのかと思っていたら何も見えなかったので「?」だったのだけれど、市街の方にまとまってあるのでしたな。
ちなみにこのうち新町の屋台の飾りは鹿嶋の事触れを描いたもので、「鹿島踊」と呼ばれている(下絵は伝・北斎だそうな……ガラスで見えんが)。伊豆の鹿島踊りの話を中断しての都留行で妙な縁がありますな(笑)。
市街から富士急谷村町駅をこえて桂川を渡る。渡り口に中々すごい雰囲気のお地蔵さんが。橋の工事で事故でもあったのか。水難を弔うものか。
桂川。行周辺山ばかりで、ちょっと雨降るとみんな水がここに集まってきてしょっちゅうごうごう流れてんだろうね、という気がする。この写真右の崖上が目指している八幡さん。
んが、戻って谷村町駅前の案内を見て下さいよ。駅前観光案内なのに、鳥居マークはあれど道が描かれていない(笑)。
橋を渡って暫し登る。写真左下奥が橋。この右の細道が八幡への道(一番右は民家の庭へ)。分かりにくいのでよくよく地図を見ていかないといけない。
でもその入り口にはこうして馬頭観音さんやら道祖神さんやらが。こうあると「お、道あってるな」と分かる。
ここは四角柱ではない道祖神さんだったのだけれど、それにしてもなんだか艶かしいですなぁ。

その「勝山八幡神社」。元は北の城山・勝山城の地そのものにあり、中世の領主小山田氏の勧請した守護神だった。
小山田氏が滅亡し、文禄あたりに浅野氏が土地を治め、勝山城を整備した際に現社地に遷されたと伝わる……のだけれど、これがまた台風直撃の修繕中でありまして、おっちゃんたちが境内で休憩しておった。
おそらくは作業中の合間の休憩というよりも、休憩の合間に作業をしているというノリであったに相違ない(笑)。で、これまたお邪魔にならぬようにとそそくさとお参りしてちょっと写真を撮ろうとしますと「なんだよ、ここ本に載るのけぇ」とおっちゃんが。なんでいきなりそんな大それた話になるのだ。いやいやそんな大袈裟なものでは、と言っても許してくれず(?)、「後ろは見たけぇ、あの小さいけど、なんだ、〝御本堂〟をよぉ」ということで御本堂はねいだろうと思うのだけれど例によって引きずられて撮影していくあたし(笑)。
ていうか、拝殿と本殿のあいだに巨大な杉の御神木で御本殿見えませんやん、と思うと、反対から潜り込めと容赦ないおっちゃんたち。
で、「めずらしいだろう」と言うのだけれど……どこがかワカラン。神社メグラーの名折れであるのか、とちょっと悔しく思いつつも、大きくて立派ですねぇ、と無難なことを言っていると、どうも覆い屋根のことを言っているらしい。
「銅の屋根が持って行かれちまってよぉ」ということで(盗難か?)昔は普通の覆殿だったようだ。それでこういった覆い屋根になったと。神社の現代史というのも色々あるものである。しかし地元の人が土地の鎮守さんのどこを自慢して来るのかというのは中々予想が出来ない(笑)。
八幡神社を後にしますともう三時も過ぎていまして、空も曇ってきましたねぇ、ということで、谷村町駅に戻ってから富士急に乗り、ちょっとスキップしまして二駅先の十日市場へ。どのみちここだけスキップしてあたるつもりだったのだけれど。

ここに「小篠神社」が鎮座される。この日第三弾の蛇伝承の土地だ。今回はもう行かないが、さらにもう一駅先の東桂に宝鏡寺という曹洞宗のお寺があり、この開山伝説に連なるお社である。
宝鏡寺開山の名僧・鷄岳永金禅師の前に一匹の大蛇が現われ、禅師めがけて襲い掛かった。この時禅師が静かに座して一心に法華経を念誦されたところ、大蛇は禅師の神通力に忽ち降伏し、寺の守護となることを誓い姿を消したと言う(『都留市社記』)。
その宝鏡寺に八大龍王を祀り小篠神社と言い、さらに十日市場の方にも同名で奉祀したということなんですな(十日市場は「三大龍王」と言ったそうな)。今主祭神は建御名方命なのだけれど、元はこういった伝説のお社なのであります。
で、この鷄岳永金禅師なるお方がナニモノであるのかと言うと、これがまた北条重時の九男ってなことなんですねぇ(北条時政の曾孫になる)。先の東漸寺とはまた別の北条重時の子となるのかちょっとよく分からないのだけれど、ともかくどうも因縁のありそうな話である。
本社殿の真後ろには実に実にアヤシゲなもう一棟のお宮があった。いや、資料上は十日市場の古い家の氏神たちを合祀したお社ということになっとるのだけれど、こんな造営をするものかね。表が諏訪神社でこちら地主の蛇神とかでは。
境内の不思議手水石。五角形ねぇ。こういうのは石工の人が「ちょっと試しに」やってみただけなのか、何か意味があるのかワカンナイですね。
石段をのぼって境内に入る両脇にはこんなものも。普通石燈籠のポジションですな。石燈籠なのか。上物が十字のスリットで組み合わされるものなのか(後で判明します)。
鳥居脇の道祖神さんも面白い。もう四角柱全開なのだけれど、自然石を台座とする場合はこんな風に四角く穴を穿って立てるのですな。もう一方の小さい四角には何が立っておったのだろうか。
道祖神さん以外に四角柱なのは見ないけどね。また、これまでも注連縄を一重に巻いてあるものを見て来たが、ここは二重に巻かれている。割と縄グルグル巻き的な祀り方をする土地だったのかもしれない。
で、この十日市場には桂川が中々の瀑布を形成しているのだと聞いてやって来たのでもある。写真の田原の滝ですな。こんな滝があろうものなら大蛇伝説も生まれようってなもの。んが、結構人工的に整形してあるのね、と思いつつ良く見てびっくり。
整形どころか、これはどうも柱状節理の岩肌を「模した」人工の護岸壁であるらしい。なんとなぁ。本来は二段くらいの滝だったそうで、自然状態なのは最奧部くらいのようだ。
なんとも手の込んだことを……と驚きつつ、近くの休憩所のような所でまたびっくり(笑)。芭蕉さんが……ベンチの流れから行くとベンチに座っておるようだ。今にもよいしょと立ち上がりそうな。松尾芭蕉は三十九歳のとき、大火事で江戸を焼けだされて、しばらく弟子であった高山傳右衛門をたよって、先の谷村町あたりに住んでいたのですな。そういう縁で芭蕉さんが座っておる訳です。てか、この座り具合は狙ってるよなぁ(笑)。

その滝の公園に隣接して「田原神社」が鎮座されている。このお社の背後に滝を望むような方向。何にせよ滝の神社に相違あるまい。
で、ここが木花咲耶姫を祀るのですな。旧田原郷ではこのように木花咲耶姫を桂川の神格として祀るのであります。社殿にはお人形等を奉納しないように、と貼り紙がある。ということは奉納されていたのだろう。子安の神としての一般的な木花咲耶姫の社の役割もあったようだ。また、ここの石燈籠が先の小篠神社と同型なので先の謎が判明しましたな。やはり石灯籠の柱部だったようだ。
そんな感じの都留行であったのだけれど、最後にまた道祖神さん。このように新しいものも四角柱を踏襲していくようですな。また、やはりこのように土地の境、昔からのゴミ捨て場と重なる例が多い。
そして、この日はじめから家々の玄関に写真のような三角のお飾りが吊るされているのを見て来て「なんだ、これはっ!」と思っていたのだけれど、このお家の爺ちゃんにお話を聞くことが出来た。
「ははは、みんな聞いていきよるんだけどな」ということだそうだが、これはサイノカミさんのお供えであるそうな。爺ちゃんは特に「名前」は認識しておらず、ただ、サイノカミさんのお供え、と言っていた。道祖神祭の時にこのお飾りを沢山サイノカミにお供えして、祭の後家々でもって帰って吊るして魔除けとするのだ、そうな。帰ってきて調べてみると、甲信地方、特にこの南都留地方で良く見られ、ここから忍野村の方まで同じような具合である。
とりあえず地域独特なものに初訪問で反応したのはナイスオレ様と言えるだろう(笑)。色々な報告では「ひいち」という名だとされている。「火打」のことだと解説しているものもある。どのみち都留行はいずれ河口湖・山中湖の方へと向かうので、そのあたりのことを訊ける機会も来るかもしれない。
しかしまぁ、事前情報だけでも北条だ弁天だ蛇だなんだと盛りだくさんなのは分かっていた都留地方だけれど、実際の見聞でさらに厚みを増す面白い土地だということになったでしょうかしら。文物の交差点だから、と目を付けたのだから当然と言えばそうなのだけれど、これまでの経験の試される土地であるとも言えるでしょう。

補遺:

例の四日市場生出神社の注連柱だけれど、この地方の注連柱、深いかもしれない。第一法規の『日本の民俗19 山梨』の日待ち講の稿に、二本の角柱を立て注連縄を渡した「オテントウサマを拝む場所」が紹介されている。富士吉田市上吉田・南都留郡道志村に柱を立てる例があると紹介されており、道志村のものは不鮮明ながら写真も掲載されている。富士吉田の方は富士講の先達の指導によるとあるのでいたずらに古いとは言えないが、注連柱様の門柱が祭祀の主体となる民俗があったのは間違いない。
石造物の場所が今のゴミ収集場所になっている、という傾向を指摘し、これは古くからそうなのだと言ったが、ゴミ捨て場と言うとなんだが、要は里人と山の人の無人交換の場ということだ。で、実際記憶にある位最近までそういった交換があったようだ。山の人が「曲げ物・神鉢・折敷・下駄の素材」などを荷にして相手の名を書いて置いておき、里の方から来た人が「米殻など」と取りかえていったという。「山の人の方が割高になって損をした」との発言が記録されるほど近くまでそうだったようだ(南巨摩郡・北都留郡)。
四日市場の市神大神はやはり「市(いち)の神さま」だった。十日市場の方にもあって、これが既に小篠神社に合祀されていることは知っていたが、この十日市場の市神さんの方は「オバアガミサン」でもあり、子どもの百日咳を治したという。市神が婆神であるのですな。しかし、おしゃもじさんではなく、「茶の葉を紙に包んで」奉納したという。相模川を最後まで下って神奈川県藤沢市では婆神さまがおしゃもじさまとなっているのだが、どこかで交差するのだろう。
勝山の道祖神さんを「艶かしい」と言ったが、的外れでもなかったかもしれない。この地は女人講が盛んで、婆さまの下トークが炸裂するなかなかあからさまなものだったそうな(笑)。

都留行・都留 2012.06.30

惰竜抄: