田方行・函南

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.05.19

この日は伊豆半島の付け根に当たる函南(かんなみ)町へ。函南はJR東海道本線の函南駅のある丹那盆地の方と、狩野川周辺の田方盆地の二地域が主に開けているけれど、今回は狩野川の方へ。
伊豆狩野川。写真の先は南で、上流になる。太平洋に流れ込む大河川でほぼ唯一の北流する川だ。てかいきなりアヤシの淵が……人工的なんかな。なんか出ないかとしばし凝視(笑)。
暑くもなく良い陽気でしたねぇ。奥に山並みが見えるが、特に東側はこのような均一の高さの山並みに遮られているので「ザ・盆地」という感じが強い。子どもの頃はじめてこのあたりに来たとき「壁の中」的な印象は強かった。
いきなり行く道に「ゐぼみづ」とな。「疣水」であるが……洗うと疣のとれる水というのは全国津々浦々枚挙に暇なくあるはずだが、なぜか「静岡・福島・岐阜」の三個所にだけあるものなのだと書かれている。
その三ヵ所を結ぶ同系の伝説でもあるのかしらね。鉱泉なのか……しかし、初っ端からシュールだねこりゃ(笑)。
そして道端に道祖神さん。久々の伊豆行で、ちゃんと再度の開幕に待ち構えられるのである。故に「忘れとらんかったのか」と言われた気がするわけで、えぇ、とんだご無沙汰でして、えぇ、えぇ。
これはこの土地の人でないとお地蔵さんにしか見えないと思うけれど、伊豆(主には東伊豆)ではこれが道祖神さんなのだ(「伊豆の道祖神」参照)。
てくてくと「日守」の里へ。あたしはまったくこの土地を知らなかった。今回函南の神社巡り用の神社マップを作っていて気がついたのだ。実に驚くべきことにこの地は盆地の西南西の隅に位置する。 このことは追々話すが、要するにこれから巡るあたりに暮らす人々はこの日守の背後の山々に、冬至の日の入りを見て来ていたということだ。これがどういう話と繋がるのか。
全国に朝日・夕日長者、ないし日招き長者という伝説がある。その長者は「日が沈むのを遅らせることができる」力があったので、他より作物を豊作にすることができた、という話だ。
おそらくより良い日差しが長続きするように、という儀礼信仰があったのだと考えられている。で、日守もそうではないか、思ったのだ。今の所そのような伝説は見えないが。

この里の信仰の中心と思われる日守山東陽院というお寺のお隣に、鎮守の「熊野神社」が鎮座されている。
実に、えぇ。なんと申しましょうか。ただ「そこを登った」というだけのことを自慢したくなるような石段だ。自慢してやろう。ここを登ったのですよ。うぐいすが鳴いていてねぇ。良いでしょう(笑)。
熊野神社さん自体は普通の熊野さんだ。なぜか武甕槌命が配祀されているという点は妙だけれど。しかし分かりやすい注連柱様イチョウのお社でしたな。
「日守」の地名の記録は戦国期にそう記録されてるあたりが最古のようで、それ以前のことは分からない。各資料ともそもそも注目する人もいない。また例によってあたしが一人で騒ぐだけになるかもしれない(笑)。
しかし、なんというか土地そのものが「良い感じ」の所ですね。思い込みかもしれんが。こういう所を穴(ケツ)というのか、という。ちょっと斜面にある石仏さんとか石祠まで何やらステキに見える。
ていうか何もかにもステキに見えるぞ。日守。一体何だと言うのだ。こんなに世界が輝いて見えるのは……あたしがなんかまずいのか(笑)。
さて、狩野川を渡りますと「肥田(ひた)」という土地になる。ここもすごい。まだ季節じゃないのであたしは特に何も目にする所はなかったのだけれど、中々思い切ったお祭が毎夏行われているのだ。
にゃーんこ!(©榎木津礼二郎)「かんなみ猫おどり」なる……お祭というかイベントがあるのだ。手もとの資料だと函南の猫踊り伝説があったのは十国峠の方の軽井沢という所で春のこと、のはずなんだけど……まぁ、いいのか。

ま、ニャンコはさて置き、ここ肥田という所は伊豆神祇史的にも大変注目すべき土地である。現在の鎮守の「肥田神社」。
Wikipediaには八幡さんのように書かれているが、主祭神は「ひた王子」である。多分ネットで調べても何も出てこないだろう。この神は伊豆国神階帳に見る正五位下「ひたの王子」であり、この肥田の地が本地、肥田神社がその後裔社である。八幡化したのは下ってのこと(今でも八幡ではないが)。
もともとはその王子(若宮)を祀る社と「皇后の宮」の二社が肥田の鎮守だったのだが、実は皇后の宮(おそらく古くは「きさきの宮」)は沼津式内:長濱神社の勧請社であり、長浜御前、すなわち伊豆諸島神津島にいます伊豆三嶋大神の本后・阿波命を祀った社だったのだ。
そして、ひた王子はその御子神とされる。阿波命の御子神は物忌奈命のみがよく知られるが、ひた王子は兄弟神ということになる。ほとんど方わけが分からないでしょう(笑)。これが伊豆なのですよ。
肥田神社および「ひた王子」のことは全国区の国内神名帳の調査をされる方々からもスルーされがちなようなのだけれど、ちゃんと後裔社はありますのです。
ちなみにあたしの知る限りこの件の詳細を扱った資料は『函南町誌・中巻』と『肥田誌』のみ。『田方神社誌』にちょこっと。
ここ肥田の地では阿波命は子安さんとして親しまれてきたそうな。伊豆三嶋大神の后神たちの中でも「最恐」の女神がねぇ。所変わればというヤツですかね。なんかちょっとほのぼの。
北へ。あからさまな森山が見えてくる。地図要らずの伊豆。
巻戻って、スタートポイント原木から狩野川を渡るあたりからもうこう見える。鎌倉前期の歌論『八雲御抄』に見る「田方ノ杜」がこれだそうな。あ、浮いてる富士山はコラじゃないよ?

この麓に「満宮神社」が鎮座される。式内:文梨神社の論社ともされるけれど、わけの分からぬ論拠なのでこれは置いておこう。重要な問題は別にある。
森山を一部くり抜いて社地を造ったような感じですな。それとも自然と崩れた所を祀った物か。ともかく、この本社殿向かって左から山上に登る稲荷鳥居の列があり、山上に鎮座される「森山稲荷神社」が問題なのだ。
山上の稲荷。この塚山と、かつて南麓に広がっていた森(今は畑)は、かつて「王子の森」と呼ばれていた。下の境内にも「王子之森稲荷」が今尚祀られている。この「王子」は先の「ひた王子」のことに他ならない。この稲荷たちはその後裔である。
このくらい登りまする。で、王子の森は先のひた王子の社の勧請だろうとされるのだけれど、あたしはむしろこの塚山がひた王子の本地でないのかと思うのだ。
平地から日守の山方に冬至の太陽を祀る場所があったとしたら、ここ以上に目立つ重要な地勢は考えられない。斜線が冬至の日の入りの方角(おおまか)。
塚山下からはこのようにその山並みが見える。左端が大嵐山で、右端が鷲頭山。「ひた」という名も、あるいは飛騨が日抱の意だという発想に一脈通じるものがあるのじゃないか。
おまけで塚山の岩肌の様子。何かこう、この辺まとめてジオパークネタにならんかね。
そこから東へ。函南(かんなみ)というのは函(箱根)の南、ということで明治期の町村制にあわせてできた名で、古い広域地名というわけでもなく、このあたりはもっぱら仁田(にった)の郷だった。頼朝の忠臣・仁田忠常の出た土地だ。。

このあたりの広域総鎮守格が元郷社で式内社の「初姫神社」。鳥居の先に門があるというのもはじめて見ましたな。まっこと不思議な……
と、それもそのはず、なんと鳥居と本社殿の間が幼稚園だかの庭になっているのだ。なんとなぁ。平日に来ていたら鳥居を潜っての参拝はできなかったのかしら。
式内社としては金村五百村咩命神社となる。他に論社はないので確定社と言って良いだろう。「五百村咩」という表記は考えられないので、概ね金村五百比咩命・ないし金村五百村比咩命が正しいだろうとされる。
社頭の新しい由緒書きと別に本社殿脇に古いものが。女神さまの絵入りでこういう風のほうが良いような気がするが。
この神格がどのようなものかはよく分からないのだが、また式内社に「金村五百君別命神社」(現・奈胡谷神社 )が南東二キロほどの所に鎮座されており、何らかの関係が考えられる。平安期には狩野川がこの二社を結ぶように、今よりずっと東を流れていたとも言われる。
各社ともに境内社はまとめられる傾向にあるようだ。境内のあちこちに祠がある、というお社は見えなかった。
この田方の内地の方には「床浦(とこうら)社」という祭神不明の独自な神が良く祀られている。ここ初姫神社の境内社にも資料上は見える。駿東の方では疱瘡神として祀られる神なのだけれど、謎である。この日も大きめの神社には皆祀られていた(はずだ)。
境内というのか幼稚園のグラウンドというのか微妙だが、大きな楠もある。指定されるほどではないだろうが立派なものだ。式内の女神と大樹のお膝元で日々遊ぶ園児たちってのも、なんとも贅沢な子どもらですな。
初姫神社からは南東へ。すると東中学校のあたりにあやしの木立が。これはちょっと「ナニか」ですよ。むふふふふ。
ナニかでしたなぁ。「地神様」といい、埴土之神を祀るとあり、実態は文覚上人伝説の地であるようだ。石碑の脇に立派な由緒書きもあるのですな。
伝説は二パートからなり、前半は文覚が頼朝を伴いこの高台から富士の眺望を見せ、天下人たるものはあの富士の如くあれと教えたというもの。後半はその文覚らしき「顔面相焼けひきつった怪僧」が、稲妻池(後述)より水利法を教え収穫が倍になったというもの。その文覚を埴土之神と祀ったとある。
そして、この高台の樹々の間からは例の日守の山並みがこう見える。ここは農に関する重要な神祀りの場だったのかもしれない。
冬至の日の入りとの関係をもう一度今度は航空写真で見ておこう。まー、このようにうまいこと山が受け皿のように連なったとこなのですよ。
地神様のすぐ東側には「六萬部寺」という寺があり、頼朝が法華経六万部を納めた塚があるというのでこの名なのだが(本来は古墳時代の円墳)、このあたりもこの後大きく繋がってくる。しかし……六萬部寺行かなかったんだよね。事前にあたしが見た資料じゃぁ「が、あった」になってたのよ。今は昔の話なのかと思い込んでいた(今もありますです……TΔT)。

それはともかく道行きに戻りまして、「天降神社」へ。もうね、これが「あもり神社」だったらあたしはちびってる所という社名なんですがね……
まぁ、読みは「あまおり」神社ですね。えぇ。そうそう無茶な展開はない(笑)。「天降神社」は各地にぽつぽつとあって、天孫降臨を言ったり、総鎮守社の御旅所であったり色々なのだけれど、うち的には沖縄から南九州の天女伝説「あもれおなぐ(天降女子)」の系があったらクリティカルなのだけれど。
ここ函南天降神社は、古くは雨降明神・雨下明神で、要は雨乞いのお社だった。今、瓊々杵尊を御祭神としているが、これは「あまおり」を天降としての近代以降のことだろう。そして、さらには往古は狩野川がこのすぐ前を流れていたと伝わり、「三崎神社」とも呼ばれていたと言う。この辺りは次の弁天さんと絡んで重要となる。

Uターン気味に北上しまして柏谷の「厳島神社」へ。いや、弁天さんあとに回すと怒られる、という龍学的な問題(笑)以外に、特に何があるとも思っていなかった所なのだけれどね。
『田方神社誌』にも縁結びの神として信仰を集めて来た、というくらいのことしか特記されていなかったのだもの。だがしかし……
この境内の由緒書きに目が飛び出るのであります。ちょっと他資料に見えない(一部土地の民話と重なるけれど)ので、紹介しておきたい。

厳島神社
一、祭神 田心比売之命
一、この地は大古は湖で古記録におると六万淵と云われ面積東西百拾間南北百八十間あり仁寿年間西歴八五一年(一一四〇年前)湖中に突然東西十三間南北十五間六畝十五歩の岩礁現れたり
一、当時湖の北東方丘地に厳島神社が御座し古来より縁結びの神として古来より有名良縁疑いなし 六十年毎に大祭三十年目毎に中大祭あり 湖中に岩礁出現数年後その岩礁当地に厳島神社を移転後遷座す 旧位置はいまだに元弁天と称す
一、源頼朝元弁天の地で文覚尚人より武道の指南を受け暫しまどろむ処白髪の翁が姫を伴い現れ我はこの湖に棲む田心比売なり汝頼朝に天下平定大将軍の位に就かしむると宣したり 頼朝はこの神慮を謝しこの地に優雅なる厳島神社を再建したりと(後略)

ということであたくしボーゼンなのであります。この地の伝説としては同様のものとして、先の六万部の法華経を写経中の頼朝のもとに竜女が現れ……という筋のものがあり、元は同じ話だろう。ともかく六万淵・六万部寺は繋がる話だろう。また、岩礁の出現したという仁寿元年は、先の天降神社の方では、その八月に大地震があり、神社前を流れていた狩野川の流路が大きく変わってしまった、と伝えている。このあたりも繋がる話だろう。そもそも雨乞いが行われていたのが六万淵(おそらく稲妻池)であった可能性は高い。
これらがどのような意味合いを持って繋がり語られて来たのかはこれからの課題だが、ともかくかなり重要な信仰空間がここに存在していたのは間違いないだろう。
道行きに。何様が祀られとったのでしょうかねぇ。ていうか榊(?)は生けかえられているということなのか??
ここは柏谷という所で、国指定遺跡の「柏谷横穴群」が保存されている。6C末から8Cということで、6C末というと伊豆では(まだ伊豆国は分離していなかったとされるが)最古級になるだろう。
この辺が東〜南伊豆とは異なる伊豆国造系がどのように集住していたのかという伊豆半島内部の古代史と大いにかかわってくると思われる所だ。信仰的にも三嶋大神とは異なる神を祀っていたはずであり、わりと気の長い話の入口ともなる。

その周辺の「八幡神社」。とはいえ、三島大社が三島に遷して以降の古代・中世はまた三嶋信仰の地でもあるわけで、小さな八幡さんも見逃せないのであります。
伊豆三嶋の系ではその膨大な御子神たちが若宮と呼ばれ、若宮→若宮八幡と転じて小さな八幡さんと化して潜んでいる例がままあるのですな。ひた王子も小さくはないけれど八幡化していた。こちらなど参照(下田市河内「八幡神社」)。
んが……読めねい(TΔT)。元禄の八幡宮の棟札が最古のようかしら。
生け垣に潜んで伊豆型道祖神さん。

また、このあたり結構第六天・大六天社があったようだ。この小さなお社も「第六天神社」である。丹那盆地の畑(地名)の方に皇産霊神社が見えるが、そこも第六天社だろう。
こう「第六天神社」の名で新しく覆殿・社地が作りなおされているケースというのははじめて見たかもなぁ。土地の人は今でも第六天さんに特に不思議もないのだろうね。

そこから平井という所の「天地神社」さんへ。「てんち神社」である。んまぁ、次々と物凄いお名前の神社さんでありますのことよ。
ここは江戸時代にすでに「天地大明神」であったという以外のことはよく分からない。式内:阿米都瀬氣多知命神社の論社として名があがるようだが、アメツチからだろう(阿米都瀬氣多知命神社の最有力論社は左内神社・右内神社)。
この日はずっと現代狛だったが、ここに来てステキ狛様と遭遇。あはーん(笑)。ちょっと見たことのないタイプの造形かもですな。
吽の方も。仙人タイプとでも呼ぼうか。
ところで神社の由緒は不鮮明ながら、ここは巨大な楠のあることで知られる所でもある。デカイ。てか太い。樹齢は推定八百年と伊豆最古級ではないけれど、大きさは最大級だそうな。
参道側から見上げるとこんな。あたしが変な撮り方しているのでなくて本当にこう平べったく太いのだ。幹がもう面である。
町役場の方へ下って来まして、写真の先の交差点と周辺小字を「岐れ道(わかれみち)」というようだ。まんまである。これはぜひ道祖神さんを祀っていただきたいなぁ(なかった)。

柏谷の方へちょろっと戻りまして「日枝神社」さん。いやー、日が暮れて曇って来たので、天地神社さんを優先したのですよね。山王さんはまぁ、山王さんだろうと……んが……
明治初年までの標柱に「延喜式式内社:山王権現柏谷日枝神宮」とあったと書いてある。かーいーてーあーるー!ここが式内論社だなんて、まったくもって聞いたこともねぇ。うーむ。
後、町史なども見直したのだけれど、イマイチ文意がはかり難いものの、どうも式内だと地元で言われてきたようだ。んが、式内の何の社なのだかが、どこにも触れられていない。うーむ、うーむ。先にも述べたように、あたしの知る限りここを式内論社とした資料は無い。いやー、コマッタねぇ(←嬉しそう)。もしかしたらこの日実感した伊豆内陸古代の見直しにもがっちりかかわってくるかもね。まぁ、それは現状なんともしようがないのだけれど。
ここは境内社さんに名札が掲げられておりまして、例の「床浦社」が見えますな。これは「何なのだ!」と言える日が来るのかしらね。

最後に大土肥というところの「雷電神社」さんへも。雷電社なのに御祭神が火牟須比神なのだ。伊豆山ですねぇ。ここは日金山へ参る登り口だったのだ。大きな伊豆山一之鳥居があったので大鳥居が訛って「大土肥(おおどい)」になったのだ、なんて伝説もある。この社も江戸期には伊豆山の縁起に見える桜童子の社などとも呼ばれていたそうな。
また、この御社殿はかつては写真左下のその街道を向いて建っていたのだけれど、例によって行く人々に障るので向きを変えたのだとも伝わる。
その街道沿いにはこんな石造物がぽつぽつと。もう、伊豆山への標石なので、いろいろであってこれが何の像かというのも難しい感じである。その辺は相模大山もどこも一緒ですな。
そんな感じで日も暮れまして。そのままとぼとぼと大場駅(もう三島市)へと歩いて行って終了。大場は「だいば」なんですな。この辺も何かありそうな。

といった函南でした。いや、実はあまり重大な何かがあるとも思っておらず、中伊豆編スタートの足慣らし、くらいの感じだったのだけれど、とんでもございませんでした、スイマセンスイマセン……という(笑)。あるいは伊豆半島内陸部の歴史のはじまりはこの辺かもしらん。ちょっと特に伊豆国造のことなどしっかり考えた上で、再度ポイントを絞って見て回りたい函南町なのであります。

補遺:

田方行・函南 2012.05.19

惰竜抄: