八幡神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.06.16

祭 神:誉田別命
    (多祁美加々命)
創 建:不詳・寛文一二年(一六七二)棟札
例祭日:
社 殿:不明
住 所:下田市河内字上湯原

『南豆神祇誌』足立鍬太郎(昭和三年)

八幡神社
八幡神社
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地図には社殿はおろか道も記されておらず、蓮台寺駅周辺にお住まいの方もその存在をほぼ知らない。そういう神社なので、詳しく道行きの写真などものせようと思ったが、迂闊に行くのは危険な所もあると思い直して、その辺りは割愛する。

私がこの八幡神社を捜索した際には「猪が土を掘り返しまくっているから足下に気をつけろ」と言われたのだが、足下でなくて猪の方が危険だろう(笑)。

社頭
社頭
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写真に見る如く、ほぼ廃絶寸前の神社だ。今は、ここへ行く道の人家の端にあるお家が年に数度お手入れをされてるだけとのことだ。

しかし、ここは伊豆三嶋信仰を探る上で興味深い所なのである。現代に伝わる棟札上は寛文一二年(一六七二)に遡るまで八幡なのだが、大正六年の棟札には「八幡神社 旧称王子神社」と記されている。そしてこの「王子神社」であった点について足立鍬太郎が以下の報告をしている。

初、王子社と称し、第三王子則ち多祁美加々命を祭ったのである。当社所蔵の石剣は、スレート製アイヌ系精製石棒の中央部で、長さ六寸一分扁平にして横断面はほぼ菱形をなし、最広部長径一寸三分・短径八部ある。その両面に、同式のシムメトリカルに配置されたる文様を陰刻せるは、注意すべきものである。なお一個完全な無頭石棒と三面の和鏡がある。

『南豆神祇誌』足立鍬太郎(昭和三年)

多祁美加々命(タケミカカノミコト)は三嶋大神と新島にいます后神「みちのくちの大后」との間の御子神の一柱。「大三王子」とも書かれ、この弟神がまた「第三王子」と書かれたりし、まぎらわしい。足立は「第三王子」と書いているが、これは通例ならば多祁美加々命の弟神のことである。

多祁美加々命は仁和二年(886)までに叙位を受けた伊豆神六柱の一柱で、阿米都和気命(三宅島)、伊太氐和気命(御蔵島)、阿豆佐和気命(利島)、佐伎多摩比咩命(三宅島)、波布比売命(大島)と並んで新島を代表して祀られた堂々たる神格である。その出自の通り、新島の「大三王子神社」がその本地とされ、式内:多祁美加々命神社とされる。また、下田吉佐美の八幡神社にも祀られておったとあり、そちらも式内:多祁美加々命神社の論社に名があがる。

しかし、ここ下田河内の八幡神社に祀られていたという伝承はもはや消滅寸前である。

かつての社殿の残滓
かつての社殿の残滓
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垣間見える社地の規模や、縄文石棒の伝来などから見ても、稲生沢川の蓮台寺駅周辺に開けた平地の祭祀の中心が古くここにあった可能性は高い。無論多祁美加々命を祀っていたのは分霊祭祀としても、伊豆三嶋一族を信奉した人々の記憶として消滅してほしくない神社である。

かつての社殿の残滓
かつての社殿の残滓
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参拝記

八幡神社へは平成二十二年の十一月三日に参拝している。この十日ほど前にも蓮台寺駅周辺を訪れており、この八幡神社を探したのだが、ついぞ見つけることができずに再度の訪問となった。

ようやくご存知の方を見つけて、行く道を教えてもらい、大変な藪を掻き分けてたどり着いたのだが、もはや廃絶寸前と言わざるをない御社殿を目にして複雑な心境だった。上で述べたように、伊豆三嶋信仰を追う上で重要な神社であるのだが。

参道階段
参道階段
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トップタイトルバックの写真の全景はこのようだが、やはり石垣などの規模を見てもかつてはかなり重要な神社であったことが伺われる。

往時の繁栄など望むべくもないのかもしれないが、伊豆三嶋信仰の全貌が今一度クローズアップされれば、この河内八幡神社の重要性にも自然と光が当たるだろう。今はそのために少しでも痕跡のある所を繋いでいくしかない。

八幡神社(下田市河内) 2011.06.16

伊豆神社ノオト:

参考:

下田行
下田行(神社巡り編)
2010.11.03日の下田市の神社巡りの模様。稲梓から日枝神社群を巡り、波夜多麻和氣命神社、この河内八幡を経て犬走島へ。
▶下田行