高座行:藤沢

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.02.18

藤沢行の模様を。神奈川県藤沢市ですな。大部分は一宮の鎮座する高座郡だったわけですが、鎌倉の北西、鎌倉党の中心地だった所でもあります。でも直前の夜は雪が降ってましたようで……ていうかなんだこれ。雪と言うか霰と言うか……美味しそうだが(笑)。

そんなこんなのお寒い中、辻堂駅で降りまして、「社宮神」さんへ。朝日は神社撮影が難しいと何度いえば(ry えぇ、ちょっと早過ぎましたね。一名「田畑(でんぱた)神社 」とも呼ばれる。
今は住宅街だけれどかつてどんなだったか目に浮びますな。玉垣など妙にピカピカで、背後の旗竿の準備からいってもお祭りも盛んに行われている模様。鵠沼の方にかけて「おしゃもじ」信仰が盛んだったようで、それを引いているのかもしれない。
ま、そちらはそのテーマで一日かけないと廻れそうがないので、この日はここだけなのだけれど(「おしゃもじ婆さん」なる石造物もあるらしい)。鎌倉には例の蛇苦止堂があるし、逆方向の国府祭絡みの線もあるしと、どのような連絡があるのか興味深い所である。

その鵠沼北を突っ切りましてお次は「皇大神宮」へ。昔は「鵠沼烏森神社」というローカルなお名前だったが、だんだん神社規模がものすごいことになって来たようだ。
並び一宮格の寒川・鶴岡・箱根・大山を別とすればその次くらいの(相模の)大神社となっているのじゃないか。実際後半出てくる式内:大庭神社の後継という側面もあるので不思議もないのだが。
さて、ここが鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した土地、所謂「大庭御厨」の中心である。ここに源義朝の手下と中村宗平・三浦氏が共謀して殴り込みをかけたのが大庭御厨濫行事件。
これで鎌倉党・大庭氏と中村氏・三浦氏の対立構造が確立してしまったわけだ。源頼朝の旗揚げである石橋山の合戦は頼朝に中村党が合力しなければそもそも成り立たなかったが、中村党が合力した理由はと言えば「今更大庭の下につけるか」という破れかぶれなものだっただろう。
そんなわけで、ここ大庭御厨を舞台とした御厨濫行事件がなければ、もしかしたら頼朝の旗揚げはなかったかもしれないのだ。なかなかに感慨深い所ではある。
ところでこの場所は、御厨となる以前から「式内:石楯尾神社」が鎮座していた所だともされ、今も境内社としてある。石楯尾神社は相模の式内社としては珍しく比定が難しい神社で、七社以上の論社がある。
そしてこれは全く念頭になかったのだけれど、この日やたらとタブの木などの大樹を見た。皇大神宮の御神木もかくのごとし。後の世のあれこれはともかく、やはり江の島からこのあたりもタブや楠を祀る海の文化が入っていたのかもしれない。
極上の青空に映える白亜の立派な一之鳥居。それでもその脇にはバッチリ「道陸神」さんがおわしますのが相模スタイル(笑)。
藤沢の中心を流れるのが東相模篇ではこの先頻繁に名が出ることになるであろう「境川」。今写真を撮っている所は藤沢橋で写真の赤い橋は旧東海道の遊行寺橋。時宗総本山の遊行寺があるのです。ま、要は鎌倉なんですな、この辺も。

このほとりに「船玉神社」が鎮座される。で、御祭神が弟橘媛命なのだ。はっはー。土地の名を大鋸(だいぎり)というのだが、鎌倉絡みの船大工たちが住んだ土地だったそうな。
んが、その当時から弟橘媛命を船玉の神と祀っていたかというと疑問で、今も扁額は「船玉大明神」だが、船玉大明神を祀っていたのだろう。弟橘媛命があとから書き重ねられていった過程が見えるかもしれない好例の神社でもある。
なぜか境内に金治郎さんが。なんでかね。ま、最近学校系では不遇のようだから。

船玉神社の由緒書きに、近くに「藤稲荷大明神」なる神社があるとあったので行ってみた。鎌倉周辺なのでまわりに立派なお稲荷さんは多いが、ここが藤沢宿最古の稲荷だそうな。
この稲荷の座す丘は「御幣山(おんべやま)」というそうで、何やら意味深だ。「藤沢」の地名の由来はよく分かっていないのだが、この辺が起りかもしれない。資料だけ捲っていたのでは目にとまらないものが見つかるのが現地行の醍醐味であります。
お次は柄沢(からさわ)という土地を目指しているのだけれど、道行きに。「山王稲荷」と木札にある。なんだと山王稲荷だと?と色めき立ちましたものの、小字が山王というらしい。山王の稲荷さんですな。ビックリした(笑)。

その柄沢の鎮守「柄沢神社」。白い鳥居が好きなんかね。こう青空だと無駄にさわやかな写真に……さすが湘南(違)。
もう、シーブリーズの宣材に使えそうである(さらに違)。なぜここへ参ったのかと申しますと、ここはもと「第六天社」だったのだ。孝安天皇を祀ったという(今も祀っているが)。第六代天皇だからだろう。このケースは珍しいのじゃないか。
扁額が……なにゆえ八角なのか。なんだか不思議なお社である。
※その後twitter上で「八咫鏡」の紋じゃないか、と教えていただきました。そのようですな。照魔鏡の代わり、ということでしょう。

ともかく、藤沢周辺は第六天信仰が盛んでもあったのだ。お隣茅ヶ崎に生き残った第六天神社があるが、藤沢には後半出てくるが地名としても「大六天」と残っている。
狛犬さんもなんとも独特なお顔で。何かに似ていると思うのだが……未だに何と似てると思ったのかワカラン。あぁ、また気になってしまった(笑)。
そして社頭に並ぶ石造物の中に八臂の弁天像があった。意外と八臂弁天をこうした石造物の形で見るのは初めてかもしれない。藤沢は大山から江の島へと向う江の島詣でのための標石としての弁天さんも多かったが、これもそのひとつだったのかしら。
道行きに道祖神さん。大小の組み合わせというのは珍しい。なぜこういう構成にしたのか知りたいですな。でもお隣の立て札に、もうお正月飾りを捨ててくれるなと書いてあった。難しいですな。
また別の道祖神さん。中は普通の双体道祖神だった(まわりに石がつまれていたが)。なんとも良い祠と並木の加減。たまたま天気と日差しの加減が良かったのかもしれんが。

やってきましたはこの日の第一目標で「竜蛇譚」のロケハンでもあります所の「影取」。藤沢・鎌倉・横浜の境で、影取はもう横浜市ではある。以前も紹介したがここに「影取池」という伝説があった。「竜蛇譚」でまた述べるので簡単に再度紹介すると……

地域の森という長者が飼っていた「おはん」という大蛇が家が傾いたことを察し抜け出し、とある池に棲み着いた。飼われていたので獲物をとることもできずに飢えて池の底にうずくまるようになった。ある時、おはんが池のほとりを行く人の水面に映る姿を飲んでみると腹が膨れた。以降、おはんは池に映る人の姿を食べて生きるようになった。が、姿を食べられた人は一両日中に死んでしまい、これが噂となって結果おはんは討たれてしまう。

……という伝説。
『新編相模国風土記稿』(19C中)には既に池は過去のもとして記録されているが、その百年前の「東海道駅路図」には池が記されているという。無論今は何もない。色々な紹介にも写真がないので、特に何かが残っているわけでもないのだろうけど、と思いつつの訪問。
んが、「諏訪神社」があり、ここに「影取池は、この神社の奥にあったと伝えられています」とあった。諏訪神社自体は明治四十年に勧請された新しい神社だそうだが、もともとここがその池にまつわる場所だったのじゃないか。
というのも、実はこの話、実際の長者家の事を伝えておりまして、森家というのは先の大鋸の職人たちを束ねていた名家なのだ。で、影取の地で森と並ぶ名主であった旧家・羽太家があるのだが、ここに慶安三年(江戸初)に記された影取池に関する文書があったという。
左がその羽太家、手前の畑がかつて影取池があっただろう土地、右端に見える大きな木が諏訪神社。諏訪神社の場所が羽太・森家の祭祀場だったであろうことは想像に難くない。
さらに、あたしが先の写真を撮っている場所は羽太家代々の墓地なのである……というように、やはり実地には来てみるものなのだ。「おはんの祠」などというダイレクトに見せることのできるものはないのだが、こちらの中でのイメージの立ち上がりが違ってくる。
先ほど見えていた諏訪神社の大樹。こうあれこれ見て回ると、お前さまがおはんか、などと思う所まで感情移入してくる(笑)。あんまり学者さんぶったことを真似るよりも、そのくらいであるほうが楽しいですな。
それにしても「影取公園」という名の児童公園はどうなんだろう。この上なく怪……大きなお世話だが。一応地名にも記録にもバッチリ残るのは確定している伝説なんだし、公園名は……実に大きなお世話だが(笑)。
藤沢本町の方へ戻ってきますと、路地の奥に「源義経首洗井戸」がある。片瀬の浜に捨てられた義経の首が、境川を遡ってここに漂着したという伝説があるのだ(金色の亀が運んだとも言う)。今はないが、すぐそばに義経の首塚もあったと。

そのような伝説のある土地なのだ、ということでここには「白旗神社」が鎮座される。義経を祀る社だ。義経の怨霊に苦しめられた頼朝が造営を命じた社であり、すなわち御霊神社の一種といえるだろう。
しかし、一方でここは寒川比古命を御祭神ともする。一宮寒川神社の神だ。というよりも、社伝では鎌倉以前はここは一宮を勧請した寒川神社だったのだと伝えている。
実は相模は一宮から四宮の分霊勧請が著しく「ない」という奇妙な土地なので、このような点も貴重な社なのですな。いや実にないのですよ。寒川さんで数社、二〜四宮の分霊勧請はほとんどないのじゃないだろうか。なぜかしらね。
それはともかく、まぁ、実に立派なお社である。てかナンだ、巴亀?
弁慶も共に祀られていたという。ということで「弁慶の力石」なるものも……なんか、頑張ったら普通に持ち上がりそうだけどね。
絵馬掛けが面白かった。天地根元造りの絵馬掛け?ところで白旗神社には十月秋祭りの「湯立神楽」の神事があるのだが、この際「面をつけた山ノ神が杓文字を持って現れ道化を演じながら参拝衆に餅をまく」という場面があるそうな。ほうほう。
御社殿前にもキリッとした狛犬さんがおったが、登り口にもこのような狛犬さんが。新しいものだが、古い様式を模していて良い感じ。各社の新しい狛犬もこうしてちゃんと造型したら良いのに。
白旗神社を後にしまして、一路西へと向っておりますが、行く道に「おしゃれ地蔵」とな?「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」のだそうな。関本にもあったが、京の化粧地蔵からかねぇ。
こちらでは子どもの神というより、色町などの女たちの神という方向になっている(関本もそう)。しかしこれを道祖神でやってしまうのが相模クオリティ(笑)。解説も「形態的には、地蔵ではなく、道祖神の表現が妥当であると考えられるが云々」と困っている。
そのあたりから北西に転じまして大庭に向うのだけれど、この大庭に「大六天」のバス停があった。いやー、大庭神社旧趾の紹介あれこれ見直したら皆「大六天で下車」って書いてあったから見てたはずなんだが……記憶になかった……orz
藤沢はもっとずっと北西、式内の宇都母知神社のある方に「大六天」の小字があることは知っていたが、大庭のあたりにもあったんかね。いずれにしても第六天信仰が強くあった土地なのだ、ということである。
目標は大庭神社旧趾なんだけれど、途中に魅惑の杜が。辞書の「こんもり」の項にはこの杜の写真載せたら良い。ちらりと見える赤鳥居。もう、磁石に吸い寄せられる砂鉄のようにふらふらと石段を登る以外どうしろというのか(笑)。

「臺谷戸稲荷」さんだそうな。ここは高台で「臺(台)」、引地川の谷戸(やと)を背後に見おろすので谷戸。土地そのままのお名前。
この御神木のタブの木は「かながわの名木100選」にも入っているのだそうな。半分折れてしまっているにもかかわらずこの偉容。いや、ここのことはまったく知らなかった。

そして式内の「大庭神社旧趾」。話せば長いので端折るが様々な点から見てこちらが式内の大庭神社であると見る向きが多く、あたしもそう思う。
しかし、大庭神社はまったく史料がなく、確定的なことは何も言えない。大庭景親を祀ることになっているが、景親は頼朝と石橋山を戦った武将で、延喜式の時代ではない。
もとより大庭の土地名が先で大庭氏はその土地名から大庭氏なのだが、では何の神を祀っていたのかというとさっぱり分からない。そのようなナゾが謎を呼ぶ式内:大庭神社。
しかし、今回この旧趾に参ってひとつ思ったのは、後に紹介する「サバ神社」とよく似た発想の社地だ、ということだ。意外と、サバ神社を巡る信仰空間の解読が大庭神社の謎の鍵だったりするかもしれない。
丘を下ると「舟地蔵」という所がある。文字通りお地蔵さんが舟に乗っておられる(これはリニューアルしたものだそうな)。
この話、大庭を攻めた北条早雲が一帯の沼地に苦労していると、土地の老婆が引地川の堤を切れば沼の水は涸れると早雲に教えたという伝説。で、早雲はその秘密漏れを防ぐために老婆を斬り殺してしまったそうな。この老婆を供養するのが舟地蔵。 ヒデエ話だ、と一見思うが、あたしはよく似た話を知っている。ふははははっ!知っているのだよワトソン君!「榛名湖伝説」の中段善導寺のお婆さんの話がそうだ。なんだろうね、こういうモチーフがあるものなのだろうか。

舟地蔵から引地川を渡って、東岸に鎮座されます所の「大庭神社」が現在は公式の式内:大庭神社となっている。
大庭城は西岸にあったのであり、先の早雲の話などから西岸が壊滅したので鎮守も東岸に来たと考えるのが妥当だろうか。しかし、近世後半からはここは「天神社・天神さん」だった。由緒によると天明年間に菅原道真公を配祀したという。
しかしこれも実際どうだったかというとよく分からない話の様である。分かっているのは「天神社」だったということだけだ。ところでここは変わったところで、特に立派な設えでもないが、参拝客は多分ものすごく多い。
引地川の河川敷に大きな広場が造られており、親子連れで遊びに来る方々がたくさんおるのだが、これが「あんな所に鳥居があるぞ?」ということでのぼって来るようだ。あたしが参拝・撮影している僅かな間にも何組もの親子連れがのぼって来ていた。相模の古社の中では異例の風景と言えるだろう。
ところでその河川敷の引地川親水公園を渡る橋になぜかカエルの相撲が。鳥獣戯画なのか一茶なのかよく分からんが、行司から仕切りからと一連の像があって妙に出来が良い。車で渡るとするっと見逃しそうなのだけれど、ちょっと見ておきたいかも。
そうだ。「天神社」だった名残りはバス停によく見える。西岸を走る県道沿いだが、このバス停が大庭神社のことである。バス停は行政的に、あるいは地図的に失われてしまった古い小字などを保存していることが良くある。

そして日加減がオレンジ色になる中あせりつつ北進。石川という所の「佐波神社」へ。相州サバ神社群ですな。ここから北東方にかけて鯖・左馬・佐婆・佐波などと書かれる「サバ神社」が十社以上ある。
ここ石川佐波神社はwikipediaに「丑の刻参りが行われることがある」なんぞと世にも恐ろしいことが書かれていたのだけれど、まわり住宅街だし、明るくて今はそんなおどろおどろしい神社ではなかったですな。
立地的には引地川の西岸高台で、ちょうど神社脇から一気に下るようになっている。初見では引地川の水加減を祈願する神社にしか見えぬ。
そもそも「サバ神社」の神がどういった神格なのかは未だによく分かっていないのだが、下る時代の中では概ね左馬頭だった源義朝を祀る社だということになっており、御覧の通り笹竜胆が燦然と輝いている。
てか御社殿自体が結構新しいですな。鳳凰が格好良い。龍学的に何の関心があるのかと言うと、やはりそれぞれの河川を祀る水神格だったのじゃないか、という説によるところが大きい。しかも、この日の行程で大庭神社に似たものを感じたのも大きいだろう。
というところで突発的難読書体コーナー(笑)。これは「地神塔」ですな。この類いの表記は結局たくさん見ただけ読めるようになるものなのだろう。

さて、そこからさらに小一時間てくてくと歩きまして(正確には疲労困憊の態でズルズルと歩きまして)、二社目のサバ神社、「今田鯖神社」へ。もうあかーん。日が落ちてしもうた……
サバ神社群の中でも「相模七左馬」とうたわれた所をまわって願掛けする「七サバ参り」などがあったというが、ここ今田は相模七左馬に勘定される一社である。元禄年間の創建という。
しかし、ここはなんとも大変な由緒が書かれてまして、平成七年放火により消失、平成九年に復興するも同十三年に再度不審火により灰燼と帰す、という具合だったらしい。なんだろうね。義朝に恨みの人でもいるのか。
ここは湘南台、境川の西岸高台になる。見えますかねぇ。中段白い柵が横切っているのが境川。ま、このような立地なのですな。ここから境川上流部にサバ神社が並ぶのです(下流の西俣野にも一社)。

そんな感じの藤沢行でありました。実に欲ばりな行程であったといえましょう。日が落ちなんだら足痛かろうが何だろうがさらなるサバ神社巡りをしてしまいそうな勢いでありましたな。
ラストの湘南台からは北にはそのサバ神社群、西には式内:宇都母知神社、そして寒川神社勧請社と展開して行くのでそう遠くなく再訪せねばならん所でもあります。それはまたいずれ。

補遺:

高座行:藤沢 2012.02.18

惰竜抄: