武蔵高麗行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2011.02.19


8:30am 東飯能の「加治神社」。五時にすっ飛び出ましてこの始末(TT)。しかし日高市高麗に行くのに何故飯能なのか(ひとつ手前)。実はここに興味深いお話しがあるのです。
合祀系神社ですが、キモとなるのは天神さんで、社頭にきれいな紅梅が。んが、由緒ではこの「天神」がくせもので、菅原道真では、多分ない。時は十六世紀。この地の中山氏の中山家勝が北条に敗れ、ここ飯能の土地に戻る際の話。
入間川が氾濫し、家勝は帰途を阻まれる。難渋していると、「芦毛の馬を連れた老人」に救われ、飯能の地へ戻ることができたという。老人はこの加治神社の場所にあった天神祠の前で「吾は吾妻天神なり」と言うと掻き消えたという。
そんなお話しの伝わるこの中山氏の守護社であった加治神社。馬を連れた老人とは何だろう。あたしはその老人はきっと立派な白髭をたくわえていたのに違いないと想像する。今日はそんな武蔵高麗の地のさわりの方を。
しかしまあなんというお顔の狛犬さんだと言う。「ひょっひょっひょっ。おのしのような小僧っ子に何が解けるというのかの?」とか言ってるに相違ない。絶対だ(笑)。
加治神社から299号線に出ましててくてく歩いて高麗郷の地へ。別に東飯能駅に戻って電車で行っても良かったのだけれど何となく。しかしこれが当たりだった。丘陵を抜けて高麗本郷の盆地がひらけ、その向こうに見える多分神体山である日和田山と連なる丘陵。
だーっはっはっは!「これなんて大磯丘陵?」と思って笑ってしまった。鉄塔のせいもあるが相模大磯高麗山と大磯丘陵の連なりにそっくりだ。このインパクトは多分このルートを歩いてくるのが最強だった。若光は大磯から来た。個人的には納得。
この辺り高麗川で巾着田の上流部となりますが、山間の渓流といった趣ですな。巾着田から下って高麗神社の方へ行くと普通の中流部という感じになる。そこをさらに上流部の横手の方へ。

ここに「武幡横手神社」が鎮座している。もとは八幡で870年創建という古社だ。14世紀に諏訪神社が合祀されて武幡横手神社となったという。地元では「横手神社」であるようだ。
所変わればで、日高市の神社の御本殿の覆い屋は皆こんな感じ。格子状の板壁で覆うという了解らしい。しかし高麗郡の中心は東の女影の方にあった。誰がここに八幡を勧請したのだろう。社頭の由緒書きにはその辺がなかった。
これが御神紋らしい。諏訪の梶紋のようだがちと違う気もしなくもなくなくな……。まさか桑とかじゃなかろうね(笑)。

巾着田方面へ戻ってきまして、いよいよ「高麗」の影の見え隠れする神社さんが出現しはじめます。「白髭神社」。「ひげ」の漢字が色々違って困ったもんですな。
神社そのものは山の斜面から里の田畑を見守る小さなお社。由緒等まったく不明。ご近所のご老人等も「白髭さんは白髭さんだなぁ」とまぁいずこも同じでございます。高麗とか言ってみても「そう言うとるがなぁ」とあまりピンとこない模様。
ま、相模の秦野で秦氏と言っても若い方は「へー」でお年寄りでも「そんなこと聞くなぁ」ってなもんでして、あまり変わりはないですな。武蔵高麗といっても見渡す限り関東の普通の農村でありまして、多分ずっとそうだったでしょう。
しかしそれでも古代開拓時の重要ポイントだと考えられる巾着田から高麗神社あたりにはあれこれありまして、その辺りへ突入していきます。明日の夜に(笑)。毎度おなじみでくたびれ果ててもう眠たい。今夜の所はおやすみトッツア〜ん(ご免)。
武蔵高麗行続き。白髭神社から巾着田へ向う所。何となく大通りをはずれて高麗川沿いに抜けてそうな細道へ(習性)。
すると路傍のお地蔵さんが。なぜか引かれまして良く見ますとこれが今週のビックリどっきり物件。
なんと「日向地蔵尊」なのだ。だっはー!慌てふためいて周辺人を探して、高麗川の河辺で柴刈り(?)されてたお爺さんに聞いてみますと、確かに「ひなた」であると。行政区域にはないけれど、一帯は昔から日向の小字であるというのだ。
説明しよう。相模国伊勢原日向(ひなた)には日向薬師があり、相模大山の登山口となる古寺のひとつとなっている。開山は行基大僧正と伝わり、その折に当時その近くに住んでいた高麗若光が協力したと伝わるのだ。そして、日向薬師の守護神として若光が祀られてもいる。今は「白髯神社」として麓にある。
勿論目立つ山の南斜面はみんな「ひなた」なんだから日向の地名は珍しくもねーじゃんかというとその通りだが、そんな伝承のある相模から来たあたしが若光の地に「日向」を見つけて目が飛び出たのも無理からぬことだと思われたい(笑)。
まーでも「神奈川に日向薬師というのがあって、若光が……」と言ってみても「へー、そうなんか」で終了〜、という感じなんで、それ以上だからなんだと言っても現状ノーアイデアなんですが(笑)。

そんなこんなで足取り絶好調、気分は最高潮でいよいよ「巾着田」へ。今の地図で見ても特異な地勢だけれど、この北側に「九万八千神社」がある。行ってみるとそれとすぐ分かる社叢が。
社叢そのものの規模はごく小さいものの、鬱蒼観のある境内。九万八千神社は小さなお社でしたが周囲の方の「ここは死守する」という雰囲気がよく伝わってくる神社であります。実は周辺はもう宅地造成でどんどん「均されて」いるのですな。
近所の方に聞いてみますと「くまはっせん」だという。で、普通は「おくまんさん」と呼んでおるそうな(それ以上の由来等は意識されていない)。今はごく近所の方々が年一回ささやかにお祭をするだけのようだ。
しかしこの境内社(となるのか?)の石祠の造形等はちょっと他で見た記憶がないですな。思い込みのせいか異国情緒が感じられる。
鳥居から見晴らしますとこれこの通り。巾着田を一望に見渡すポジションなのです。ここは古いぜ、とこの瞬間確信しましたが、続いて近くにある「高麗郷民俗資料館」に少し資料がありました。
民俗資料館の昔の航空写真を拝借。この巾着田は高麗の人たちがこの地に集められて最初に開拓を始めた所じゃないかと目されてるのですが、実に九万八千神社とはこのような位置に鎮座されているのだ。
そして反対側では神体山である日和田山を遥拝する形となる。あたしはここが高麗神社元地だと言われてもまったく驚かない(誰も言ってないが)。そして、資料館で見せていただいた郷土史には九万八千神社は「市内最古の神社のひとつに数えられる」と明記してあった。
その資料には祭神は「八千戈神」であるとある。これは「九万八千」が古くは「くまやち」と読まれていたかも、という指摘に応じており、多分後づけだろう。では何の神を祀っていたのかというと分からないが、あたしは高麗氏が土地を祀ったのはここが最初かつ要なのだと思う。
さて、この高麗郷では具体的には名産として「高麗錦」が古代より知られておりまして、実に近現代までこの辺りは養蚕の盛んな所でありました。民俗資料館でも養蚕関係のあれこれが沢山陳列されております。
この絵馬は現代の描きおこしでしょうが、こんな風に繭が神格化されていたのですな。
繭玉はこんな風に飾られていたという。祀られていたというべきか。「オシラサマ」の信仰もあったと解説にはあった。
そしてその「高麗錦」は南経路で相模川に出して、川を下り相模湾から海上ルートで都へと運ばれたそうな。この高麗郡の敷設時期と武蔵が東山道から東海道へと編入された時期は一致する。
また民俗資料館には面白い祠もあった。これは諏訪神社の祠だが、元々はこういうのが「小祠」で、年一回建て替えるものだったのだ。平成九年を最後に普通の祠となった、とあるが、逆に言えばそんな最近までこの習俗が残っていたのだ。
それと関係するかどうか分からないが、日高市一帯には石造物をとんと見ない。道祖神さんも庚申塔もあまりない。その代わりにこんな御幣があちこちに立っている。
こういう御幣も農村部では実は今も珍しくもないものなのだが、日高市一帯の分布密度は尋常ではない。辻々にあり、また古木の下等にもある。今まで歩いてきた土地にこれほどの密度で御幣を立てている所はなかった。

いよいよ本丸その一、若光のお墓のある「聖天院」へ。いかにもという感じにチャンスンがありますな。勿論現代の演出で、この土地にチャンスンを祀る習俗が古代からあったのじゃないですが。
聖天院は高麗の僧・勝楽上人が若光を弔う為に高句麗から持ち込んだとされる「聖天歓喜仏」を祀り建立しようとしたお寺。建立前に上人も亡くなったので、弟子であり若光の子でもある聖雲が建立した。今は真言宗のお寺であります。
江戸時代後期の立派な山門(市指定文化財)。チャンスンを通って雷門の提灯というのもアタマがぐるぐる致しますが(笑)。
そして高麗王若光のお墓。凝灰岩の多層塔で鎌倉時代のものと思われるそうな。あちこち縁の地をお騒がせ致して申し訳ないと、深々と。
而してここに狛犬ならぬ「狛羊」が。ていうか高麗羊か?もう何がなんだか分からん(笑)。現代のものだろうが古くから羊に守らせていたとか言わんだろうね。何なのだ。
とまあアタマぐるぐるさせつつ、とりあえずご挨拶はした、と戻ろうとしましてふと山門の天井を見上げると……朱雀なのか、鳳凰か。南門に朱雀は良いのだが、これは……

さらにいよいよ(一日何回いよいよがあるんだって話ですが)本丸高麗神社へ。八世紀前半からあるという古社だ。社伝では大社の扱いになり、若光直系の宮司家は大宮司家でもあったという。
社頭からして大神社の風格ですな。もっとも鎌倉時代からは修験の大宮寺だった。神社と復したのは明治である。また、高麗家は1352年に一族廃絶の危機に陥っている。そこからまた復興してきたのだ。
こちらにも将軍標が。でかい神社に良くある車祓いの所にありますな。
そして手水の所に意外な方のお名前が。マス・オーヤマ!なるほどね。予想だにしなかったが。
そしてかの有名な御神門の扁額。明治期に高麗(こうらい)と紛らわしいというので「句」の字を足したそうな。いやいやいや、新しく作ったら良かったのじゃないのか。
しかしまあ何と言うか結構拍子抜け(笑)。事前情報であれこれ見ていると韓流推しでヨン様のポスタだらけだとか、絵馬には香ばしい文言が並ぶとかあったのですが、見事に何もなかったですな。こうして見ると普通の神社さんです。
結構意図的にイデオロギッシュなものはパージしてるのかも?今は全体的に「出世大明神」という線を強く打ち出しておるような感じでした。絵馬なんか合格祈願だらけで、あたしゃ間違えて天神さんに来ちまったのかと思った(笑)。
そしてこの御神紋。先の聖天院山門天井の朱雀だか鳳凰だかと繋がるのか、この話は。高麗氏も「鳥のコード」をもつ人たちだったのか?
「トライ」君と「ミライ」ちゃん。本当にこの地から「ミライ」を開く知恵が生まれて行ったら良いのだけれど。
高麗氏の旧宅。国指定重要文化財とはいえ江戸時代前半のものですが。それでも武蔵高麗氏1300年の象徴ではありますな。中に色々昔の生活用具とかがあって解説もあるのだけれど入れなくなっていた。申込みとかがいるんかいな。
さて、これで高麗若光を祭神とする本丸高麗神社さんも参拝致しましたということで、今後の「高麗考」にも弾みがつこうってなもんですが、実はこの日の行程はまだ半分(笑)。明日夜にさらに後半へと続きます。

武蔵高麗行続き。高麗神社から南へ。野々宮という土地があり、「野々宮神社」がある。地図上高麗川が傍らを流れているのが重要だ。何となればここは高麗神社より古いという「祓の社」なのだ。
文字通り京嵯峨の斎王の籠る社であった野宮神社の分社であると伝わる。しかも社伝に「当社高麗王の尊霊を祀る」とあるともいい、どういう関係か非常に興味深い所なのだ。
また面白いのが十月例大祭の獅子舞だ。「雌獅子を巡って二頭の雄獅子が蛇を奪い合って飲みこむ」のだという。「注連縄の向こうに行ってしまう雌獅子」を追って雄獅子が邪魔する蛇に挑むというのだ。斎王の宮で。これは凄い、と思う。
と、そんな所で時間が圧してまして。本当はずっと歩くつもりだったのだけれど高麗川駅から電車で移動することに。高麗川駅にも将軍標をモチーフにしたオブジェが。高麗駅の方の将軍標が有名だけれど、こっちにも造ったのね。
移動先はお隣の武蔵高萩。周囲「女影(おんなかげ)」という地名がありますが、ここから郡衙と思われる遺構等が出ている。高麗郡の行政的中心地はこちらだったのですな。高麗神社の方はそのような行政的なものはまったく出ておらず、祭祀的な中心だったのだろうと考えられている。

まず駅から東へズズイと進みまして、「白髭神社」。若光は晩年白髭を蓄え「白髭様」と慕われたと伝わり、若光を祀る白髭神社の系統というのがある。
んが、若光自身猿田彦命を崇敬したともされ、ニワトリが先かタマゴが先かと難しいのだ。ここ高萩の白髭神社でも境内をお掃除されてた方に聞いてみたのだけれど、高麗との関係とかは「そうなんですか?」という具合。
ここは拝殿と本殿に間に狛犬さんがいた。小振りながら大正四年のなかなかバシッとまとまったひいじいちゃん狛である(昨夜最後のが反対側)。さーて、「白髭の若光」なのか、猿田彦と結びついて遡って白髭だったとなったのか。ふーむ。
ちなみに「猿」は「駒(馬)」とも結びつきが強いのでさらにややこしくなる。馬舎に猿を繋いでおくと馬が元気づく、という慣習が古くからあったと谷川健一氏は言い、その辺りの信仰を近江の小野氏が信州→日光と伝えたのではと言う。あながち中央の「小野一族」も無縁というわけではないのだ。
高萩駅の方へ戻ってきつつ、寄り道編。地図上「箱根神社」があったので寄ってみたかったのだ。すると道筋に上が折れちゃった石碑が。何権現さんやら、と思って良く見ますと燈籠に「石尊大権現」とな!相模大山でないの。
こういった遠方の地に地元の神さまがおられると何だか嬉しいものです。しかし石尊さんに箱根神社に、実はちょっと先には報徳神社まである。二宮尊徳公だ。小田原藩は後北条氏の版図を反映して北関東の方まで飛び地を持っていたが、この辺もそうだったのだろうか。尊徳公も下野で没している。

その箱根神社さんは小さなお宮でありました。というか辻堂か。お隣には金毘羅さんも。
自分の地元の神社が周辺地域でどんな活躍してたのかとかも一種の地元編と言えるかしれんね。ま、もっとも全国区の神社群の総社のある所ではタイヘンな話になるけれど。

そこから南へ高麗郡の行政的中心と目される女影へ。ここに「駒形神社」が鎮座している。駒が高麗とどう関係するのかもこれからの課題だが、ここは地図上妙に長い参道が見えたので突撃。
その参道。地図を拡大するとこんな。日高市のサイトによると御本殿が江戸末の市指定文化財とありましたが、由緒等は見えなかった。んが、社頭に由緒書きがあり、これがビンゴ!
「高麗王若光により霊亀二年(西暦七一六年)に創建された社であると伝えられる」のだそうな。今はなきご神体は「駒に乗りし銅の像」だったとある。高麗と駒を繋ぐコードがここ高麗の地にあったのは間違いないようだ。

そして日差し的にラストと相成りました女影総鎮守の「霞野神社」へ。この西側に鎌倉道の上道が通っていたとあり、古代だけでなく中世にもドラマの多い場所なのだ。
創建は不明だが、ベースは諏訪神社で明治期に大合祀で霞野神社となった。女影ヶ原一ノ宮とな。そういう言い方もあるんか。
ところで合祀されている神社に「白髭神社」が少なくとも二社ある。現状日高市内に四社の白髭神社を確認しているが、さらに二社。やはり土地と密接に絡んで白髭のコードがあったのだと言える。
しかしまぁ、ずいぶんとシャコタンな狛犬さんだわね。……う、そういえば「シャコタン」って、今通じるのか?シャコタン☆ブギ。昭和は遠くになりにけり……
道を挟んで空っぽのお宮があった。なんだろう。この辺りは古戦場でもある。中先代の乱、信濃で挙兵した北条時行が鎌倉を目指す過程でここ女影で足利軍と激突している。
そんな所で日も暮れてきまして武蔵高麗行第一弾も終了でございました。やはり現地にまさる教科書無しという一日だったでしょうか。おまけで「四里餅」。どんな顔して書いたんだろうね、これ(笑)。

補遺:

『風土記稿』をつらつらと調べてみると、江戸時代の高麗郡には白髭社が二十七社とかあったようだ。しかも多くは村の鎮守である。まわりの郡ではがくんと数が減るので、高麗郡独特と考えて良い。となるとやはり若光を祀るか、高麗神社の分祠的なものだと考えて良いのではないか。

それにしても『風土記稿』は「高麗王」をくり返し書いている。文化・文政年間の編纂だが、その当時も高麗王の伝承は強力だったのだろう。そして白髭社は高麗王が薨去する時白髪白髭だったことに由来するとし、一律白髭明神を祀るとしている。猿田彦の名はない。

日向地蔵尊だが、江戸時代隣接していた高岡村の地蔵堂に行基の作という木の座像があったという。相模伊勢原日向薬師の開基は行基によると伝わる。これは繋がる話なのか。

高萩の方で話を聞いていたとき、「狭山の方に古い白髭神社があるよ」と言われた。狭山の笹井にある。しかし十六世紀の勧請とあり、これが「古い」のかどうか。実は狭山の式内:広瀬神社が江戸期には白髭明神になっていた。まさか高麗の人は今でも広瀬神社を白髭さんだと思っているのだろうか。

武蔵高麗行 2011.02.19

惰竜抄:

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