旧正月初詣・箱根行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2011.02.05

五日朝。6:15 am。小田原市風祭の手前。ようやく空が明るくなってきましたという所。あたくし五日は箱根神社へ行っておりました。自宅から、歩いて……馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの(TΔT)。
いや、西相模在住ながら「箱根の山は天下の険」とは言うものの、どの位のもんなのか歩いて行った事はなかったのですよ(まぁ、普通はない)。神社巡りも関東甲信越レベル突入ですし、関東総鎮守格の箱根権現へお参りするのは今をおいて他になし、なんでついでに歩いて行ってみようと。
小田原の外れまででも結構歩いてるのですが、箱根はここからでやんす。境の入生田という所。実は去年もこの辺散策しておって写真の石造物見てるのですが、当時は民俗とかまだまだでして、でもなんか引っかかってまして再見。やはり、伊豆型だ。

箱根湯本の手前で国1から県道に分かれまして、それが旧東海道となります。そこから小一時間歩きますと須雲川という集落がありまして、そこの「駒形神社」さんへ。今回駒形神社だらけですが、みな箱根権現の本体山「駒ヶ岳」を祀るものです。
この御社殿もかなり正確に後方延長に駒ヶ岳山頂が来るようになっとりますな。須雲川集落は江戸時代にまさに今回歩く旧東海道の石畳を保全する役目の人々がひらいた集落。家々のご先祖様に石畳敷いて回ってた方もいらっしゃるのでしょうね。
参道脇には古そうな庚申さんが並んでいた。多分江戸時代の街道守護の集落だった頃から村を見守っていた物もあるだろう。
須雲川の先に県道から森に入る道がありまして、あら、もう石畳かしら、と思っていったら自然遊歩道だった。増水時は渡れませんと地図にあったが、さもありなん。
その遊歩道の終点(一旦県道に戻る)の先に石畳。旧東海道の石畳も新旧歴史がありますが、古い部分には親切に標識がありまする。いや、石畳の坂って、落ち葉積もってると滑ってコエエ。
この辺り「大澤坂」と言いまして、かなり江戸初期の石畳の結構の残っている所だそうな。ちなみに石畳になる前はこの街道、竹を敷いていたそうな。そのメンテがあまりにタイヘンで、石畳にしたという。

「畑宿」という集落に出まして、また「駒形神社」。大変手入れの行き届いた境内ですが、畑宿は箱根細工の木工職人の里でして、神社が今でもセンターとなっております。神社お隣が寄木会館という施設。
ここは木鼻がすばらしかった。木工職人の里の面目躍如か。多く獏のおるサイドの方が獅子の後脚になっている。これは面白いねぇ。
境内に太子堂が。木造建築木工職人は聖徳太子を宮大工の祖として祀る。小田原早川の紀伊神社は木地師の祀る惟喬親王が祭神だが、やはり境内に太子堂があった。
畑宿の出口に一里塚があった。小田原にも少し塚の形状を残したものがあるが、本来はこんな風だったのだ。東海道沿いでほぼ完形で残っているのはここだけだそうな。道の両脇を二つの塚が挟む配置だったのですな。
その後道は「あまりの厳しさにドングリのような涙がこぼれる」とまで言われた(笑)七曲がりへ行きます。歩道はスキップするように階段が延々続きます。んが、あたしの苦労話をしてもしょうがないので割愛。
もうこのあたり(旧街道資料館過ぎ)になると残雪が。ていうか残雪というかぶっちゃけアイスバーンなので、めちゃくちゃ滑りまする。あ、なんか禁忌なワードが続いちゃってゴメンね受験生の人たち(笑)。
駄菓子菓子!あたしは今回トレッカーとしての秘密兵器を装備していたのだっ!ストック。これはよいものだ(マ・クベ)。いや、これ無しでへばるのを10としたら15は行けるようになるマジックアイテムです(いや、本当)。
う、ストックについて語りたくなった(笑)。山登りしない方はご存じないかもですが、このストックが近年広まったのは革命的な事なのですよ。ぶっちゃけ山道にずっと手すりがついているのと変わらなくなる。
神社系の方も山道が想定されるときは導入のご検討をお勧めします。例えば人の通わない山道単独行で強度の捻挫とかとかいう悲劇にあっても、ストックがあったら下界まで何とかなる確率は格段に高まります。
さて、要所も過ぎますと「権現坂」という坂へ。これはもう芦ノ湖側から上る坂でして、権現とは箱根権現の事であります。小田原方面から登ってくるとこの権現坂で「登り終わったー!」となるのですな。そこに鳥居が。

奥には何たる祠。今まで見た小祠でも最強の祠ですな。地図にも神社庁にも登録がないですが、『新編相模国風土記稿』にはある「山神神社」に相違あるまい。こうなるように木を植え、育てたのだ。
ちょっともう現代の樹木信仰者の方はここお詣りせんとイカンですよ。あたしは子どもの頃佐藤さとる氏のコロボックルシリーズが大好きでしたが、この祠の扉の向こうには「いる」ような気がする。
あぁ、ルルルルル。今度はコロボックルシリーズについて語りたくなった(笑)。ご存じないお若い方達。佐藤さとる 文・村上勉 絵の「だれも知らない小さな国」> ジブリ。嘘じゃない。
そんなこんなで芦ノ湖着!うをををを〜!ついたぞーっ!くらいの感動はあります。んが、「天下の険」は大袈裟だぞなもし、という気も。ぶっちゃけ大変なのは七曲がりの所だけだし。そのくらい低山トレッキングでも普通にあるし、みたいな。
なんか幕府的に「箱根はオットロしくて、えらくタイヘンだから越えようなんて思うんじゃねえよ?あ?」という感覚を広めたかったんじゃないの?みたいな。ま、「箱根越え超大変陰謀説」を唱えても誰得なんでどうでも良いのですけど(笑)。

そこから箱根神社とは反対の「芦川」という方へ向いまして、またまたまたの「駒形神社」へ。ここは社殿正面が箱根神社・駒ヶ岳を向いており、前二社とは違いますな。箱根神社の境外末社という位置づけのせいもあるのでしょうかしら。
すばらしい杉木立の神社。この鳥居の役割と思われる社殿前の二本の樹木は正式に何と言うのかしら。鳥居杉、という名称の所はあるのですが、イチョウの場合も多々あり(特に八幡)。鳥居イチョウ?
この芦川駒形神社には興味深い点がたくさんある。狛犬さんも古くて劣化も激しいが、それでももとは実に優美なお姿だっただろう事が伺われるシルエットを今に伝えている。
これは境内社の「犬塚神社」。文字通り犬を祀っている。開拓当初、この辺りは狼だらけで難儀したそうな。そこで中国から唐犬を連れてきて、村の守りとした。唐犬は頑張って狼を駆逐したものの、村が安全になる頃には力尽きてしまったそうな。
これがその勇敢な唐犬だろうか。祠には現代の犬の置物も数々奉納されている。愛犬家の方は箱根に行きましたら是非お参りしていただきたい所。
そして境内社の「蓑笠神社」。これがすごい。三島の方から来た人々が祀った「えびす様」だという。芦川の隣りの湾部の字名は三島だ。そして、この「えびす様は毎月十三日に蓑笠を纏って箱根権現に参じた」というのだ。何たる話だ。
蓑笠を纏う神というのは尋常ではない。この点話が長くなるのでその内本サイトで(笑)。しかしこんなものがあるのだ。現場百遍である。
といったところで、箱根神社到達前で前編了。明日は続きでいよいよ写真の駒ヶ岳山麓の箱根神社編でございます。
土曜日の箱根行続き。足柄平野から歩いて芦ノ湖まで登ってきまして、いよいよ目玉の関東総鎮守格の箱根大権現様コト箱根神社へ向いまする。
賑やかな湖畔から社地へと入るといきなり境内社の「来宮神社」がある。お隣に同じく境内社の日枝神社があって、そちらしか境内マップ等には記載がないのだが、あたし的には「来宮」の方が衝撃だ。いや、参拝記なんかから知ってはいたけどね。
社殿前の解説には大国主大神を祭神として、一名大黒社であるとある。大国主系のキノミヤが持ち込まれたのか。いつごろどんな経緯で箱根にキノミヤさんが入ったのか大変興味深いが、今の所は良く分からない。

ま、ともかく箱根神社と言ったらまず第一に観光名所であるので土曜のこの日なんざ人が切れる事もない賑わい。あ、この辺毎度まずお詣りをしてから戻って撮っていってますが、煩雑になるので記事は道順で。
境内社には「第六天神社」もある。神仏分離令後もひそかに祀られてきたと解説にありますな。あたしはここまでに関東の第六天が何ぞやという点には一家言ある所までは来ており、なんだか嬉しい。見える!私にも見えるぞ!(©赤い人)みたいな。
いやもうさすがの大神社でございます。研修殿となぁ。ずいぶん立派だし。箱根神社と言うと変わったお祭も多ございますので巫女さん達の教育なんかも大変なんでしょうな。
これは「矢立杉」という御神木。坂上田村麻呂が東北平定の折箱根に参拝し、矢を奉納したという…のだけれど、実はこの解説では「何故杉が関係するのか」がさっぱり分からない。ここには御神木と建築造船の用材としての大木との深い関係がある。
そして本社殿へと向う参道階段へと。まー、こんな賑わいですのことよ。とても外人さんも多い。
この参道沿いには「曽我神社」が。曽我兄弟の弟箱王丸は箱根神社に小僧さんとしてあずけられていたので縁も深い。脱走してんだけどね(笑)。その脱走時に頼ったのが北条時政。色々な人のドラマの交錯する所なのだ。
あ、当時は箱根神社でなくて箱根権現ですな。箱根権現はそもそも修験の一大メッカとして寺社勢力と見られたので延喜式神名帳にも記載がないのです。明治期の神仏分離令で仏教関連施設を皆廃して「神社」になったのですな。
そんな箱根神社本社殿。参拝するのにこんなに「並んで待った」のははじめてだ。あたくし今回はガチで「祈願」しに参っておりますので、深々と頭を下げております。
これまで何百社と回っておりますが、特に祈願というのはしてませんでしたが、今回は関東甲信越レベル進出に併せての関東総鎮守・箱根大権現への参拝、さらに旧暦初詣というわけで関東各地お騒がせ致しますとやっとります(笑)。
しかし箱根権現は「その発願が今生で成らなければ来世に至って〝やらせる〟ことになる」とまで言われるオトロしい神格なんだそうでございますればちと気合いを入れての参拝なんでした。
箱根神社の巨大しゃもじ。飯とる=召し捕る〜必勝祈願なんぞとされまして、箱根駅伝なんかでもたまに出るようですが、あたしは箱根にも社宮司が入ってたんだろうなと思う。
狛犬さんもさすがの風格。ところで大神社というのはやはり周辺文化がパッケージされてる所があるので、あれこれ見て回って自分の目玉がどのくらい成長したか実感するのに良い所ですな。あぁ、これは分かる…というのが多いと楽しい。
本社殿脇にかの「九頭龍(くずりゅう)神社」もございます。何か近年人気の様で。しかしここは観光の便のために建てられた分祠。
これは御神木そのニの「安産杉」。かの北条政子も参拝したという。実は通路を辿って見ただけではただの大杉にしか見えない。「安産」てんだからウロがあるんだろ、と思って横に回ったらその通り。
あたしはここで大失敗をしてしまった。ここから本殿裏へ道を抜けると箱根中興の祖の謎の高僧万巻上人の墓という「万巻上人奥津城」という石塔があるのだけれど、そちらへ向う(と思った)石段入口に柵があった。あら、一般人は入れないのね、と諦めたのだけれど、道が違ったらしい(TΔT)。
ま、「万巻上人奥津城」は地元の人は「見たら病気になる」として近づかん所なので、この勘違いもひとつの縁かな、ということで。
しかし箱根権現は特に本社殿の造りが伊豆山権現と良く似ている。伊豆山に御神門はないが全体的な造作の風は同じである。兄弟神社、というか兄弟権現なのだ。これは後の本宮の方でさらに良く見てみることにしよう。
中心参道の脇には神池等に下る道もあり、そちらに「恵比寿社」が。これは昨夜の芦ノ川駒形神社の蓑笠神社のことである。周辺境外社を本社地にどんどん招き入れているのですな。保全のためかしら。社地内で七福神揃えようとしてるようにも。
そんなわけで弁天さんも。ここでは弁天は九頭龍をおさえるコードとして祀られているらしい。後に見る九頭龍神社本社にも弁天さんがおわする。
この絵馬が弁天さんの役割を端的に表している。江の島のコードが入っているのか。弁天は元々堂ヶ島(芦川の東側の岬)に祀られてたというが、その南西の湾が先に述べた三島の人たちが来たという字三島である。
湾の両脇の岬に恵比寿・弁天と祀るのは伊豆の漁師の通例だ。弁天もこれが持ち込まれたのではないか。いずれにしてもやはりこの辺の弁天は伊豆・鎌倉を繋ぐ何かに関係する存在なのだと思う。
さて、この辺からいよいよ「龍の湖・芦ノ湖」となってくる。ガオ。写真は芦ノ湖の湖底に眠る湖底木「けけら木」。水辺に竜はつきものだが、それを信じさせる実体がある所は強い。そして、芦ノ湖にはそれがあるのだ。
「けけら木」の「けけら」とは「こころ(心)」の古語とされ、すなわち湖の心の木だと解説されている。箱根芦ノ湖にはくり返される箱根の地殻変動で、地滑りにより大地ごと湖底に沈んだ樹々の化石が「生えて」いるのだそうな。下の写真のけけら木は台風でそのひとつが浮上したものである。
湖底のけけら木は透明度の高い時には船上から見えると言われる。というか、「名木」には名前までついている。錫杖木(しゃくじょうすぎ)、故杉(こすぎ)、影向杉(ようごうすぎ)、目代木(けけらき)、栴檀伽羅木(せんだんきゃらぼく)が湖底の五名木とされている。
そして、最後の栴檀伽羅木こそが、万巻上人が芦ノ湖の悪龍「九頭龍」を調伏して繋いだ木だとされるのだ。しかし、あたしは水底にゆらめき見えるこの湖底木こそが芦ノ湖に竜が棲む、という人々のイメージを形成してきたのだろうと思う。お次はその九頭龍神社の本社へと向います。

箱根神社から芦ノ湖畔を小一時間ほど歩いて北上すると「九頭龍の森」という公園に入り(入園料500円也)、その園内に白龍神社と九頭龍神社本社が鎮座している。写真はその「白龍神社」。
白龍とは権現時代箱根権現で祀られていた数々の龍神の一体だそうだが、伊豆山権現が伊豆山の地主神とするのがまた白龍である。この芦ノ湖の白龍神社は湖に対して横を向いている。しかも参道はUターン参道だ。小さい祠だが、底は深いかもしれない。
さらに湖沿いに歩くと、行く手に湖中の鳥居が見えてくる。これが「九頭龍神社」の鳥居だ。

かつて芦ノ湖ではこの九頭龍が暴威をふるい、村人は娘を贄に差し出していたという。それを万巻上人が調伏し、湖底の木に繋いだ。つまり今でも九頭龍は湖底に繋がれているのだ。おそらく先の湖中の鳥居の先だろう。
夏の龍神祭(湖水祭)では、箱根神社の宮司自らが船でこの位置に来て赤飯を湖中に投じる。赤飯が浮くことなく沈めば九頭龍が受けとった証とされる。そして、湖面には夜万灯がともされ、花火が打ち上げられる。この祭は一名「竜灯祭」とも言われる。
ところで伊豆三嶋神話にも芦ノ湖の大蛇が出る。この大蛇に嫁がされようとしていた三人姉妹が三嶋大神に助けられ、後三宅島に三柱の后神として祀られている。大蛇は三宅島まで姉妹を追っていって三嶋神と御子神達に討たれる。
この大蛇と九頭龍はどこかでつながっているのではないか。それを解くためには伊豆と箱根と高麗(大磯)と鎌倉(江の島)を結ぶ「何か」を浮き上がらせないとイカンのだと思う。
九頭龍神社の前には境内社として弁天さんが祀られている。龍を制御する弁天だ。
弁天さんへの参道階段は湖中からのびている。これは竜蛇神に仕えた巫女達の名残だろうか。万巻上人は常陸鹿島神宮の社家の出であったとも伝わる。「蛇の飼い方」を熟知していた人だったのかもしれない。
ここ九頭龍神社の側から箱根神社本宮のある駒ヶ岳山頂へのハイキングコースが出ているのですが、さすがに時間的に難しい塩梅なので(山道が夜になる可能性は絶対ダメ)、ロープウェーで(往復1050円也)。いやあのロープウェーはちと勿体ないな。絶景なのにガラスがイマイチきれいでない。
山頂はさすがの光景であります。芦ノ湖と、遠くに光るのは駿河湾。もうちっともやってなけりゃ色々確認できたんですが……あんま欲張んなよと(笑)。昨日からの報告は一日の出来事です(笑)。

そしてこれが駒ヶ岳山頂の箱根神社本宮(元宮)。なんて絵になる……。有名な前半述べてた「箱根神社」は里宮なんですな。
駒ヶ岳。太古神が白馬に乗って降臨したという。その降り立った石がこの「馬降石」。由緒に明示されませんが、降り立った神とはおそらく大磯高麗(こま)山の神のことである。この辺の由来は多分伊豆山権現と共通している。
しかし駒ヶ岳が神体山なのではなくお隣の箱根最高峰の神山を「天津神籬」とし、駒ヶ岳を神山を祀る「天津磐境」としたのだ、と伝わっている。写真がその神山。
確かに箱根神社本宮もその背後延長に神山の頂上を捉えるように構えられているのだけれど、しかし。あたしはそれだけではないと思う。このマップを見ていただきたい。ズームアウトしていってその延長に何があるか。
これが、今日、伊豆山伊豆山と繰りかえしていた理由なのだ。箱根権現と伊豆山権現の繋がりはおそらく考えるよりずっと深い。社殿の脇には旧社殿のものだろうか、不思議な石がゴロゴロしていた。そして彼方には富士も聳える。
まったくもってタイヘンな宿題を山盛り出された箱根権現参りだったと言えよう(笑)。実にタダシイお詣りの姿であると自画自賛したい。そんなこんなで下ってきますと日も暮れて。十二時間以上(ロープウェイ以外)歩きに歩いた箱根行でした。

補遺:

箱根は妙見だ北辰だと言われはするが実態は良く分からない。箱根神社の御祭神は天孫瓊々杵尊・彦火々出見尊・木花開耶媛尊であり、本宮も同様。もとは箱根権現・大神であるが、神仏分離でこうなったかというと江戸期の『新編相模国風土記稿』には上記の祭神名があるのでそうでもない。

これが北辰と言われるのは実は周辺にある「駒形神社」による。駒形神社は箱根本宮のある駒ヶ岳(駒形権現)を祀るが、明治期に祭神が天御中主神とされた(須雲川・畑宿・芦川共)。これが北辰だったからじゃないかとされるのだが今となっては良く分からない。

駒ヶ岳山頂の箱根本宮が実は造化三神を祀るとか言われるのも、どうもこの周辺駒形神社からの発想らしい。しかし、駒形神社各社でも伝世のご神像が観音像であったりで妙見菩薩を祀ったりということもない。

ちなみに、箱根神社の境内摂社であり、万巻上人も箱根大神と並んで厚く尊崇したという駒形神社は天御中主神を祀らない。全体的には北辰が盛んだった関東武士の棟梁頼朝の厚く尊崇した箱根は北辰に「違いない」というイメージ先行な所がある。

下野から上総辺りを見れば、北辰妙見信仰というのは単独ではなく地域に密に分布するものであることが分かる。箱根周辺西相模にも妙見神社はあるが、とても密とは言えない。時代も下って小田原北条によるという感じもある。「兄弟権現」の伊豆山権現にも北辰的な面は見えない。

そもそも北辰信仰で神山を天津神籬とし、駒ヶ岳を天津磐境としたというならまっすぐ南北にその軸を設定したら良さそうなものだが、そうはなっていない。本宮社殿からしても20度以上西を拝することになっている。

そして、この線上に伊豆山権現の現社殿がぴたりと位置することはこの前も述べたが、これが困ったことに(笑)より壮大な話に繋がっていく。以下九頭竜の話に続く。

九頭竜(くずりゅう)の伝説は日本各地にあるが、双璧といったら箱根と戸隠だろう。そして、この二所の話は良く似ている。どちらも成敗されたのではなく調伏されて今もその地に繋がれている。箱根を調伏したのが「万巻」上人で戸隠を調伏したのは「学問」行者である。

伝説の時代背景もその記録が編纂された時期も似ている。箱根が800年前後の伝説で『筥根山縁起并序』が12C末頃。戸隠が9C中頃の伝説で『阿裟縛抄諸寺略記』が13C後半。

かてて加えて先述の箱根本宮の社殿の向きを延長していくと、なんと戸隠に至るのだ。ま、ぐーぐるマップ上では3度ほどズレはするがこの距離ではご愛嬌の範囲だろう。これに何の意味があるのか、単なる偶然なのか、まったく困った話である。

困っていても仕方ないので、ひとまず意味があると仮定してこの線は何だべいかと考えるならば、これすなわち中央地溝帯(フォッサマグナ)である。この中央地溝帯を境に日本の東西が植生的にも人の文化的にも模様が大きく変わるという(本当かどうかは知らない)。

あるいは平安期に山伝いに跳び回っていた修験者達はそのことに勘づいていたのかもしれない。そうならば、箱根と戸隠の九頭竜とは日本を東西に分ける境の両端に据えられた強大な「サイノカミ」だということになる。なるほど戸隠の山奥に天の岩戸神話が引かれたわけだってなものだ。

まったくもって何たる気宇壮大な話だということになりましたな。はい、本日のマッチポンプエクリチュール入門編でした(笑)。

いや、そんな話もあるカモネとは思う。そして、そうなら個人的にも良い目標になる。要は箱根と戸隠の九頭竜が西国へ進出する「龍学」の道に立ちはだかるスフィンクスだということだろう。もっとも二頭とは言え「頭数」なら十八本だ。想像するだにこんがらがりそうな話ではあるが(よし、オチた)。

旧正月初詣・箱根行 2011.02.05

惰竜抄:

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