秦野行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.08.08

2010年6月21日



本日は秦野市小田急線渋沢駅の北の方を。写真は沼代の「御嶽神社」。お屋根がすごいね。住所的には堀西なのかしら。しかし地元的には「沼代の御嶽さん」のようである。もとは「蔵王宮」と呼ばれ、拝殿の中に今もその額がかかってた。
そしてこのしめ縄。神社庁掲載の写真じゃこんなことなかったのに。たまげた。近年ふとましくなってきてるようですな。もうこうなるとしめ縄というよりしめ俵である。
しめ縄のところにあった紹介文によると、どうも豊作祈願で年々太くなってきたらしい。かつては根元を東に、穂先を西に向け設え、稲妻を示す御幣をつけ、一年たって年の暮れに神社に奉納するのがしめ縄であったと書いてある。
なるほど農業にとって重要な要素を一身に体現したアイテムとしてのしめ縄、というのがあったのですな。しめ縄というとすぐ禁呪の意味ばかりを考えがちだけれど、そんな理由で太くなっていったしめ縄というもあるのだ。
この御嶽さんにも「天社神」があった。「地神」と表示されている。どーも個人的にこれは第六天同様のものなんじゃないかと思っていたところなのだけれど、裏づけその一ですかね。

そこから四十八瀬川を渡って西に鎮座する「上秦野神社」。国道246号線から農村部に入り込んでいくと、突然立派な鳥居が出現する。んが、手前の道が細いので引きで撮影できないのだ。
もとは八幡神社であったものに、一帯の小社がどんどん合祀されてゆき、ついには主祭神十九柱に至るというえらいことになっている神社だ。手前のブルーシートは茅の輪くぐりの設えでしょうかね。
しかし、これだけの神々の列というのも面白いですな(鎌倉権五郎景正も祀られているぞ)。どんな集団がこの付近に暮らしていたのかと考えると数日経ってしまいそう……あ、神社録に書くには実際それを考えにゃならんのか。
なんということはない木鼻。もっともオーソドックスな獅子と象だけれど、なんか久々にこの組み合わせを見たような。
ところで下のしめ縄で御幣が稲妻を示しているとあったが、これは農業に雨水が重要、というだけでなく、稲妻そのもの重要なのだ。「雷の落ちた田の稲はよく育つ」という俗信が広く見られる。
雷・稲妻はまた「いかづち」ともいうが、この「つち」はノヅチ・ツチノコなどと同様蛇をあらわす。稲妻は蛇神の形象のひとつなのだ。「山より降りて田の神となる」農耕の神の原型は蛇神にあるだろうと吉野裕子は言う。稲妻が田んぼに落ちるさまとはまさにその次第そのものである。
しかし一方で、電流を流した茸がよく育った、などという実験もある。もっともその実験そのものが古くからの俗信を試してみたものなのだけれど、伝承・俗信において昔の人の観察力が馬鹿にできないよい一例ですかね。

2010年6月23日



本日は秦野渋沢方面。国道246号線から大倉入り口方面への道すがら。ここは堀川の「八坂神社」。秦野の八坂さんは立派だなぁ。
おぉ!今までありそうでなかった左からの横書き。
神紋も本家祇園と同じくで、ちゃんとしている。二つの紋の入れ方はこうなのか。かっこよいな。
秦野も農村の方に来ると大変細い路地の入り組んだ土地柄となるが、この八坂さんはその結節点、ショートカットの役割があるようで、ひっきりなしに人が通る。神社が生活の一部になるにはこういうケースもあるのだ。

少し北へ行ったところの「社護神社」。小さな神社だけれど、波比伎神・足羽神・生井神・栄井神・津長井神という祭神の並びがまず面白い。これらの神々は祈年祭祝詞に見る神で、大阪式内・坐摩神社(いかすりじんじゃ)の祭神と同じだ。
詳しくはいずれのお楽しみだが、ここは諏訪ミシャグチの神とアラハバキの神の交錯する、日本人のきわめて古く、またベーシックな信仰へと繋がる神社なのである。
もっともこの神社そのものにそれを暗示する伝承や奇祭があるというわけでもなく、社殿などはもうほとんど「神輿殿かよ」、という勢いだ(本当にお神輿が中にあった)。
こちらは境内社の三峯さんとお稲荷さん。紅白の鳥居が鮮やかですな。あ、ていうかこの神社の鳥居もそうだけど純白塗りの鳥居ってはじめて見たような。
ぎゃーす!今気がついた。三峯(みつみね)って「みたけ」と読めるのか!ドンだけ脳みそ死んでんだ>俺。
しゃごじん・しゅぐうじん・しゃぐじなどの神々は、石神や地鎮石と密接に絡んでいくのだけれど、確かにこのあたりはそういった「小さな神様」が多い。三寶荒神まであった。
これは最初の八坂さん境内の后土神。こういった石神たちの紹介もしていく予定だ。
そういえばこの間載せ忘れたけれど、沼代の御嶽さんの本殿真裏も石神だった。
一見石塔のようだがよく見ると自然石のようだ。この辺はこういったものがよく生き残っているのだ。なるほど「お社護さん」が神社として残ってきたのも土地柄ということだろうか。

2010年7月18日



秦野市の大山の上り口に当たる蓑毛というところに行ったのだけれど、地図に神社庁管轄外の「浅間神社」があったので行ってみた。蓑毛から小一時間は山間の車道を歩くというところ。で、着いてみたら石祠の神社さんでした。
しかしここは見晴らしがスゲかった。秦野盆地が隅々まで見渡せるのだ。この目的で祀られている場所に相違ない。「浅間」というのは名目だろう。
ところで、この日、下の秦野市ではお祭りが行われていたのだけれど、その祭囃子がこの山上まで聞こえてきていた。下界の音で明瞭に聞こえた唯一の音である。あのテンツクというのは相当「通る」音らしい。ちょっとびっくり。
浅間神社境内にあった馬頭観音像群の一体。このあたりにはこの馬頭観音像がたくさん祀られている。それだけ馬をひいての丹沢入りが厳しいものだったということかしら。
そしてこちらが本命だった秦野蓑毛の大山登り口となる「大日堂」の仁王門。平安時代から延々大山登り口として構えていたという結構大変なところである。

その大日堂の境内に付随するように「御嶽神社」がある。この蓑毛・御嶽神社が秦野の総鎮守なのだ。ということは本筋で扱っている丹沢周辺の御嶽神社群の元締めということでもある。
古い写真だと茅葺だったのだけれど…ちょっと残念。しかし秦野総鎮守なのに地味ですね(笑)。大日堂のほうにみんな持っていかれている感じかしら。境内社とかも何にもないのだ(神楽殿はかろうじてある)。

2010年8月8日


蛇神が祖神だ、鰻が祖霊だなんぞと言いながら、あたしの「祖霊」へのイメージはちゃんちゃらヌルかった。ぬるぬるのヌルである。お盆に祖霊の魂(タマ)は川を遡って帰ってくる。そしてまた流し灯籠のようなイメージで送り出す。知識としてそれは知っていた、のだけれど……
やはり基本的にはあの人魂のようなフワフワとした存在感の希薄なモノが行ったり来たりしており、太古にはそこに蛇やらのイメージがオーバーラップしてたんでしょうなー、くらいの認識だったのだ。が、全くそれでは足りない。今日、神奈川県秦野市で次のような光景を見た。
お盆に入り、祖霊が帰ってくるのを迎える飾りが立てられていた。あるラインに沿ってお飾りが並んでいるのが分かるだろうか。あたしはこれを目にして愕然とした。そのラインは、小川とも側溝とも呼べぬ程のトタンでかろうじて溝になっている水の流れである。
たったこれしきの水の流れを祖霊は遡ってくるのか。そしてそれをここまで懸命に祀らねばならぬのか。「ここを遡ってくるのはフワフワとした人魂のような存在感の希薄なモノでは“まるでない”」とあたしは思った。
おそらく、こんな流れを遡ってくるモノとはミヅチに他ならない。祖霊のイメージとは全くもってミヅチそのものの、水筋が少しでも繋がっていれば地下だろうが地上だろうがどこまででも遡ってくるような“生々しいモノ”だったのだと思う。
そんな「モノ」に迂闊に触れれば「障る」だろう。お盆に迎える祖霊とは大変扱いの難しい存在だったに違いない。このお飾りの列は「障りなく」この時期を過ごすための必死の祈りに見える。今日は「祖霊」のイメージが根底から覆された。 ああ、そうか。これが「草葉の陰」だ。草葉の陰には水筋を遡って来たミヅチがいるのだ……などという場面のあった秦野行です。

堀西の天津(あまつ)神社。崩壊寸前のお堂という感じだが、ちと面白い。西国の人には信じられないかもしれないが、関東には「第六天を祀る天津神社」という系統がある。地神の集合のような第六天を「天津」といって祀っているのだ。
んんっ!良いね。第六天というのも、村々で祀られているのは、こういった道祖神やらの地鎮の小さな神に同様の存在である。

ここは堀西の須賀神社。来歴が良く分からない所。天王さんだったのかしら。以前写真手前の「后土神」を当たり前の地鎮塔の例として紹介しちゃったけど、実は西相模独特のものだったらしい。「地元にありふれているものトラップ」だ。
これは馬頭観音か。分かれ道にある。ずいぶんと頑強な祠にしたものである。

ここは神明神社。もう山間の畑の合間にあって、通じているのも農道である。途中道を尋ねたらお婆さんが案内してくれた。「なーんもねえとこだよ?」という台詞がトトロに出てくる婆ちゃんにそっくりで笑った。

堀山下の堀之郷正八幡。「正」と名乗るように、ここは鶴岡以前の九世紀中頃の創建と伝わる西相模でも古い八幡。ここが問題だった。
本殿裏に三柱を祀る。この形式は中井町・中村党宗家の五所八幡神社の形式と同じだ。が、五所八幡が裏手に造化三神を祀っているのに対して、ここは三島・稲荷・日前を祀る。脈絡が分からん。
そもそも八幡裏に別の三柱を祀るってのは、全国的に良くあることなのか?それとも八幡繋がり関係なく、本殿裏に末社をまとめるタイプなだけなのだろうか。この辺りだと相模三宮・比々多神社や、小田原宗我神社がそうだったが。
しかしこの堀之郷正八幡は、別の末社の金毘羅社は本殿裏じゃなく境内社としてあるしなあ。うーむ。
八幡裏の林の中に埋もれつつある道祖神。手前には既に埋もれている道祖神さんが。

少し東へ行きまして、ここは戸川。で、また八幡さん。十六世紀の記録があるという。この八幡さんがまた謎だった。
この辺は秦野ではおなじみの「天社神」で、まあ良い。
問題はこれ。本殿裏に掘り?流れ?が設えられている。写真左手前が湧水ポイントで、ずっと水が湧いているのだ。基本的には人目に触れる目的にはなっておらず、地下水か水道かも分からない。
そして本殿裏をぐるっと流れて、ここで終る。わざわざポンプで水を汲み上げているのか。なんだこれは?こういった本殿裏に水を巡らすような社殿の造りがあるのかしら。
実はこれまでも明らかに本殿の裏が小川だったり谷川だったりというという配置が意図されてる神社は結構あった。さっきの正八幡も裏はちょっとした谷川になっている。が、それはあくまで自然の川だった…と思うのだが、人工的にこうまでして水を巡らすものなのか。

その戸川八幡をすぐ見下ろす高台にある山之神社。八幡の境内社・末社ではないらしい。何とも意味ありげな並びではある。
と言った感じの秦野神社でした。しかし残念な事にあれこれ疑問が出る展開だったのだけれど、神社には全く人気がなくて(両八幡には社務所はある)何も聞けなかった。疑問部分はちょっと資料で判明するとは思えないので、話を聞かんとなぁ。

補遺:

秦野行 2010.08.08

惰竜抄:

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