秦野行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.10.31

2010年10月16日


この日伊豆はどこもかしこも秋祭りの様相なので、そちらはお休みで西相模篇を。秦野へ突撃。西相模の秋祭りは秦野も小田原も十月頭が多く、先週末で大体終ってしまっている。

まずは上智短大のキャンパスの東側にある「菅原神社」へ。もとは天満宮と言った。鎌倉時代には記録のある結構古い神社である。しかし変わった御社殿ですな。謎のシャッタ群が。よもや受験シーズンに拝殿でお守りとか?
神社近くの道祖神さんのところにあった「ゴロ石(と、大磯では言う)」。以前話題に出てたのがこれ 。縄をつけて引きずり回したり、地面をドンドン搗いたりする。

室川の方へ下りまして神社庁管轄外の「熊野神社」。以前この辺を散策した折に見つけて知ってはいた。まだ「神社巡り」という感覚でなかったので資料的な写真を撮っていなかったのだ。


何でもない「村の熊野さん」だけれど、ここには何気に凄いバリエーションの石造物が集まっている。道祖神・庚申塔・青面金剛・天社神…等々。秦野にありそうなものは七割方揃ってるのじゃないかしら。

そのまま東名高速をまたぎまして、「建速神社」へ。もと「お天王さん」。何気に秦野で現存するものでは一番古い十六世紀の棟札を所有する神社だ。「おおや」という独特の火祭りなどがあるが、それは長まるのでいずれ。
この建速神社で仰天したのが木鼻だ。鳳凰、だと?これははじめて見たと思う。あるのかこんな系統は。
しかしここの防犯センサーがすげえ勢いで、お賽銭納めるのに近寄っただけでぴーぴー鳴り出しやがった。いやいやいやいや。でもその後小半時境内をウロウロ撮影とかしていたのに誰も来なかった。役に立ってんのか?

そこから北上し、マイナな登り口ではあるが弘法山への道のあるところの「南矢名八幡神社」へ。もう住宅も切れ、鬱蒼と生い茂る山林の暗がりにこんな鳥居がある。いかにも人の来なさそうな神社だが……
これがあり得ないような巨大な社殿が鎮座している。秦野の基準からして村の鎮守レベルでは到底無い。なんだ、ここは。ここは中村党土屋氏と波多野氏の土地の境界に近い。なんかあったのか。
ところでこの八幡さんの境内にもこんな石祠の一群がありますが、こういうのは村の辻々にあった祠さんが代替わりしまして古いのが神社に納められて山に還りつつあります、というもので、別に「いわくありげ」とかじゃないので大丈夫ですよ〜。
そしていよいよ弘法山へ。な〜んて、実は秦野駅の方からだと山頂直前まで車道が通って道も整備されてる「お散歩ハイキングコース」 なのですが。伊豆行のせいでなんかこういうルートを越えないと気がすまない体質になってるのかあたしは(笑)。
弘法山は名の通り山頂お大師さん伝説があれこれあるのだけれど、とりあえずその辺は一挙割愛。それはいずれで、今日は山頂から大磯を眺める光景を。遠方が大磯丘陵でして、左端が高麗山。いや、やっぱこりゃなんかあるで。
サイですかニャ。ボクは眠いのニャ。……なぜか眠猫だらけの弘法山山頂です。目視で8匹はいた。しかも全部丸々コロコロと。こういうの公表すると捨てにくる人が出るのかしら。ダメですよ、ダメ。

北側に山下りまして「加茂神社」。神社庁管轄外で由来も何もまったく分からない。扁額は「加茂大神」と大層だった。ナンでこんなところに加茂神社?しかも隣りに「めんようの里」とかあるし。ハテ面妖n…(ry
久々の「ぬこは見ていた!〜加茂の黒猫篇」。あ、ついったではやってなかったか(笑)。あれ?そういえば意外と伊豆では猫見ないような?

秦野市街に戻ってきまして「八坂神社」。もと牛頭天王社だ。ここが重要で、この辺り一帯の字を「御門」という事に絡む。御門(みかど)とエラい名だが、将門がここを新都にしようとしたのだとか、将門の弟が住んだのだとかすげえ伝説がある。
んが、一方でこの「牛頭天王社」があったから「天王と天皇」をかけて「御門」と呼んだのだ、という身も蓋もない説もあるのだ。将門伝説一転オヤジギャグである(笑)。

そして本日ラストの「古峯神社」。見た通り小さな小さな街角の祠のような神社だけれど、とても面白い神社である。歴史も何も明治に地区の火防の神として勧請された新しいものなのだが、新しいが故の逸話があるのだ。
この古峯神社、関東大震災時の大火事がこの神社の隣地まで来るやいなや風向きが変わり、神社から氏子の地区は類焼をまぬがれた、という奇跡を起こしているのだ。ま、愛宕さんでも秋葉さんでも火防の神さまにはつきものの伝説なのだけれど、問題はその先である。
この奇跡故に、この古峯神社の例大祭は関東大震災の前日の八月三十一日となったのだという(今は八月最後の終末)。つまりここは、例大祭の日取りの決定の理由がリアルにある神社なのだ。
これは新しい故の面白いところだろう。しかし本来祭りとはそういったリアルなその地の出来事に発端している方が自然ではある。街角の祠も見ようによっては大変面白い、という一例でした。

2010年10月17日


毎度何かと小忙しい日曜ですが、今日は午後から時間がとれたのでまた秦野へ。ま、とれたと言っても秦野に着いたら三時過ぎなんでこの季節はもうギリギリなんだがな。

以前寺山の鹿島神社まで歩いてますので、今日は地図右の東小あたりから西へ。夕方の山間農村地帯でいかにも「か〜ら〜す〜なぜ鳴くの〜」という世界を「朝日神社」へ。右の小さな赤鳥居が良い感じですな。
その赤鳥居の方のお稲荷さん。なんか変なのが来た!とお狐さんたちがわらわら見物に出た、という感じにも見えて良いね。
この朝日神社は正徳年間建立というが、祭神は建速須佐之男命。天王さんだったという話も無いが、いきなり須佐之男命を勧請するってのはなんなんだろうね。
ところでこの朝日神社一帯の字を八幡という。八幡神社無いのだが。かつてあったのか。ここは波多野氏の拠点とされる土地の近く。あったとしたら結構重要な八幡なんだが。八幡神社がないのに地名が八幡になる事はあるのか?
付近の石造物群。道祖神さんに石臼系も。なぜかおタヌキさんも。
そのおタヌキさんのまわりに饅頭みたいな石がたくさん積まれている。昨日のゴロ石の祖型みたいなものなのかしら。丸石→饅頭石→ゴロ石、とかね。
この道すがらに源実朝の首塚がある。首塚と言ってもまわり畑でなんか歴史文化センター(という名の農家のおっちゃんおばちゃんの集まるところ)とかが隣りにあったりで全然おどろおどろしかったりはしない。
この由来書きには実朝公の首塚守護の一族三浦武氏のこともずいぶん書いてあった。もとは三浦武村(現横須賀武山)というところに居た一族だったそうな。

そして本日第一目標の「東田原神社」へ。あぁあ……もう灯りがついておる。ここは倭建命 ・誉田別命を祭神とするが、その辺りの由来が伝わっているところ。
もともとは観音堂だったそうだが、神仏分離に際し、この辺りの小字を「御嶽」ということから西相模の御嶽神社に連なる倭建命を祭神としたのだそうな。この話が何気に難しい問題を提示する。
秦野「大竹」の「嶽神社」や、南足柄「三竹」の「御嶽神社」など、御嶽神社は時々地名とセットになっている。あたしはこれは神社が先で地名がそれにちなむのだと思っていた。んが、東田原神社では御嶽の地名に準じて祭神が勧請されている。それでは「御嶽」という地名は何なのか?
うーむ、うーむと唸りながらさらに道行きまして天社神さんが。この秦野名物天社神を気にしていると「天」の字の異字体をたくさん目にする事になる。いやもうその場で考えたんじゃねえのってなものも。
そんなこんなで西田原の八幡さんまで来たものの、既に日が暮れタイムアップな感じ。ここもなんだか不思議な神門だか神楽殿だか分からないような建物があったりするのだけれど写真は暗過ぎで。またいずれ。
おまけ。道祖神さんは一名道陸神とも言うが、実際そう表記されているものは少数派だ。これがぽこっとあるのも流石の石造物天国秦野といったところ。

2010年10月31日


中々この季節だと台風一過ピカーとはいきませんなぁ。今日は東京で所用を終えて午後ににょろっと秦野へ。といっても秦野駅に着いたら三時半。分厚い雲。ま、行くだけ行っとけ、という事で西田原八幡神社へ。

この間も最後に参拝した西田原八幡神社。遅過ぎて暗過ぎてまた今度、という事だったのだが…結局今日も暗い(笑)。
ここに不思議な建物があるのだ。鳥居を潜ると本社殿との間にこう立ちふさがる。位置的には「門」なのだけれど、どう見ても建物の背面に見える。
反対に回るとこう。神楽殿+倉庫?何にしてもこの建物の「表」はこっちという感じ。なんじゃこれは。
まー、シーズンオフの村の鎮守の神楽殿…にしか見えん。一番考えられるのは「鳥居の位置が違った」だろうか。この建物は普通に神楽殿だったのだけれど、表通りが今の位置に来て鳥居がそちらになったのでぶち抜いて門にした、とか。
ここで(twitter上で)かわひらこさんから先の建物は「割拝殿みたい」とのご教示が。一応『神奈川県神社誌』には「下拝殿」となっている。ま、結構似たような物だろう。いきなり謎が解けた(笑)。ありがとうございます〜。
そんなこんなで秦野西田原八幡神社でした。といってもそもそも東伊豆・西相模の神社で「割拝殿」なり「下拝殿」なりというのは初めて見た(随神門はあるが)。地域的にはちょっと珍しい神社、と言えるだろう。

補遺:

秦野行 2010.10.31

惰竜抄:

関連ページ:

秦野行
同年六月から八月の秦野行はこちら。蓑毛の御嶽神社など。
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