矢倉岳の主(前)

原文:神奈川県南足柄市


足柄平野から西の方をながめると、富士山がよーく見える。富士山には、コノハナサクヤヒメという神様が住んでいるそうな。 その富士山の前の方にぼこぼこと連なっているのが、足柄や箱根の山々だ。

その中の一つに、ちょうど、でかいとんがりきのこをぽんと置いたような山がある。名前を《矢倉岳》という。《タケノコシ》なんていう呼び名もある。

この山の主は、山を七巻半もするような大きな蛇だったと。

矢倉岳の主は、富士山があまりにも大きいので、くやしくてならなかったそうな。それに、姿がきれいだといって、みんなからチヤホヤされているのが面白くなかったんだと。

それで、大蛇は、富士山になんか負けるものか、と、自分の山をぎゅっぎゅっとしぼりあげて形を整えたんだと。そして出来るだけ高くして、富士山をおおいかくそうとしたんだと。

今でもな、形はそのときのまま。場所によっては、矢倉岳のためにあの富士山が見えなくなることがあるんだ。

こうして矢倉岳の主が、苦労してようやく形を整え、背も高くしたというのに、ふり向いてくれるものはなかったと。

主は、せめて地元の矢倉沢の人たちだけでも認めてもらいたいと思って、良いかやをいっぱい生やしたんだと。

ところが、山々は木があんまりないし、坂は急だし、水はないし、村人らは、やっぱり、いつも富士山の方ばかり眺めていたんだと。

それに、矢倉岳には一年に一度かやを刈りに入るが、主がすぐに顔を出すものだから、こわがって寄りつく者がいなくなってしまったと。(以上前段)

『私たちのふるさと昔ばなし』(小田原青年会議所)より

追記