蛇っ食い嘉衛門

神奈川県海老名市


昔は貫抜川の川尻がダブになっており、高い真菰が生い茂る寒気を催すようなところだった。元禄宝永のころだろうか。社家に治衛門の息子の嘉衛門という百姓がいて、よくダブで漁をしていた。その六月のある日も、仲の良い作太郎を連れてダブに出ていたが、突然大蛇が現れ、作太郎を横咥えにした。

剛胆な嘉衛門は出刃を取り出すや、水に飛び込み大蛇の喉元を刺した。これにて大蛇はのたうち苦しみ、やがて腹を上にして浮いたが、作太郎を助けて岸へ上がろうとする嘉衛門に、今度は三、四尺位の蛇どもが群れをなして襲いかかってきた。

もう得物もない嘉衛門は、作太郎を岸に放り投げると、絡みつく蛇どもを片っ端から喰い千切り、握っては噛み潰し、血みどろとなって闘った。同じころ、虫の知らせを感じた女房が、観音様に灯明をあげると、御本尊が倒れた。これを治衛門に告げると、治衛門は長柄の大鎌を担いで駆け出した。

治衛門がダブヘ着くと、息子の嘉衛門が血みどろで蛇の群れと闘っている。そこに治衛門の大鎌の加勢が入り、どうにか嘉衛門は窮地を脱することができた。半死半生の作太郎は塩でとかしたナメクジのぬめりを大蛇の歯形の跡に塗られどうにか助かった。これは天敵の持つ不思議な力を利用した治療法だという。

この凄絶な蛇との闘いは評判となり、みんなは嘉衛門を「蛇っ食い嘉衛門」と呼ぶようになった。その後、親子はダブの端に小さな石塔を建てて蛇の供養をしたが、それ以来、嘉衛門はぷっつり漁をやめてしまった。社家には蛇の話が多く、昭和にも大蛇を見たという人がいたが、捕まったという話は聞かない。

『海老名むかしばなし 第5集』
(海老名市広報広聴課)より要約

追記

貫抜川が相模川に流入する辺りが舞台。ダブは川曲やこの話のような川尻で、水がよどんで沼淵のようになったところを言う。同海老名では、いわゆる「ヨキ淵」の話で手斧(よき)を落とす話なども、このダブという水場を舞台に語られる。

時代が下ると百姓らが大蛇と一大格闘をする話(それで祟られるというわけでもない)も見えてくるが、この海老名の嘉衛門もそういった「剛胆な村人」の一人。ナメクジのぬめりで血止めをしているところなど面白い。しかし、この話で注目すべきはそのタイトルと親子の名でもある。

西多摩の瑞穂町の狭山池(貯水池の狭山湖ではない)のほうに、「じゃっくいじえもん」という大蛇と闘った「剛胆な村人」の話があるのだ(出典は立川から)。この「じえもん」は「次右衛門」だが、海老名の嘉衛門の父も「じえもん・治衛門」であり、どうも無関係にそれぞれある話とも思われない。

狭山池のほうでは、その話は池の水を玉川上水の助水としたことを反映した話だといわれているが、あるいは海老名の嘉衛門の話も、何らかの治水・水利事業を反映した話であるのかもしれない。